『ラヴ・ストリート』【46】
ソウル・キッチン
夏目美代子は、佑香と馨の背中を押して店に入ってきた。
「保坂さん。可愛い仲間が四人増えました。子供たちが好きそうな食事を並べてもらえますか」
保坂が白い髭をさすりながら微笑んでいる。
「OK! テーブルをつけて広くしよう。みんな手伝ってくれるかい?」
「はーい」
少年団がテーブルの向きを変えて用意を始めた。
「今日は日曜日だし、もう貸し切り。思い切り騒いでいいよ」
「保坂さん、ありがとうございます」
美代子は深く頭を下げた。
「楽しいの、好きだからね」と保坂はウインクをした。
啓太郎と聡美も後ろから入ってきた。子供たちが楽しそうにしているのを見て、顔を見合わせて微笑み合った。
美代子は二人を夫婦のようだと思った。ひいき目は多分にあるが、お似合いの二人だった。全ては自分の弱さだった。啓太郎に良介のことをきちんと話していれば、二人がすれ違うことはなかった。それとも、未来に新たなる展開が待っているのだろうか。
『カサブランカ』のドアに「本日貸し切り」のプレートが掛けられた。
テーブルを二つ並べて、八人掛けの会食席が出来上がった。美代子は主賓席に案内された。美代子を中心に挟んで、左側の一列に啓太郎、馨、光輝。右側の一列に聡美、佑香、エリが座った。
保坂がジュースとサンドイッチを持ってきた。
「とりあえず乾杯ということで。美代子ちゃん、乾杯の挨拶」
「えっ? 私が?」
「お母さんしかいないよ」
啓太郎がグラスを美代子に手渡した。
「さあ、みんなグラスを持って」
保坂がテーブルを見渡した。
美代子は、これが最後の宴だと思った。最上級の笑顔を作った。
「じゃあ、素敵な出会いに乾杯!」
「乾杯!」
全員がグラスを高く上げた。
グラスがカーンカーンとハンドベルのように余韻のある音で響いた。美代子は胸がぎゅっと締めつけられて、思わず涙が出そうになった。何という清らかな響きだろう。グラスのふれあう音に感動したのは初めてだった。
啓太郎が、聡美が、佑香が、馨が、エリが、光輝が、そして、保坂が、次々と席まで足を運んでグラスを合わせてくれた。
美代子の病状は芳しくなかった。また腹水がたまり、腹部を圧迫して食事もあまり取れなくなっていた。体は衰弱していくのに、腹水の量は増えて体重はどんどん増加していく。明日、入院したらすぐに腹水を抜かなければならない。また、痛みとの闘いだ。
窓から日が射している。『カサブランカ』の店内がきらきらと輝いていた。それは見たこともないような光景だった。美代子は、いよいよ死期が近づいていることを感じていた。それは、啓太郎とアルバムを見た時くらいから、不思議な能力を感じ出したからだ。その人間が持っている絆の糸がはっきりと見えるのだ。それは透明で、陽光に反射してきらきらと光る。その糸をたどっていくと誰と誰が繋がっているのかが分かった。
最初に、美代子は啓太郎と自分を繋いでいる太い糸を見つけた。手に取ってみたが感触はない。そして、聡美が現れた。聡美から出ていた糸も、確かに啓太郎と繋がっていた。間違いないと思った。この糸は絆だ。絆が見えるのだと。
次に光輝が現れた。何と啓太郎と光輝の間にも、絆が絡まっているのが見えた。不思議に思い、確かめたくて外まで追いかけた。そして、エリと繋がっているのを見て、彼氏だということが分かった。ボニーとクライド。全て納得した。
驚いたのは佑香だった。初めて紹介された時、エリの向かいに住んでいると聞いて、すぐに今野の孫だと分かった。屈託のない笑顔。啓太郎の言ったとおりだった。この子の未来を奪わなくてよかった。そう思ったとたんに、佑香と自分の絆がするすると絡まった。ここにいるみんなの絆が複雑に絡まり、するっとほどけては繋がり、また誰かと絡まる。
保坂が、大皿を二つ運んできた。
「はい。ナポリタン、おまちどおさま。あと、楽しそうな曲をかけようか。古いレコードばかりだけど。あそこのラックから好きなの選んでいいよ」
