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『ラヴ・ストリート』【31】

  スイート・ドリームス
 今野佑香は、暗闇の街角で泣き疲れてしまった。もう体にエネルギーが残っていないのか、力が入らない。激しい頭痛に瞼が押され、目を開いていられなかった。濡れたアスファルトに汚れた足を投げ出し、冷たいコンクリートの塀に寄りかかったまま、目を閉じた。冷たく凍えていた体が、少しずつ寒さを感じなくなっていった。完全に感覚が麻痺した時、明かりが灯った。温かい布団の中にいる感触があった。
 母が水色のワンピースを持って、目の前に立っている。
「あっ、ワンピース・・・」
「悪かったよ」
「えっ?」
「そんなに大切なものだと思わなくてさ」
 母は照れくさそうに頭をかいている。
「どうしたの?」
「リサイクルショップに行って、取り返してきた」
「お金あったの?」
「あんたが金の心配するなっての」
「うん」
「ここに掛けておくから」
 母は壁にワンピースを掛けた。
 よかった。お母さんは生きている。
 佑香は安堵し、夢と現実の間を行ったり来たりの奇妙な遊泳を続けた。そして、夢の甘美なベールをまとうと、そのまま静かに眠り続けた。
   *
 南城光輝は、エリを抱きかかえていた。細くて折れそうな体だった。エリは啓太郎に発砲した後、自分に向けて発砲した。手から拳銃がぽとりと落ちた。 
 エリは真っ青になって震えている。声も震えていた。
「どうして、私、生きてるの?」
「これ、モデルガンなんだ」
「えっ?」
「弾は出ない」
 エリはそれを聞いて完全に力が抜け、その場に座り込んでしまった。
 光輝はさらにエリをきつく抱きしめた。光輝の唇がエリの髪に触れた。
「発砲する音が出るように、改造しただけなんだ」
「ずっと、本物だと思ってた・・・」
 仰向けに倒れていた啓太郎が、ふーっと息をつき、やれやれといった感じで上体を起こした。大人げなく、ふくれっ面をしている。
「じゃあ、何で、俺、倒れてるんだよ」
 啓太郎はよいしょと立ち上がり、背中をのぞき込んだ。
「あーあ。水たまりに突っ込んで、ジャケット、泥だらけだよ」
 光輝はエリを抱きしめたまま、きょとんとした顔で啓太郎を見た。
「あーっ、ズボンのお尻も、びちょびちょ。おしっこ漏らしたみたいじゃないか」
 光輝はわざと大袈裟に、ふっと笑ってみせた。啓太郎が場の空気を変えるために、道化を演じてくれているのが分かったからだった。
「どうしてくれるんだよ。お子ちゃまの遊びにつき合わされた挙げ句に、この様で」
「すみません」
 光輝は笑いをこらえるふりをして謝った。
「もうパチンコ店強盗なんてどうでもいい。どうせ、お金も戻ってるんだしさあ。今さら犯人が誰だろうと関係ない。時間の無駄無駄。寒いから、俺、とっとと帰る」
 啓太郎はエリの近くに落ちていたモデルガンを拾った。
「これは預かるからな」
 そう言うと、ジャケットのポケットに入れた。そして、くるりと背中を向けると、さっさと歩き出した。時々、濡れて貼りついたズボンをつまんでいる。相当、気持ちが悪いらしい。
 光輝は、その滑稽な仕種をする啓太郎の背中に、深々と頭を下げた。
 啓太郎は鎖の手前で振り向くと、二人を指差して叫んだ。
「クリーニング代、しっかり請求するからな。親にもらった金じゃ許さないぞ。自分たちで働いて、稼いで払えよ。じゃあな」
 啓太郎は鎖をくぐり出ていった。その後、声だけが聞こえた。
「相手のための自己犠牲なんて、そんなの本物の愛じゃないよ」
 光輝は、もう一度、姿の見えない啓太郎に頭を下げるとエリをさらに強く抱きしめた。
   *
 夏目啓太郎は、思わず光輝とエリに向かって言った言葉に自身で驚いていた。
