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『ラヴ・ストリート』【15】

ジョンの魂
 夏目美代子は、消灯後も背中に激しい痛みを感じ眠れなかった。鎮痛剤は一、二時間で効果がなくなってしまう。朝まで熟睡したのはどれくらい前だろう。ベッドに横になるのも辛くなっていた。上体を起こした方が胸の圧迫感と腹部の張りが和らぎ、背中の痛みも多少楽なので、枕を背もたれにし起き上がった。
 啓太郎の言葉を思い出していた。
「きちんと罪を償うべきなんだよ。酌量の余地なんかない」
 残酷な響きだった。啓太郎は真実を知っても同じことを言うのだろうか。今、強盗事件を追いかけているのが偶然とは思えなかった。美代子は啓太郎に父親のことを話していない。ずっと逃げてきた。しかし、そろそろ区切りをつけなくてはと思っている。啓太郎が四歳の時、たった一度だけ父親のことを聞かれたことがあった。美代子はジャン・バルジャンだと答えた。啓太郎は覚えているだろうか。遠い昔の話だ。
 啓太郎は親思いのいい息子だ。思春期になってもわりと素直に言うことを聞いてくれた。それは彼なりの優しさだった。きっと反抗するのも可哀想だと思ったのだろう。美代子は、それを十分すぎるほど感じていた。しかし、それは見方を変えれば、お互いにいつも気を遣い、どこか遠慮し合っているようでもあった。本心をぶつけ合ったことがない。それは正しい親子の姿なのだろうか。円満を保つために、どこの家庭もそうしているのだろうか。美代子は父親のことを話そうとしなかった。啓太郎も父親のことを聞いてこなかった。聞いてこないから話さない。話そうとしないから聞かない。大きな衝突もなく時が過ぎ、三十年が経ってしまった。
 美代子が啓太郎の父である高橋良介に会ったのは、高校三年生の時だった。高校の近くにある喫茶店『カサブランカ』で、大学生の良介は時々店を手伝っていた。北海道の雪に憧れてやってきた良介は、東京出身のアイビールックが似合う青年で、とても清潔感があった。いつも全身をVANのボタンダウン、セーター、パンツでキメていておしゃれだと女子生徒の間でも評判になった。確かに都会の香りがした。後々、良介から聞いたのだが、実は全てがマスターのお下がりで、自分で買ったものは一つもなかったらしい。
美代子はひと目見て良介を好きになってしまった。不定期に現れる良介に会いたくて、ほぼ毎日、友達と『カサブランカ』へ通った。最初は砂糖とミルクなしではコーヒーを飲めなかったが、マスターの作るおいしいフレンチトーストに出会ってからはブラックコーヒーが好きになった。
 ある日、美代子は友達とビートルズの誰が好きかという話題で盛り上がっていた。友達三人はポールだと言い、美代子だけはジョンを好きだと言った。それを偶然近くで耳にした良介が話しかけてきた。
「ジョンの曲は何が好き?」
 美代子は驚き顔を赤くしながら答えた。
「『ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー』です」
「僕も好きだ」 
 美代子は愛を告白されたみたいな感覚に陥り、さらに真っ赤になった。友人たちは羨望の眼差で美代子を見た。皆、良介に憧れていたのだ。
「『ジョンの魂』のLPは、持ってる?」
 ジョン・レノンが1970年に出したソロアルバムのタイトルだった。
「いいえ。お小遣いが足りなくて買えなかったんです」
「貸してあげるよ。奥から取ってくるから待っていて」
 ラジカセすらあまり普及していない時代である。ラジオやレコードから好きな曲をカセットテープに録音できるようになるのは'70年代後半で、この時代はレコードの貸し借りが当たり前だった。
 美代子は良介と話ができた上に、同じようにジョン・レノンが好きで、レコードまで借りられることになり夢ではないかと何度も頬をつねった。当時の女子学生は、夢のような出来事に対して皆そういう仕種をした。仕種一つにもその時代がある。
 美代子は家に帰るとレコードを抱きしめて良介の顔を思い浮かべた。あの笑顔、あの声、あの瞳。しばし恍惚となった。それからレコードを取り出そうとして、封筒が挟まっていることに気がついた。
 宛名は「名前も知らない君へ」。良介は美代子の名前を知らなかった。実は聞く勇気がなかったのだった。美代子はどきどきしながら封筒から便箋を取り出した。便箋には一行、こう書かれていた。
 レコードジャケットを見て。僕は君と、そんな関係になりたいと思っている。
 美代子は『ジョンの魂』のジャケットを見た。木々で囲まれた草原の真ん中に、樹齢千年は超えると思われる大きな木がある。ヨーコは、そのどっしりとした太い幹に背をもたれて座っている。ジョンはヨーコの膝を枕に足を投げ出しリラックスしている。その様子から会話は聞こえてこない。二人は無言で通じ合っている。ジョンとヨーコは同じ角度に顔を少し上げ、ぼんやりと遠くを見ている。同じ景色を見ている。同じ空、同じ世界、同じ未来。共に歩む人生、共にする運命。美代子はもう一度アルバムを抱きしめた。
 次の日、美代子は『カサブランカ』を訪れ、良介に言った。
「私の名前は、夏目美代子です。よろしくお願いします」
