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『ラヴ・ストリート』【5】

スイーツ・コンプレックス
霧島エリは、心が空白になると呟いてしまう。登下校の地下鉄、道端、自分の部屋、ベッドの中、眠る前は必ずだ。もはや口癖に近い。特に授業中は、その頻度が格段に上がる。心で何度も繰り返す。
 彼と私は繋がっている。きっと繋がっている。
 エリはショートカットで、一見、体育系の部活動をしている活発な女の子のイメージだ。しかし、活発でも、スポーツができるわけでもない。おしゃれでも、美人でもない。成績が特別にいいわけでもない。秀でたものはない。それは自分でも分かっている。
 エリは教室の窓から分厚いコンクリートで出来ている正門を見ていた。以前はあの門が大嫌いだった。この「セイジョ」と呼ばれる女子校に入学してからずっと、あの門は自分の個性、主張を消しなさいと見えないプレッシャーをかけているようだった。普通の女子高生を演じることに徹し、目立たず、敵を作らず、はみ出さず。エリはそれを実践するために、そこそこ合わせることができるグループを探して身を置いた。そして、いつも興味のないアイドルグループや、放課後に食べるスイーツの話で盛り上がるふりをした。特に苦痛だったのはスイーツで、全く受けつけないわけではないが、ケーキなどはあまり食べたいと思わなかった。何故かチョコレートだけは好きなのだが。しかし、周りは違う。エリのような女の子は稀だ。とにかくスイーツに目がない。エリも好きなふりをする。話を合わせる。そのせいで正門を出ても開放されるどころか、スイーツめぐりにつき合わなければならなくなった。たまに嘘の用事を作って避けてみるが、それが続くと怪しまれる。だから、我慢してつき合う日々が続く。これも社会勉強だ。社会に出たらやはり周囲に合わせていかなければならない。
 スイーツが好きな可愛らしい女の子にはなれない。
正直、疲れるだけの学校生活だった。ひとりが許されるなら好きな本でも読んでいたい。クラスには何人かのアウトローがいた。無理して群れないマイペース主義者たち。それでいてはみ出ない。余裕というものが漂っていた。そんな彼女たちには共通点があった。門の外で待っている恋人がいることだった。エリは羨しかったが、恋人なんて夢のまた夢だと諦めていた。現に好きな人も、憧れの人もいない。つまらない高校生活だった。しかし、エリの世界は、一瞬にして変わった。あの門は特別な存在になった。
 あの日が全てだった。
 一年前。高二の秋だった。光輝があの門を背にし、エリを待っていたあの日だ。
「ねぇ、エリ、見て。超イケメンが門のところにいる」
 エリは玄関を出て目を疑った。まさか光輝が本当に学校へ来るとは思わなかった。
「誰のカレシだろうね」
「あの制服って、フゾクじゃない?」
「あんなにかっこいい人もいるんだね」
 友人たちが盛り上がっている。エリの心臓は破裂しそうなくらい、どきどきしていた。
 光輝がエリを見つけた。静かに門を入ってきた。空気の流れが変わった。
「こっちに来るよ」
「誰? 誰?」
 友人たちがきょろきょろと周りを見て興奮している。
 大勢の視線が光輝に集まっているのが分かった。玄関、校庭、教室。あらゆる場所にいる生徒たちが異星人の進入を感知し、興味を抱き、何かが起こりそうな期待の目を持って見ている。
 光輝はエリに微笑んだ。エリの胸がキュンとなった。初めての感覚だった。刹那、尖った胸の先が震え、唇が痺れ、全身のあらゆる器官に指令が走った。
「見つけた」
 光輝はそう言うとエリの手を取り、いきなり走り出した。
「えーっ」
 エリが小さく叫んだ。「待って。どうして走るの?」
 それを聞いて、光輝は少し愉快そうな顔をした。
「何となく」
 光輝とエリはしっかりと手を繋いだまま走り続けた。
 映画のシーンのようだった。そんな非現実的なことがエリに起こったのだ。今でも、その光景を思い出すと胸が熱くなる。今後一切良いことがなくても、その思い出だけにすがって生きていけそうだと思う。
