『ラヴ・ストリート』【25】
薄情なる少女(それぞれのペルソナⅡ)
霧島エリは、部屋の窓からしんしんと降り続く雪を見ていた。黒い空から次々と絶え間なく落ちてくる。家に帰って来てすぐに携帯電話が鳴った。光輝からのメールだった。
他に好きな子ができた。だから、もう会わない。さよなら。
しかし、それを読んでもショックを受けなかった。普段から覚悟ができていたせいもあるが、タイミングがあまりにも不自然だった。数時間前、雪だるまになっていた光輝の姿が思い出された。どうしても、別れのメールというよりも助けを求めるメールのような気がしてならなかった。思い上がりも甚だしいと言われるかもしれないが、きちんと真意を確認すべきではないのか。そんな思いに駆られていた。ずっと胸騒ぎが収まらない。
光輝に何が起きたのだろう。こんなメールをする前に、わざわざ学校へ来るなんておかしい。そういえば、フリーライターの夏目啓太郎は、その後、どうしたのだろう。そもそも、光輝と二週間会わないでいたのはそのせいだった。光輝を突き止めたのだろうか。会って話をしたのだろうか。
エリは引き出しにしまってあった啓太郎の名刺を取り出した。電話をしてみようか。かえって怪しまれるだろうか。いや、もうそんな初期の段階ではない。エリの知らないところで、すでに追及の手が光輝に伸びているのかもしれない。
エリは意を決して携帯電話を手にした。そして、部屋の隅に隠れるようにして、名刺の連絡先に電話をした。
「はい。夏目です」
「あのう、霧島エリです」
「ああ! どうも」
啓太郎は少し驚いていた。
「お聞きしたいことがあるんですが」
「はい」
「最後の目撃者。三つ編みの子は見つかりましたか?」
「・・・はい」
「そうですか」
エリは、その先、何をどう聞けばいいのか分からず黙ってしまった。顔をつきあわせて話す時と違って、電話の声から受ける啓太郎の印象は誠実で、大人の風格を感じさせた。
「君だよね」
啓太郎は、ものすごく優しい言い方をした。エリの全身を覆っている棘をそぎ落とすような効果があった。
エリは、自分でも驚くほど素直に返答した。
「はい」
「どうして、最初に言わなかったの?」
「言いそびれてしまったというか、変に誤解されたら嫌だと思いました」
「そうか・・・」
「私でよければ、何でも聞いて下さい」
「えっ?」
次の瞬間、エリは早口で喋りだした。早口は沈黙よりも効果的な防衛手段だった。
「私、犯人、見ました。黒っぽい服装をしてて、あと帽子。サングラスもしてました。それから・・・」
エリは啓太郎の柔和な態度に、一瞬にして無防備になってしまった自分を取り繕いたかった。たたみかけるように言葉を発することで、崩れかけていた防護の壁を何とか支えて踏みとどまりたかった。物わかりのいい素直な少女は必要ない。「黒い自転車で、猛スピードで・・・」
しかし、そこまでが限界だった。強がった反動はいつも涙腺に訪れる。エリの瞳から涙があふれてきた。途中から涙声になり、それ以上は話せなくなった。
「大丈夫?」
「えっ?」
「泣いているよね」
「いいえ。まさか」
エリは涙をぬぐい、何とか平常な声を取り戻した。電話であったのが救いだった。
「もう事件のことを君に聞いたりしないよ」
「えっ?」
「取材もしない」
「どういうことですか?」
「この事件のことは記事にしない」
「本当ですか?」
「ああ」
エリはそれを聞いて胸をなで下ろした。最悪の結末を回避することができた。光輝を守ることができた。別れと引き替えに守りぬいた。守った。そう結論づけた瞬間、すぐに不安が舞い戻ってきた。とたんに心臓がばくばくと大きく動き、こめかみにまで震動を伝えた。冷静に考えると疑問は何一つ解決していない。それどころか増えている。啓太郎は光輝の存在を突き止めたのか。光輝からのメールはそれと関係があるのか。強盗事件の全容を知り得たのか。どうして、突然、この事件を記事にしないと言い出したのか。核心の部分は何も聞き出せていない。どうしようか。
「どうして・・・」
「ん?」
「どうして、記事を書くのをやめたんですか?」
「必要がなくなったから」
「どうして、必要がなくなったんですか?」
「追求する意味がなくなった」
「どうして」
エリはまた言葉に詰まった。理想的な答えが返ってくればくるほど喉を締めつけられた。
啓太郎は全てを見透かしているように言った。
「どうして、追求する意味がなくなったか。だね」
「はい・・・」
「南城くんのことが心配?」
「えっ?」
やはり、啓太郎は光輝にたどり着いていた。「もう・・・南城くんのことを、知っていたんですね」
「ああ」
エリは啓太郎の返事に体の力が抜け、その場に座り込んでしまった。光輝を守る壁を支える気力もなかった。もう涙すら出ない。二人で過ごした一年という時間が、暗く冷たい雪空に吸い取られていく。エリは外へ飛び出して、積もった雪の上に体を投げ出したい衝動にかられた。白い雪に頬をつけて目を閉じる。冷たさを感じなくなるように、そのまま眠ってしまいたい。しかし、意に反して体は全く動かなかった。かろうじて指先だけはその狂気を感じ得たが、理性が支配する脳を掻きむしり壊すことはできなかった。
