『ラヴ・ストリート』【38】
ジェラス・ガイ
五十嵐聡美は、大通公園に面した喫茶店にいた。真野有紗という女性に会うためだった。十時半の約束だが二十分も早く着いてしまった。
昨日の夕方、ソファの背もたれに肘をのせて、窓から外をぼんやりと見ていた。半狂乱で泣きわめいたあの夜から何も変わらない日々が続いていた。その後、夫とは必要最低限のことしか喋らないが何の支障もなかった。もともと楽しく会話が弾んでいたわけではない。それでも日々、働く夫に対して感謝の気持ちを言葉にしていた。しかし、それすら、うざったい顔をされていたので会話を断ついい機会だった。
佑香は来なくなった。小学生は週単位で興味が変わる。きっと他に楽しみができたのだろう。心配していたエリも、礼を言いにわざわざ寄ってくれて、いい報告をしてくれた。きっと彼と楽しく過ごしていることだろう。若さには未来がある。無限の可能性がある。羨ましいと素直に思う。
お菓子作りも、洋裁も、アレンジメントフラワーも、全くやる気がなくなってしまった。全て自己満足の世界だと分かっていたが、佑香に出会ったことで、やはり誰かに何かを言って欲しくてやっていたのだと、改めて気づかされた。「おいしい」「きれい」「ありがとう」。そんな言葉が返ってくることが嬉しかった。今は何をやっても静寂の中の一人芝居だった。幸せそうな主婦を演じることにも疲れてしまった。前ならオルゴールでノクターンを聞きながら、思い出の世界で遊ぶこともできた。しかし、今はもう砕け散ってしまった。残ったのは破片。人魚姫のナイフだけだった。ナイフを持ったまま、ただそれを見ている。結局、何もできない。何もしようとしない。何も起こらない。海の泡となることもできない。同じ毎日。
そんなことを考えていた時に、有紗から電話が来たのだった。有紗は名前を名乗った後に「ご主人とおつき合いをさせていただいております」と丁寧すぎる挨拶をした。聡美はすかさず「存じ上げております」と返した。嫌みでも、感情的でもなかった。ごく自然に口から出た。逆に有紗の方が驚き、次に言う台詞を忘れてしまったようだった。しばし無言になった。たぶん意を決して電話したというのに、出端をくじかれたのだろう。数十秒後、気持ちを取り戻した有紗は、明日会って話がしたいとだけ言った。同じ毎日が少し動いた。
聡美はカフェオレを飲みながら窓から外を見ていた。雪がちらちらと降っている。十一月中旬だというのに、ここ数日は真冬並みの寒気が入り、かなり冷え込んでいた。
有紗は前に夫が接待ゴルフだと嘘をついて密会、いや堂々と会っていた女性だ。運悪く、馨と一緒に見てしまった。たぶん二十代前半だろう。昨日の声の感じからも、そう感じた。今日の話というのも大体想像がつく。夫ではなく、妻の聡美にしなければならない話だ。
有紗は五分前にやってきた。聡美は有紗の顔を分かるが、有紗は聡美を知らない。仕方なく聡美は、世間で言う敵に向かって手を振って合図した。有紗は聡美に気がついてあっという顔をした。入り口でコートを脱ぐと、申し訳なそうに背を丸めて近づいてきた。カラーリングした長い髪に、くりっとした大きな瞳。ふわふわとした白いセーターに、ベージュの短いキュロット。柄の入ったタイツにショートブーツ。ファッション雑誌から抜け出てきたような女性だった。唯一、小さい顔と対照的に足がむっちりとしている。聞くまでもなく、やはり二十代前半だと思われた。
「五十嵐さんの奥様ですね」
「はい」
「真野有紗です。突然、お呼び立てしてすみません」
聡美は、「いいえ」と言うしかなかった。
「失礼します」
有紗は聡美の前の席に座った。そして、手の先が冷たいのか、両手を何度も擦り合わせた。有紗の爪にはネイルアートが派手に施されていて、ラインストーンがきらきらと輝いている。聡美は思わず自分の爪を見た。手入れどころか相当な深爪で、それは聡美自身の生活を象徴していた。料理や洋裁、ガーデニング、そして毎日の掃除において、長い爪は、むしろ邪魔なものでしかなかった。
有紗は膝に手を置くとゆっくりと話し出した。
「どうして私の顔がお分かりになったんですか?」
「前にお見かけしたことがあります。主人と一緒のところを」
有紗は、はっとして下を向いた。
「そうでしたか・・・」
有紗は先制パンチをくらい困っているようだった。
何をしている子なのだろう。平日にこうして時間が取れるというのは。まさか学生? いや、それにしてはメイクが完璧すぎる。どこで知り合ったのだろう。いつからつき合っているのだろう。夫のどこがよかったのだろう。
聡美は有紗が下を向いているのをいいことに、じっと見つめて、いろいろなことを想像していた。店員が有紗の注文をとりに来た。
「ご注文は」
「ミルクティーを」
「かしこまりました」
有紗は店員に視線を向けることもなく、ずっと下を向いたままだった。
聡美はまるで自分がいじめているようで嫌な気分だった。それにしても、聡美は妙に余裕があった。こんな光景を予測してシミュレーションしていたからか。すんなりと最初の言葉が口から出た。