 相手のための自己犠牲なんて、本物の愛じゃない。
 田中さんの将来を思って身を引いた自分はどうなのだろう。正しかったのか。ただ単に弱虫で、犯罪者の息子だと告白できなかっただけなのではないだろうか。嫌われ、軽蔑されたくなかった。それが本心だ。もし本物の拳銃だったら、確実に死んでいた。銃声を聞いた時は、ほぼ確実に撃たれたと思った。死ぬ間際、愛する人の顔が浮かぶというのは本当だろうか。そうだとしたら、田中さんに未練たらたらだ。啓太郎はエリの放った見えない弾丸に撃ち抜かれてしまったのかもしれない。心の奥底にしまい込んでいた本心が傷口から外へ飛び出した。
 やはりエリと光輝は、真実の愛で繋がったプシュケとエロスだった。甘美ささえ漂っていた。啓太郎は昔の自分と田中さんの姿を重ねた。こんな風に強く繋がっていただろうか。何らかのきっかけさえあったなら、父親の犯罪のことも全て告白し、分かり合えていただろうか。啓太郎は、すれ違っていた感情が遠回りしながらも深く結びついた光輝とエリが素直に羨ましかった。そして、完全に心が萎えてしまっていた。だから、信念に反して犯罪を見逃してしまった。真実をつかみながら簡単に手放した。この世で、この事件のことを知っているのは、この夜空の月と星たちだけだ。
 そろそろフリージャーナリスト兼ライターも廃業か。
 真実のために人を追い詰めて何の意味があるのだろう。母が、父親の犯罪のことで追い詰められている姿を見たら、ジャーナリズムを憎んでいたかもしれない。そもそも何故、事件ばかりを追うようになったのだろう。本当に追い求めていたのは、知りたかったのは、父親の犯罪なのではないか。昨日の光輝との会話が思い出された。
「どうして、この事件にこだわったんですか? お金がすぐに戻ったからですか?」
「俺の父親が、強盗犯だったから」
 啓太郎は車のドアを開け、乗り込もうとして、ズボンが汚れていることを思い出した。助手席にぽんと置かれていた雑誌が目に止まった。背に腹は代えられない。座席が汚れないように、雑誌を中央から開き座席に敷いた。よりによって、自分の書いたラーメン特集だった。さすがに気が引けたので一色刷の興味のないページまでめくってから、仕方なく汚れたズボンで雑誌に座った。ライターとの決別を意味しているような気がした。エンジンの音が倉庫の壁に反射して響いた。もう、プシュケとエロスに会うこともないだろう。そう思いながら車を出した。
   *
 霧島エリは、光輝に抱きしめられていることに気がつき、赤くなった。しばらくは呆然としていたが、響きわたった車のエンジン音に、はっと我に返った。光輝の吐息が髪の毛に伝わっている。心臓がどきどきして、やはり動けなかった。
 光輝がエリを抱きかかえたまま立ち上がった。エリを軽々と持ち上げた。
 エリは光輝がこんなに力強いのに、自分が守ろうとするなんて、思い上がりもいいところだったと思った。エリはしっかりと地に足をつけた。生きている。
 光輝はエリのニット帽を外した。短い髪が静電気でピリッといった。促されるようにエリは自分でウインドブレーカーを脱いだ。悪魔に着せられていた暗黒の衣装をようやく脱ぎ捨てたような安堵感があった。衣類は元の紙袋に入れ、倉庫にあった焼却ゴミと書かれたドラム缶に捨てた。
 光輝がエリの手を取った。
「帰ろう」
「うん」
 エリは素直に頷いた。
 いつもと変わらない光景だった。手を繋いで歩いている。
「さっきの言い合い、ケンカみたいだったね」
「うん」
 光輝がふっと笑った。
「普通はケンカしたりするんだよね」
「うん」
 エリはこの穏やかさが不思議でたまらなかった。こんな時間はもう二度と訪れないと思っていた。生死を懸けた啓太郎とのやりとりが夢のようだった。