音楽好きの光輝が瞳を輝かせて立ち上がった。
「レコードなんですね!」
「ちょっとしたこだわりがあってね」
保坂自慢のコレクションでもあった。
光輝はカウンター横の棚の前へ行き、レコードを選び出した。
「じゃあ、ドアーズ。今、ここは『ソウル・キッチン』っていう感じですよね」
「いい選曲だねえ」と、保坂が顎髭に手をやった。
「どうして、俺がドアーズを好きなのを知ってるんだよ」
啓太郎はいてもたってもいられず、席を立って光輝に近づいた。
光輝が少々不服そうに言った。
「夏目さんも、ドアーズが好きだったんですかあ」
啓太郎が光輝に言い返した。
「そもそも、十八歳のくせに何でドアーズを知ってるんだよ」
「夏目さんだって、生まれる前ですよね」
「確かに、そうだな」
「二人は気が合うってことじゃないの?」
保坂が笑った。保坂、啓太郎、光輝の間にも絆が見えている。実は、光輝と自分の間にも、会った瞬間から細くて切れそうな絆が絡まっているのが見えていた。
「ねぇ、エリさん。南城くんって、どういう字を書くの?」
「南のお城です」
「そう。本当にお城の王子様みたいね」
美代子は納得した。光輝は看護師の舞が愛した十八歳の美しい継子だ。何ということだ。
そして、こちらへ目を向けると、女性陣にも絆の糸がはっきりと見えた。
「佑香ちゃんは、エリさんと年が離れているのに仲がいいのね」
「エリお姉ちゃんが可愛いワンピースをくれたんです。私、それを着て、初めて劇で主役を演じたんです」
「何の劇をやったの?」
「オズの魔法使いです」
「まあ、ドロシーね」
「はい。馨くんのお母さんが」と言って聡美の方を見てしまった佑香は、慌てて馨の方を見直した。「馨くんのお母さんが、フリルのついた白いエプロンを作ってくれました」
美代子は、佑香がきちんと敬語で喋り、礼儀正しいので感心した。
「可愛らしいドロシーだったでしょうね」
佑香は首を横に振り否定しながらも嬉しそうに微笑んだ。馨が佑香をちらっと見た。
美代子は馨の表情から好意的なものを感じた。
「馨くんは、佑香ちゃんと同じクラスなの?」
「いいえ。学校は違うんです」
「そう。でも、仲がいいのね」
「別に仲良くは・・・」
馨がまた佑香をちらっと見た。
佑香は少し口を尖らせた。
エリがくすっと笑っている。
美代子は横にいた聡美に耳打ちした。
「聡美さん、いい息子さんを持ったわね」
「えっ?」
聡美は思わず馨に視線を向けた。
美代子は、馨が聡美の息子だということに、とうに気がついていた。他人のふりをして挨拶をした時から、二人には、はっきりと輝く太い絆が見えていた。そして、聡美は、エリと佑香とも絆が絡まっていた。皆は聡美を追ってきて、ここに集まったのだろうと推測できた。聡美を早く芝居の重圧から解放してあげようと思った。
「本当は、田中さんじゃなくて、五十嵐さんなのね」
「気がついていらしたんですか」
「ええ。馨くんと目元がとても似てるわ」
「すみません」
「謝らないで。どうせ、啓太郎が無理を言って頼んだんでしょう」
「そんなことはないです」
「優しい嘘を、ありがとう・・・最後まで騙されたふりをするわ。二人だけの秘密ね」
「分かりました」
聡美がキュートに微笑んだ。
美代子は、聡美が心が広くてユーモアのある、しっかりした女性なのでとても気に入っていた。なるほど、啓太郎が好きになるわけだ。そして、ここにいる皆のことも啓太郎は好きだ。皆も啓太郎を好きでいてくれる。心が通じ合うから絆が生まれる。
年齢も、性別も、育った環境も、おそらく考え方もばらばらの八人がここにいる。
大勢で食事をして、陽気に喋って、大きな声で笑って、わいわい、がやがや。