 結局、エリはその後、中島公園のボート上で光輝に説教することになるのだが。
 その日からエリは、一目置かれるようになった。仲良しを演じていたグループ内でも、みんなの態度が急に変わった。イケメンでフゾクの彼氏がいるからという単純な理由だった。自分では何一つ努力をしていない。中には不似合いだとか、有り得ないと陰口をたたく者もいたが構わなかった。エリは見事にスイーツめぐりから解放されたのだ。最上級の言い訳ができる。憧れのセリフをさらりと言う。
「ごめん。今日、彼と約束があるから」
 全てが嘘ではなかった。光輝はちゃんと待っていた。
 あれから一年が過ぎ、エリも光輝も三年生になった。週に一度は会う。光輝からメールがくる。恋人同士のようだった。
 エリはあの門を眺めながら、いつも光輝のことを考える。でも、光輝の方は授業中にエリのことを考えたりしないだろうと思う。光輝の秘密を知っていると言えば聞こえはいいが、実は弱みを握っているだけなのだ。これではずるがしこい悪女だ。「あのことは誰にも言いません」と宣誓しない限り、光輝はエリの側にいるだろう。いっそのこと宣誓しようか。自由にしてあげようか。いや、あえて行動を起こさなくても、いつか光輝はこんな自分から離れていくだろう。自然に任せよう。その時を待とう。繋がっていること自体、奇跡なのだから。もう少し夢をみさせてもらおう。エリはいつも衝動を抑える。
 彼と私は、運命共同体だ。
「エリ。今日もカレシとデート?」
「うん」
 嘘だった。
「残念。おいしいケーキ屋さん、見つけたのに」
「ごめんね」
 エリは放課後になると、急いでデートへ向かうふりをしながら、真っ直ぐに家へと帰った。光輝と会う日以外は一刻も早く家に帰りたかった。自分の部屋でほっとしたい。素でいられる空間に逃げ込みたい。
 エリが自宅に入ろうとした時、道端に止まっていた車のドアが開き、助手席から四十代の女性が顔をのぞかせた。そして、小走りに近づいてきた。
「あのう。すみません。ちょっと、お伺いしたいのですが」
「はい」
 エリは突然のことに警戒したような顔をした。一年という時間に油断していた心が張り詰める。
 女性は安心を促すような笑みを浮かべた。
「私、小学校教師の河野と言います」
「はい」
 続いて運転席から、スーツ姿の男性も降りてきた。胸ポケットから名刺を取り出すと、エリに差し出した。
「教育委員会の藤井と申します」
「教育委員会?」
 確かに真面目で実直そうな青年である。声は潜めているが、はっきりとした口調だ。
「向かいの今野さんのお宅に用がありまして、毎日お伺いしているんですが、いつ来てもお留守のようなんです」
 エリは首をひねった。確か七人住まいの大家族だったはずだ。祖父母、父母、子供が三人。
 教諭は困り果て、懇願するような目をしてエリに訴えた。
「電話をしても繋がりませんし、朝とか日中とか姿を見かけられたことはありますか?」
 毎日、よく見かけますと言いたかったが、話が長くなりそうだったので、エリは言葉を呑んだ。あまり関わりたくない家族だった。おそらく居留守を使っているのだろう。
「あまり見かけません」
「そうですか」と、教諭は落胆した。
 居留守を使われていることは、端から承知しているようだった。しかし、職務上、放棄するわけにいかず、こんな時間外勤務を強いられているのだろう。   
 教育委員会の藤井は、エリに向かって長期戦になりますと宣言するかのように言った。
「もう少し待ってみます。お宅の前に車を止めていても邪魔になりませんか?」
「大丈夫です。母にも伝えておきますから」
「ありがとうございます」
 二人は一礼すると再び車に乗り込んだ。
 エリは今野家の方をちらっと見た。リビングのカーテンに、チカチカと電飾のようなものが映っている。明らかにテレビの画像だ。
 ちゃんと居るじゃない。
 そう思いながら、エリは玄関を入っていった。

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