見出し画像

『ラヴ・ストリート』【11】

フレンチトースト
夏目啓太郎は、強盗の追跡捜査を担当した警察官に話を聞いていた。最後の目撃者について情報を得ようとしていた。
「公園で犯人を目撃した男女の名前って分かりますか?」
「聞かなかったんだよね。犯人らしき男が自転車で走り去ったっていうから、すぐに追いかけて」
「そうですか。ちなみに犯人が逃走に使った自転車の色は黒で間違いないですよね」
「パチンコ店の従業員も、高校生たちも、そう言ってるから間違いない」
「しかし、デザインや種類は特定できなかった」
「従業員は色しか見てないし、高校生たちはママチャリって言ってたけど、これっていう確証もなくてさあ」
「ママチャリって、主婦が乗るようなごく普通のやつですね」
 そう言いながら、啓太郎は、はっと気がついた。
「さっきから、高校生たちって」
「その目撃者」
「その男女は高校生なんですか?」
「そうだよ。だから、犯人が逃走中で危ないから早く帰りなさいって言って、我々は逃げた方角に車を走らせたってわけ」
「そこからは目撃情報も無くて、犯人は見つからなかったんですね」
「そう。どこかの家に、逃げ込んだとしか思えないんだよね。翌日から、周辺の家に一軒一軒訪問して回ってさあ。聞き込みも随分したんだけど」
「その最中、二日後に、お金が戻ったんですね」
「そのとおり。何だったんだろうなあ。まあ、話せるのはこんなところかな」
「お忙しいところ、すみませんでした。最後の目撃者を探し出して話を聞くのは難しそうですね。高校生だったとは」
「あっ、でも、二人の学校は分かるよ」
「えっ?」
「あの制服は、フゾクとセイジョ」
「間違いないですか?」
「ああ。フゾクは特徴的だし、セイジョはうちの奥さんの出身校だから」
「うちの母も、セイジョです」
「そうか。世の中狭いなあ」
 確かに狭いと啓太郎は思った。一千万円の拾い主のエリもそうだった。
「外見とか覚えてませんか?」
「男の子は、すごいイケメンだったなあ。俳優の杉澤洸平に似てて」
 啓太郎は俳優の名前を聞いてもピンと来なかったが、手帳に書き留めた。
「女の子の方は?」
「女の子は、これといって印象にないなあ。普通の感じ。確か髪が長くて、三つ編みにしてたような」
「三つ編みですか」
「ああ。俺が話しかけている間中も、ずっと手を繋いででさあ。若いっていいよね。あっ、いけね。時間だ。じゃあ」
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「おお」
 啓太郎は警察署を出て、長年乗り続けている黒い軽自動車に乗った。そして、フゾクとセイジョのどちらへ行こうかと考えた。少し考えてからセイジョへと向かった。今まで取材した経験からすると、女子高生の方が接しやすい。口が軽いというべきか。とりあえず三つ編みの女子生徒を捜し出して、犯人の様子をもっと詳しく聞こうと思った。その後、必然的にフゾクの男子生徒も判明するだろう。
 啓太郎がセイジョに着いたのは午後二時だった。当然、授業中で門から出てくる生徒はいない。啓太郎は、学校の向かいにある喫茶店『カサブランカ』で、生徒が出てくるのを待つことにした。丁度、腹もすいている。昼食を食べていなかった。
「いらっしゃいませ」
 ドアベルがちりりんと鳴るのと同時に、年配のマスターが元気に声を掛けてきた。店はコーヒーのいい香りがした。時間帯のせいかカウンター席に男性が一人いるだけだった。馴染みの客なのだろう。新聞をゆっくりと丁寧に読んでいる。窓際の席からは、セイジョの正門がよく見える。
 啓太郎は窓際の席を指差して言った。
「あのう。一人なんですけど、混んでくるまで窓際の席に座っていいですか?」
 マスターがカウンターから笑顔で答えた。
「はい。どうぞ。まあ、うちは、そんなに混み合ったりしませんし」
 カウンターの客がくすっと笑った。
 啓太郎は会釈すると席に座った。マスターが水を運んできた。昔読んだ『ユング心理学』の本に描かれていた「老賢者」の絵に似ていた。流れるような白髪と白い髭。世俗に流されないような風格。口調も穏やかで、時の流れをゆっくりにしてしまうような雰囲気を醸し出していた。
「何になさいますか?」
「お勧めは?」
「セイジョの生徒さんには、フレンチトーストが人気ですが」
「じゃあ、それとコーヒー」
「かしこまりました」
 古くて色あせた柱、レンガが埋め込まれた壁、丁寧に磨かれた木の床。時計の文字盤が黄ばんでいる。奥の壁には、古い映画のポスターが貼ってある。『カサブランカ』。この映画から店の名前をつけたらしい。「SINCE 1968」という木のプレートがカウンターの横にかかっている。月日を感じさせる店だった。
 母の美代子も学生時代、この店に来たことがあるのかもしれない。友達と将来や恋愛について、屈託のない笑顔を浮かべて語り合ったに違いない。啓太郎はあれこれと想像を巡らせた。しかし、その後の運命は予期せぬものになった。おそらく父の犯罪が原因で実家から勘当されたのだろう。女手一つで啓太郎を育てていかなければならなかった。
 カウンターからジュッというフライパンの音がした。同時にバターの焦げる芳ばしい香りが広がった。啓太郎は懐かしい匂いをすーっと吸い込んだ。
 フレンチトーストには思い出がある。小学生の時、友達を家に連れてくると、仕事が休みだった美代子が、さっと作って出してくれた。当時、その存在はあまり知られておらず、友達は皆、初めて食べたと言って喜んでくれた。それを作る母が自慢だった。懐かしいおやつの一つだ。恥ずかしい話だが、啓太郎は三十四歳にもなって、まだ美代子と一緒に暮らしていた。マザコンと言われてしまえばそれまでだが、同じ札幌に住んでいて、母ひとり子ひとりなのに無理して別々に暮らすこともないと思った。三ヶ月前、美代子の病気が分かった時、それを痛感した。痛みに眠れずにいる母の背中を、さすってあげることができる。
「お待たせしました」
 フレンチトーストとコーヒーが運ばれてきた。フォークとナイフがペーパーナプキンに包まれきゅっとひねってある。啓太郎は懐かしいと思った。
「ごゆっくりどうぞ」
「いただきます」
 フレンチトーストはミルクと卵をたっぷり吸い込みふんわりと柔らかく、周りはカリッと芳ばしく焼けていた。ほのかに甘い香りがし、上にはシナモンパウダーがかかっている。横にはイチゴが半分に切られハート型を作っている。これは女子高生に人気だというのも頷ける。
 啓太郎は一口食べてシナモンの味にあっと思った。まさに美代子が作ってくれたフレンチトーストだった。大人になってからも何度かフレンチトーストを食べたことがあるが、味も形もパンの厚さも微妙に違った。メープルシロップや蜂蜜がたっぷりとかかっていて、シナモンだけのシンプルな味ではなかった。美代子はこの店からフレンチトーストの作り方と味を学んだに違いないと思った。ということは、やはり学生時代、この『カサブランカ』に通っていたのか。視線をカウンターに向けた。
 マスターは若かりし頃の母を知っているのかもしれない。
 店内には映画『カサブランカ』のテーマ曲『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が流れていた。啓太郎はその曲を知らなかったがノスタルジーを感じて聞いていた。不思議と心に残るメロディだった。曲が終わっても頭の中で繰り返し流れていた。
 母はフレンチトーストの味を、まだ覚えているだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?