何という幸せなひとときだろう。最後の宴にはふさわしい・・・そう考えて、美代子ははっとした。確かに最後の宴だと覚悟を決めて乾杯した。しかし、何故、そう思う必要があるのだろう。どうして、死ぬと決めつけるのだろう。癌と告知されてから、ずっと余命をカウントダウンしてきたような気がする。違う。逆だ。今になって気がついた。生きる日数を延ばしていく。生き続けた日数を更新していく。そう、生きるために乾杯したのだ。また、こんな楽しいひとときを過ごしたい。いや、幸せな時間を過ごそう。乾杯をしよう。何度も乾杯をしよう。良介も一緒に乾杯する日を夢みて。
美代子は目の前のサンドイッチを一切れつまんだ。おいしいと思った。
*
マスターの保坂は、皆と一緒に楽しそうにしている美代子の表情が、どんどん変わっていくのを見逃さなかった。店に来たばかりの時は体調の悪さを隠し、心配をかけまいとして、無理に微笑んでいる様子がはっきりと見てとれた。ふとした表情の合間に不安が見え隠れしていた。明日からまた入院生活が始まる。不安でいっぱいなのは当然だ。しかし、今は心底笑っていた。不安のかけらも見えない。何かが変わった。美代子の中で、大きな変化が起きていた。
保坂はカウンターの中でパソコンを開いた。そして、メールを打った。
良介。日本へ帰ってこい。
逮捕されても大丈夫だ。守ってくれる人がたくさんいる。
すぐに帰ってこい。愛する人を強く抱きしめるんだ。
保坂は、皆が楽しそうにしているのを横目で見ながら、最後のコーヒーを入れた。コーヒーのいい香りが店内に広がっている。西の空が赤く染まってきた。そろそろソウル・キッチンが閉まる。
保坂は、大人にはコーヒーを、子供たちには砂糖入りの甘いカフェオレを配った。そして、配り終えると視線を窓の外に向けて言った。
「ここの通りは、通称ラヴ・ストリートって呼ばれててね。夕日に向かって、手を繋いで歩いたカップルは、永遠に結ばれるんだよ」
美代子が、にっこり笑ってエリを見た。
「知らなかったわ。エリさんは知ってる?」
「いいえ」
保坂は、美代子を見て口角を上げた。
「だって、良介と美代子ちゃんが作った伝説だからね」
「まあ」と、美代子は頬に手を当てて照れてみせた。
啓太郎は、やはりという顔をしてふっと笑った。店内にはドアーズの『ラヴ・ストリート』が流れていた。
「今かかっている歌のタイトルから思いつきましたね」
「いや、あながち嘘でもないよ。この店を始めて四十年。毎日、いろいろなカップルを見てきた。この通りで繰り広げられるドラマを見てきた。だから、この伝説は確かだよ」
光輝が、ちらっとエリの顔を見た。エリも光輝を見た。
保坂が前にいた光輝の頭に手をのせた。
「この二人を見たのは、丁度一年前だった」
「あっ」と、光輝が小さな声を出した。
「さすがに猛スピードで走り抜けたカップルは、君たちが初めてだった」
「見られていたんですね」
エリが赤くなった。
「まあ。そうなの。素敵ねえ」
美代子は少女のように微笑んだ。
啓太郎が光輝を冷やかした。
「シンデレラを迎えに来た王子様みたいだったらしいよお」
光輝は、啓太郎を横目でちらっと見てから、にやりと笑ってやり返した。
「ちょっと、おじさんのジェラシーが入ってます?」
「おじさんって何だよ。第一印象どおり、生意気小僧だな。南城光輝」
啓太郎が光輝の首に腕を回して、ぐいぐいと絞め上げる真似をした。
「おじさん、大人げない」
馨がぽつりと言った。
皆が一斉に笑った。
聡美は佑香に向かって微笑んだ。
「でも、それが本当なら、女の子は、みんな歩きたがるわよね」
佑香は手を挙げてエリに宣言した。
「私も、好きな人ができたら、絶対に歩きます」
エリが美代子に微笑みを伝えた。
「じゃあ、私、その伝説、学校で流しちゃおうかな」
「ええ。私が作った伝説ですもの」
美代子は保坂に頷いた。
「本当かどうか、帰りに試してみるといい!」
保坂は腕を組んで自信たっぷりの表情をした。
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