「話って何でしょうか」
有紗は顔を上げようとしない。
「えっと・・・」
「はっきり言っていただいて構いませんよ」
「はい」
「多少のことでは動じませんから」
「はい」
聡美は間が持たずカフェオレに口をつけた。いらいらした。早く用件を聞いて、この場を立ち去りたかった。
有紗のミルクティーが運ばれてきた。店員は空気を察したのか、すぐに無言で頭を下げて遠ざかった。それでも有紗はもじもじとしている。電話できっぱりと愛人だと名乗った威勢のよさが嘘のようだった。聡美はまさか自分が鬼の形相をしているからだろうかと、頬に手を当てて表情を確認した。そして、口角を引っ張り上げた。有紗はまだ考えている。
聡美はしびれを切らして、想像のついた三つのパターンを最悪の方から順に切り出した。
「子供ができたんですか?」
有紗は、はっと顔を上げて慌てて否定した。
「い、いえ。まさか」
「妻と離婚すると言ったのに、なかなか実行にうつしてくれないとか」
「そんなことは」
「お金ですか?」
「いいえ」
「じゃあ、何でしょう」
有紗は何故か赤くなった。
「奥様に会ってみたかったんです」
「はあ?」
「五十嵐さんがいつも言うんです。妻は自分にジェラシーを感じることはないって」
「そうですか」
聡美は夫も余計なことを言うものだと思った。愛人の前で妻の話をするなんて。
「その意味を知りたかったんです」
「意味?」
「奥様は、五十嵐さんを愛していないんですか?」
聡美は目をぱちくりした。有紗があまりに、もじもじしているので油断していたら、いきなりの直球だ。聡美は変化球で返した。
「どういう答えを期待していますか?」
「どういうって・・・」
聡美もズバッと直球を投げ返した。
「愛していません」
「えっ?」
「これで安心しました?」
「それなら、どうして結婚したんですか?」
有紗は安心するどころか感情的になった。涙声になっている。
聡美はあくまでも冷静だった。有紗から見れば、軽くあしらわれているような腹立たしさがあっただろう。さらに聡美は追い打ちをかけた。
「やけで」
「やけ?」
「やけ酒とかのやけ」
「冗談ですよね」
「本当です」
「そんなのひどいです」
有紗は目に涙を浮かべた。「五十嵐さんは、奥様にジェラシーを感じていると思います。ものすごく」
「私は主人に焼きもちをやかれるようなことはしていません。家でおとなしく主婦をしています。それに主人はそんなタイプではありません。現にあなたのような存在がいるではありませんか」
「五十嵐さんのことを、全然分かっていないんですね」
有紗はぽろぽろと涙をこぼした。
聡美は涙を見たとたんに、お姉さん口調になった。
「誰のために泣いているの?」
「誰のためって・・・」
「主人のため? それとも自分のため?」
「分かりません」
「主人のことが、本当に好きなのね」
有紗は鼻をすすって静かに泣いていた。
「本当に、ご主人に対して、ジェラシーを感じたことがないんですか?」
「ええ。一度も」
「そうですか・・・」
「でも、今、目の前にいるあなたには、ジェラシーを感じます」
「えっ?」
「若くて、素直で、羨ましい」
聡美は女神のような微笑みを浮かべた。バッグからティッシュを取り出して、「どうぞ」と言って有紗に差し出した。有紗は頭を下げながら、派手な爪でティッシュを受け取り涙をふいた。ティッシュに黒いマスカラがべっとりとついた。聡美はなぜかそちらに気を取られてしまい、若い涙の価値は半減した。
「今日は、すみませんでした」
有紗は深く頭を下げた。また、一粒、涙が落ちた。
聡美は有紗に悪い印象を持たなかった。礼儀正しくて謙虚で、正直なところが可愛らしいと思った。自分とは正反対だ。何よりも夫のことを深く愛している。これで夫も幸せになれると思った。
「私、離婚しても構いませんよ」
「えっ?」
有紗は驚いて目を大きくした。「本当に、いいんですか?」
「ええ。主人にそう伝えて下さい。私からは今日のことを話すつもりはありません。今後、話し合いを持つつもりもありません。二人の準備が整った時点で、私に離婚したいと告げて下さい」
聡美は何て卑怯な言い方だろうと思った。全て、有紗のせいにしている。夫と有紗に結論をゆだねて受け身になっている。被害者を演じている。これが自分の正体なのだ。
有紗は少し考えてから、意を決するように言った。
「分かりました」
聡美は笑顔で頷くと、バッグとコートを手に持ち、ゆっくりと立ち上がった。そして、伝票に手を添えて言った。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
「あ、はいっ」
聡美は出口に向かって颯爽と歩いた。正面の自動ドアに聡美の姿が映っている。タイトスカートの下からのぞいているすらっとした自分の足を見た。足の細さだけは勝ったと思った。
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