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『ラヴ・ストリート』【33】

  ホワイト・フラッグ
 
霧島エリは、こたつのテーブルに頬をつき眠ってしまった光輝に、ベッドから引っ張り出した毛布を掛けた。愛しい寝顔をずっと見ていたかった。
 運命とは何だろうと考えた。どうして、人と人は出会うのだろうと。一年前、公園のベンチに座っていた時、突然、光輝が現れた。もしも、公園に行かなければ、光輝と出会うこともなかった。しかし、公園に行くことになっていた。運命はそう設定されてような気がする。万事全てがそうなのだ。その繰り返しなのだ。もしも、光輝から預かった一千万円を持ってすぐに警察へ行っていたら。もしも、啓太郎が強盗事件に興味を持たなかったら。そんな風に考え出したらきりがない。
 もしも、啓太郎に向かって発砲した拳銃が本物だったら、自分は殺人犯として死んでいた。今こんなふうに、子供のように安心して眠る光輝の顔を見ることなどなかった。いや、運命で決まっていたのなら、こうして光輝の寝顔を見ているのは必然なのだ。しかし、運命とは知らずに、ある日突然、事件は起き、誰かと出会う。それを事前に予測することは不可能だ。運命は想像を遙かに超える。コンプレックスの固まりで、家族からの疎外感に、いつ死んでもいいと厭世的になっていた少女に、こんな運命が待っていた。
 人間は今の状況に悲観し自ら死を選んではいけないのだ。この先の運命を知り得ないのだから。もちろん、今幸せでも、この先に悲しい運命が待っていることもあるだろう。しかし、その深い悲しみの先にある運命も、また知り得ないのだ。やはり、想像を遙かに超える。
 エリはメモを書いて置くと、光輝に借りたジミ・ヘンドリックスのCDを持って立ち上がった。光輝の寝顔を、もう一度、目に焼きつけて静かに部屋を出た。
 階段を下りた先にあるリビングのドアが半開きになっていた。エリは舞に挨拶して帰ろうとのぞき込んだ。舞は食卓テーブルに頬杖をつき、テレビを見ながら缶ビールを飲んでいた。大缶がすでに二本空いている。
 エリは小声で申し訳なさそうに話しかけた。
「お邪魔しました」
「あれ、帰るの?」
「はい」
「泊まっていくのかと思った」
「いいえ」
「光輝は?」
「こたつで寝ています」
「男のくせに何をやってるんだろうね。ここだって時に」
 舞はビールをガーッと飲んだ。「起こせばいいのに」
「いいえ。最初から九時までに帰るつもりでしたから」
「早くやっちゃわないと、捨てられるよ」
 エリが返答に困っていると、舞はけたけたと笑った。「冗談だって」
「遅くに突然お邪魔してすみませんでした。では、失礼します」
 エリは頭を下げて部屋を出ようとした。
 舞は立ち上がると、ビールを手に持ったまま、エリに近づいてきた。
「きちんとしつけられた、いいとこのお嬢さんなんだね」
「いいえ、そんなことは」
 舞は顔を近づけて、エリをじろじろと見た。酔っている感じだった。
「真面目そうだけど、至って普通の感じ。光輝って、こういうのがタイプなんだ。意外」
 舞はごくごくとビールを飲み干した。酒で勢いをつけて悪態をついている感じだった。「光輝は、あなたの前で、どんなやつなの? 笑うの?」
「はい・・・」
「ねえ、どうしたら、光輝に好きになってもらえるの?」
「えっ?」
「愛されるの?」
 舞の語気が強まった。今度は酔っていないと思えるような真剣な顔だった。
 エリはそれを母親としての苦悩だと受け止めた。当然だろう。舞の本心を見抜けるほど、エリは恋愛というものを熟知していなかった。光輝の冷たい態度を実際に目にしたエリは、舞に同情的になった。六年間、光輝もつらかっただろうが、舞もつらかっただろうと思った。しかし、返す言葉が見つからなかった。
「来週、この家を出ていくの」
「えっ?」
「離婚するのよ」
 舞は、再び、食卓に戻って座った。「光輝に白旗を揚げたの」
 白旗。降伏。エリはその真意を到底理解できなかった。母親になるのを諦めたというふうに解釈した。
「南城くんは知っているんですか?」
「南城くんだって、可愛い」
 舞に冷やかされ、エリは赤くなった。
「黙って出ていくつもり。だから、出ていった後、あなたから光輝に伝えてくれない?」
「はい」
「出ていくのは光輝のせいだって。全部、光輝のせいだって」
 エリはまた返答に困った。舞の言っていることは真実なのだろう。
 舞は引きつけるように笑った。
「本気で困らないでよ。冗談だって。一回、嫁いびりみたいのしたかっただけ。それに、あなたに感謝しないとね」
「えっ?」
「光輝に口をきいてもらえたから。最初で最後」
 舞は光輝の真似をした。「お父さんに、余計なことを言わなくていいから・・・おい、六年間でそれだけかいってね」
 舞は漫才のような口ぶりでおどけた。
 エリは深々と頭を下げた。そうすることしかできなかった。お互いに理解できぬまま、別れるのは本当につらいことだと思った。エリも運命の歯車が狂っていたら、光輝とは本心を伝え合わぬまま、永遠の別れをするところだった。舞もこんな運命を予測できるはずがなかったのだろう。想像を遙かに超えたのだ。そう思うと、エリはすぐに頭を上げることができなかった。

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