 市道から国道十二号線まで出てタクシーに乗った。先に乗り込んだ光輝が、ぽつりと行き先を告げた。エリは光輝の横顔を見た。どこへ行くんだろう。走っている道路を、目を凝らして見た。暗闇に車の明かりが連なりきれいだった。どこでもいいと思った。
 中島公園駅の入り口が見えた。そこから住宅街へ少し入ったところにあるコンビニでタクシーは止まった。エリは光輝に連れられてコンビニに入った。光輝は短時間で食料を次々とかごに入れた。商品が置いてある場所も、買うものも、知り尽くしている感じだった。
 コンビニを出て、数分歩くと、おしゃれな一軒家に着いた。門の表札を見ると「南城」とあった。光輝は自宅にエリを連れてきたのだった。エリは腕時計を見た。七時半だった。光輝の母親にひんしゅくをかうと思った。エリは完全に普通の良識ある女子高生に戻っていた。
 光輝がエリの手を引いた。
「どうぞ」
「こんな時間に、突然お邪魔するの、常識ないと思うんだけど」
 エリは尻込みして後ろに下がった。
「入ってみれば分かるよ」
 光輝は強引に手を引っ張った。
 玄関のドアを開けると、舞がスリッパの音をパタパタとさせて出てきた。ピンク色のジャージを着た派手な感じの若い女性だった。
「おかえりなさい」
 エリと舞の視線がぶつかった。エリは慌てて挨拶をした。
「遅くにすみません。お邪魔します」
 舞はエリをじっと見ていた。エリは視線を避けるように下を向いて靴を揃えた。それでも視線が刺さっているのが分かった。
「お父さんに余計なことを言わなくていいから」
 光輝が語気を強めて言った。見たことのないような怖い顔だった。
「わ、分かった」
 舞は光輝の勢いに完全に押されていた。「今日、出張で帰ってこないから・・・」
 光輝はエリの手を引っ張って二階へ階段を上がった。
 エリは小声で聞いた。
「お姉さん、いたんだね」
「継母」
「えっ?」
「六年目にして、初めて自分から口をきいた」
「えっ」
 光輝が初めて自分のことを話した。エリを家に呼んでくれたのは、包み隠さず自分を見せるということなのだと思った。エリも素直になろうと思った。エリは、少し肩の力を抜いた。
 エリは光輝の部屋に入った。ベッドのカバーやカーテンがブルーで統一されているおしゃれな部屋だった。十畳程度の広さがあり、一人暮らしの若者の部屋のイメージだった。勉強机とベッドの他に、中央にこたつ、テレビ、小さな冷蔵庫まである。光輝は、この家というよりも、この部屋で生活している感じがした。
 光輝はこたつにコンビニの食料を置くとカーテンを閉めた。カーテンにはバスケットボールをしている熊の男の子が描かれていた。光輝は照れながら言った。
「死んだお母さんが、小さい頃に選んでくれたやつだから」
 エリは、舞への態度とこの一言で、光輝がどうして強盗をしたのか推測できた。どうしても家を出たかった理由が。
 光輝が唐突に切り出した。
「エリ、家に電話して」
 エリは名前で呼ばれて、はっと光輝の顔を見た。こんなふうに名前で呼ぶんだと思った。素直に嬉しかった。
「今日は、友達の家に泊まりますって」
「えっ?」
 エリはそれを聞いて赤くなった。それと同時に、ものすごく慌てた。
「うちの親、うるさいから無理だと思う」
「今日は一緒にいないとだめだと思うんだ」
 光輝がエリの頭に手をのせた。「話すことがたくさんあるから」
 エリは光輝の顔を見上げた。光輝はエリの髪をくしゃっとした。こんなふうにされるのが、たまらなく嬉しかった。誰にも頭を撫でてもらったことがない。何て温かいのだろう。そして、とたんに可笑しくなった。死ぬ覚悟はあるのに、親に怒られる覚悟がないなんてちぐはぐだ。可笑しくて、嬉しくて、ふふと笑った。
   *
 南城光輝は、エリがふふと可愛らしく笑うのを初めて見た。これが、本当のエリなのだと思った。