 そうして、美代子と良介の交際が始まった。美代子が短大へ進んでからは自由な時間も増え、行動範囲を広げてデートを楽しんだ。美代子と良介は、ずっとこんなふうでありたいと、お互いの意思を確認するように『ジョンの魂』のジャケットを眺めた。そして、二人の卒業を機に両親へ挨拶をし、正式に婚約しようと誓い合った。卒業まであと四ヶ月、良介の就職も内定し順風満帆だった。そんな矢先、良介が事件に巻き込まれる。
 美代子は良介のアパートで夕飯を作って待っていた。昼過ぎから降り出した雨は、冷たいみぞれに変わっていた。美代子は窓から外を見ながら、良介が傘を持っているかとても気になった。しばらくすると、良介はずぶ濡れになって帰ってきた。
「ただいま・・・」
 ドアの向こう。良介はがたがたと震えている。
「おかえりなさい。寒かったでしょう? 今、タオルを持ってくるね」
 美代子は良介の顔もよく見ずに慌ててタオルを取りに行った。ストーブの柵に干してあったタオルはふんわりと温かかった。美代子は走って戻ると、良介の頭を包み込むようにタオルを広げた。そこでようやく良介の顔を見た。青ざめている。長いまつげから落ちる雫が、雨なのか、涙なのか、分からなかった。まだ震えている。
「大丈夫?」
 美代子は良介の顔を覗き込んだ。
 良介は消え入るような声で言った。
「騙された」
「えっ?」
 良介の震えは寒さではなく恐怖だった。
「運転のバイトって・・・銀行強盗の片棒を担ぐことだったんだ」
 良介は呆然とその場に崩れ落ちた。いつも自信に満ちあふれていた良介の情けない姿だった。美代子は無我夢中で良介を抱きしめた。事情も分からぬまま、愛する人を恐怖の闇から救い出したい一心で抱きしめた。
 良介はストーブの前で無言のまま膝を抱えていた。美代子はその隣で肩を抱いていた。
 ラジオのニュースは銀行強盗事件を伝えていた。
 午後三時頃、犯人は一人で銀行に押し入り、窓口近くにいた女性客を拳銃で脅し人質にとった。支店長が金庫にあった三百万円を渡すと女性客を突き飛ばし、白い車で逃走した。しかし、逃げる途中、奪った金を車から投げ捨てた。さらに十キロ先で車も乗り捨てられていた。けが人はいなかった。そんな内容のニュースだった。
 強盗犯は良介がバイト先で知り合ったコンノという男だった。高額になる運転のバイトがあると言葉巧みに良介を誘い、犯行のことは何も告げずに車で待たせたのだった。覆面のまま乗り込んできたコンノを見て、良介は不思議に思いながらも車を発進させた。そして、数分でことの全容が分かった。良介は咄嗟に助手席いたコンノから金の入ったバッグを奪い、窓から放り投げた。車を止めろと叫び暴れるコンノを乗せたまま、良介は走り続けた。そして、人気のない道に車を止めると走って逃げてきたのだった。その後、コンノがどうしたのかは分からなかった。
「僕は関係ないんだ。騙されただけなんだ」
 美代子は良介の手を優しく握った。
「私も一緒に警察へ行く。正直に話しましょう」
「警察に信じてもらえなかったら?」
「えっ?」
「逮捕されるんだよね」   
「それは・・・」
「何もかもが滅茶苦茶だ。君との結婚も未来も」
「私はずっと一緒にいるから」
「全てがうまくいっていたのに・・・」
 良介は絶望し、頭を抱えてすすり泣いた。その横で、美代子は必死に涙を堪えていた。悲観的になっている姿を見せてはいけないと思った。しかし、心は揺れていた。確かに真実を話したところで誰が信じてくれるだろう。都合のいい話をでっち上げるなと一蹴されるかもしれない。
 その時、美代子の中でシャドーの人格が顔をのぞかせた。もう一人の美代子が現れ、小声で囁いた。捕まるとは限らない。いや捕まるはずがない。何も悪いことをしていない。どうして出頭する必要があるのか。お金は返しているではないか。この時、良介の中でも同様に二つの人格が戦っているようだった。自分は被害者ではないのか。
 現実の恐怖から逃れるために二人は強く抱き合った。お互いを求め合った。そして、結論が出せぬまま、一日一日と過ぎていった。警察の手は伸びてこなかった。コンノからの連絡もなかった。ニュースでも犯人の手がかりはないと報道されていた。良介はびくびくと怯えながらも大学へ通い、普通の生活を送っているうちに、少しずつ立ち直っていった。美代子も神様は味方してくれたのだと感謝した。事件などなかったように穏やかな日々が続いた。そんなある日、美代子は新しい命が宿っていることに気がついたのだった。
 事件のことを、啓太郎にいつか伝えなければならない。話には、まだ続きがある。
 美代子は枕を元に戻し、再びベッドに横たわった。そろそろ脳が休みたがっている。考えることをやめて目を閉じた。睡眠薬がようやく効いてきたらしい。これで少しは眠れるだろう。
 美代子は『ジョンの魂』のジャケットを思い浮かべる。いつの間にかヨーコの姿は、美代子になっている。美代子は大きな木の根もとに腰を下ろしている。太い幹から背中を伝い生命エネルギーが送られてくる。弱った体が、くじけそうな心が元気になっていく。甘えるように美代子の膝を枕にしているのは、良介だ。あの日のまま。二十代の青年の姿だ。心地よさそうに目を細め空を見ている。美代子は愛おしくて良介の頬をそっと撫でる。なめらかな肌だ。はっと気がつく。撫でている手はやつれてしわしわだ。五十代の女の手だ。自分だけは年をとっている。
 まだ死ぬわけにはいかない。
 良介の頬の感触があまりにリアルで、美代子は夢の中で泣いていた。

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