*
夏目啓太郎は、光輝を家の近くまで送り届け帰宅したところだった。つけたばかりのストーブの前にしゃがみ込み、冷えた手足を向けながら、光輝とのやりとりを何度も頭の中で繰り返していた。そこにエリから電話がかかってきた。正直、どうしようかと迷った。光輝からは口止めされている。しかし、エリに何も言わないと、誤解し傷ついたままになってしまう。啓太郎はいとも簡単に光輝との約束を破った。
「南城くんとは、今日、初めて話をした」
「やっぱり会ったんですね」
「ああ」
「事件のことは全部聞いた。霧島さんが関係ないことも」
「関係ないって・・・」
「彼は自分から犯人だと告白した」
「えっ?」
「本当は口止めされていたけど、君の気持ちを考えたら、きちんと知らせるべきじゃないかと思って。南城くんが君に送ったメールは本心じゃないよ」
「メールって・・・」
「わざと目の前で送ってみせたんだ」
啓太郎はこれで誤解が解けると思った。光輝の罪は重いが、だからといって、二人が関係を断つ必要はない。いや、自分が絆を断つ残酷な役目から降りたいというずるい気持ちも少なからずあった。それが人間というものだ。「南城くんは、あさって自首する」
「自首・・・」
「君のことは一切言わないと断言していた。もし、公園のことを聞かれても、通りすがりの知らない女の子だったと白を切るつもりらしい」
「そうですか」
「犯人が逃げたのを見たという嘘も、南城くんが言ったことにするらしい」
「よかったあ。私まで警察沙汰に巻き込まれたらどうしようかと、ひやひやしていたんです」
エリの豹変した声に啓太郎は驚いた。
「えっ?」
「あーっ、スッキリしました。何か共犯みたいな感じになってて迷惑してたんです。ある意味、脅迫されていた感じですよね」
「脅迫って・・・本心じゃないよね」
啓太郎はエリが発した意外な言葉に大人げなく狼狽えた。
エリは淡々と続けた。
「いいえ。今日、メールが来てほっとしたんです。これで彼から解放されるって」
「解放・・・」
啓太郎は独り言のように繰り返した。それと同時にその言葉の意味を考えていた。光輝を憎むような突き放した言い方だった。まるで敵でもあるかのような。これもペルソナなのか。エリは光輝以上に完璧で冷酷な仮面を被り続けた。
「でも、私も一年間、彼を利用させてもらってましたから、おあいこですね」
「おあいこ?」
「当時の私、友達に合わせるのに疲れていたんです。輪からはみ出ないように機嫌をうかがって、話しを合わせて。だから、欺瞞に満ちた毎日から連れ出してくれるカレシが欲しかったんです。でも、私はブスだし何の取り柄もない。そんな時です。南城くんが現れた」
「あの公園で会った」
「はい。彼って、ものすごくイケてるでしょう? あんな彼が、放課後、待っていたら、友達はつき合いが悪くても何も言わない。随分と助かりました」
「それだけの存在なの?」
「ええ」
啓太郎は、エリの饒舌ぶりから相当無理をしているという印象を受けた。それにいつもより声のトーンが高い。声には性格が出る。感情も気分も出る。嘘も出る。
「私、実は証拠を持っているんです」
エリの声が元に戻った。それが啓太郎を再び慌てさせた。
「証拠って事件の?」
「はい。犯行に使われた拳銃です」
「どうして君が?」
「成り行き上、私が処分することになって・・・でも、見つかったらどうしようと不安で、怖くて捨てられなかったんです。だから、夏目さんにお渡ししてもいいですか。警察に届けて下さい」
「分かった。責任を持って届けるよ」
啓太郎はエリの勢いに押され、拳銃を預かることになってしまった。エリは警察に届けて欲しいと言っているが、真意は光輝に渡して欲しいということだと解釈した。
「明日の夕方でいいですか」
「ああ。君の家、いや、近くまで取りに行くよ」
「助かります。それでは学校から帰ったら電話します」
「分かった」
「これできっぱり事件のことを忘れられます」
「そう・・・」
「でも、メール一本で、はいサヨナラなんて、ちょっと失礼ですよね。礼の一つもないなんて。だからもてる男は嫌いです」
エリは、ふっと笑ったような息を漏らしてみせた。
「嫌いか・・・」
啓太郎は、その残酷な響きを繰り返した。それにも増して、エリの尖った演技が痛々しかった。電話の向こう。どんな顔をしているのだろう。
「では。明日、よろしくお願いします」
「ああ。明日」
電話がエリの方から切れた。啓太郎は何とも言えない空しさに、その場を動くことができなかった。ストーブの赤く燃える炎をじっと見つめた。冷たかった頬が炎に照らされ、かっと熱くなるのを感じた。
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