「電話だと絶対にだめって言うから、メールして電源を切っちゃおう」
 エリは携帯電話を取り出すとメールを打って送信した。そして、そのメールを光輝に見せた。
みつきちゃんの家に泊まります。
「みつきちゃんて、友達?」
「光輝って、みつきで登録してるの。女の子だと思うでしょ? お母さん、勝手に携帯見てチェックするから」
「そうなんだ」
 光輝は、エリの家庭環境が自分と同じように窮屈だということを感じた。
「メールとかも見られるから速攻で削除するの。だから、思い出が一つも残ってない」
「大丈夫。僕が全部、保存してあるから」
 光輝は携帯電話を出してエリに見せた。一年前、公園で不意に撮ったエリの写真だった。
「あっ!」
 エリは赤くなった。
「初めて会った時」
「うん」
 光輝はエリの髪の毛に触れた。そして、指に絡めた。
「髪の毛、切らせてしまってごめん」
「ううん」
「もう、伸ばしていいよ」
「えっ?」
「事件から解放されたんだ」
「うん」
 エリがにっこりと笑った。安堵感を与えてくれる微笑みだった。
 光輝は照れてエリから視線を外した。そのままエリを見ていると、衝動に負けて無言になってしまいそうだった。話題を元に戻した。
「もし家の人に怒られたら、ここに家出してきてもいいよ。ウォッチタワーがあるから」
「ウォッチタワー?」
「そこの梯子を上っていったらあるよ」
「梯子?」
 エリは部屋の角に梯子が掛かっているのを見た。梯子の先の天井には、人一人が通れるくらいの穴が開いている。
「上ってみる?」
「うん」
 光輝は先にウォッチタワーに上って手を差し伸べた。エリは子供のように好奇心いっぱい顔をしながら梯子を上ってきた。
「こんな秘密の場所があるなんて」
 エリは無邪気に感動しているようだった。そして、小さな窓に張りつくように外を見た。「街の明かりが見える。きれい」
「星も、月も見えるよ」
 光輝は後ろからエリを抱きしめた。エリがびくっとなったのを感じた。でも、離さなかった。「小さい頃は、ビルがなかったから、テレビ塔が見えたんだ」
「うちも同じ。マンションが建つ前は、部屋からテレビ塔が見えたの」
「じゃあ、違う方向から、同じ景色を見てたんだ」
「うん」
 光輝はエリの頬に背後から自分の頬をつけた。
「怖い思いをさせて、ごめん」
「ううん」
 エリは安心したように光輝の頬に寄りかかった。
「僕を守ってくれて、ありがとう」
「罪をひとりで背負っていくのって、つらいと思ったから」
「覚悟してたよ」
「これからも一緒に背負っていくから。何があっても半分こ」
「ありがとう・・・」
 光輝は涙が出そうだった。「今までだったら、こんなふうに素直に言えなかった」
「私も・・・夏目さんのおかげだね」
「あんなに純粋な大人って見たことがない」
「それなのに、私、夏目さんに、あんなにひどいことをしちゃった」
「僕たち二人が、きちんと生きていくことが、罪滅ぼしになるんじゃないかな」
「うん」
 光輝は目を閉じて、エリの柔らかい頬から伝わる体温を感じた。
「大切なことを言わないとね」
 光輝はエリから頬を離し、回していた腕を外すと肩に手を掛けて、こちらを向かせた。
「実は、僕もずっと同じ気持ちだったんだ」
「同じ気持ち?」
「仕方なく僕とつき合ってくれているんじゃないかって」
「えっ?」
「不安でたまらなかった。だから、ずっと迷惑をかけたらいけない。離れないといけないって葛藤してたんだ」
「嘘・・・」
「エリと一緒にいたのは、口止めのためとか、罪の意識とか、そんなんじゃないよ」
 光輝はエリの頭に手を置いて、また髪の毛をくしゃくしゃにした。
「エリが好きなんだ」
 エリは真っ赤になった。
「ボートの上で叱ってくれただろう。僕はそんな強い女性が好きなんだ。男って意外と馬鹿で、単純で、弱かったりするから」
 光輝は真っ赤になっているエリの頬に手を当てた。
「エリも僕を好きだよね」
 エリは真っ赤になったまま、こくりと頷いた。
「だって、エリの太陽なんだろう?」
 エリは驚いて目を丸くした。
「話、聞いてたの?」
 光輝はずるそうな顔をした。
「全部、聞いてた」
 エリはさらに赤くなり、思わず下を向いてしまった。熟れきったトマトみたいだった。
 光輝は、エリにキスしてもいいかなと思い、静かに唇を近づけた。
   *
 五十嵐聡美は、ベッドで眠る馨の額に手を当てた。解熱剤が効いたのか、熱は下がってきているようだった。汗でぐっしょりになっている髪、顔、首筋、胸元を乾いたタオルでふいてやった。目が覚めたら、肌着を替えてあげようと思った。
 随分と大きくなった。身長も150センチ近くある。もうすぐ追い越されるだろう。あんなにひどかった喘息も、成長とともに悪化することはなくなった。ついこの間まで、抱っこしていたような、手を繋いで歩いていたような気がする。桃のような産毛を持つ頬、柔らかくて細い髪、抱きしめた時の感触、甘い香りをまだ覚えている。
 ふーっと長いため息が出た。昨日からいろいろなことがあり、本当に疲れてしまった。夕方に佑香がやって来て、エプロンの型紙作りと仮縫いをした。夜、夫と口論になり一睡もしなかった。そのまま、とれた歯を持って歯科医院へ行った。帰り際、憔悴しているエリを見つけて家に誘った。恋愛の相談に乗り励ました。その後、エプロンの本縫いをして、洗濯をしてアイロンを掛けた。帰ってきた馨が熱を出して病院へ行った。慌てて夕飯の支度をした。
 佑香はエプロンを喜んでくれただろうか。エリは彼と仲直りできただろうか。夫は・・・昨夜の修羅場を考えたら、あの女のところに寄ってくるだろう。馨の具合が悪いとメールをしても、心配して早く帰ってくるような人ではない。
 聡美は激しい睡魔におそわれ、馨のベッドにもたれたまま眠っていた。
聡美は元カレと手を繋いで歩いていた。お互いに制服を着ている。まだ、高校生だった。よかったと思った。やり直せる。元カレの、この大きな手を離さなければいい。
 元カレが言った。
「ごめん。結婚はできない」
「結婚なんて形式にこだわらない。側にいられればそれでいい。永遠に恋人のままでいい」
 聡美は、ずっといいたかった言葉を、ようやく元カレに言った。
 元カレは苦笑いした。
「何を言っているんだよ。赤ちゃんが泣いているよ」
 赤ん坊の馨が道端で泣いている。
「私、もう結婚してたんだ。そう、子供を産んだのよ」
 聡美は妙に納得して馨を抱き上げ、よしよしとあやした。馨はぴたりと泣きやんだ。
「あっ・・・」
 聡美は、はっと気づいた。元カレの手を離してしまった。離すまいと思っていたのに、いとも簡単に離してしまった。元カレはもういない。
 聡美はそこで目が覚めた。甘美な映画を観た後のような恍惚感があった。結末から言えば、空しい夢のようだが、聡美はそうはとらえなかった。
 ようやく、元カレに会えた。少しの間だけ手を繋いで歩くことができた。
 聡美は口角を上げ、夢の中の元カレの顔を、手の感触を思い出していた。そして、ごちゃ混ぜのストーリー展開があまりに可笑しくて、ふっと笑ってしまった。オルゴールが壊れても、ノクターンが聴けなくても、しばらくは、この夢にすがって生きていける。
 夢で会えただけで、十分だ。
 馨が眠っている。本当に大きくなった。十一年という月日は、長いようで、あっという間だった。夢の中の元カレは昔のままだった。思い出だから美しいのかもしれない。

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