『ラヴ・ストリート』【17】
グレート・マザー
五十嵐聡美は、以前からお気に入りのベーカリーショップ『レッセ・フェール』に寄った。その店には広めのイートイン・コーナーがある。いつも利用するのは窓に面したおひとり様用のカウンター席だった。聡美は意外と男気質で、飲食店にひとりで入ることに抵抗がない。正直言ってひとりの方が好きだった。
短大時代の友人や馨の学校の母親たちと食事に行っても、会社の上司や部下、姑や夫、先生や他の保護者など、だれかれの文句と悪口ばかりで疲れてしまう。聞いていると妙に悲しくなってくる。何よりも仕方なく相づちを打ち、同意したふりをする自分がいやだった。皆にはそれがストレス解消なのかもしれないが、聡美にはそれがストレスだった。悪口によって対照となる人間の評価が落ちるのだから、一時の感情で言うべきではない。ましてや身内の恥はさらすべきではない。人をどうこう言えるほど自分は立派でもない。
お昼時に混み合うのが苦手なので、少し早いが十一時半には店を訪れた。今日は午後から馨の授業参観がある。そういう日に限って途中下車して立ち寄ることにしている。数ヶ月に一度のささやかな楽しみだ。
大好きなバジル入りのベーグルとクリームチーズ、スモークサーモンの組み合わせを頼んだ。飲み物はこの頃カフェオレにしている。少しでもカルシウムを採ろうと意識しているのだ。店員が作っている間にその他の具材に目を向け、次はどれを食べようかとあれこれ眺めて楽しむ。ベーグルサンドとカフェオレを受け取ると、カウンターのいちばん端に置いた。手先がまだ冷たい。これからどんどん寒くなる。コートを脱いで椅子の背に掛けると、ほっと息をつき座った。
また、頭の中でノクターンのメロディが流れ出した。
窓から街並みが見える。時計台が見える。黄葉がパラパラと落ちてくる。歩道を埋め尽くした葉が風に舞い上がる。そこに元カレの姿を欲する。
いつかどこかで、すれ違う。
家にひとりでいるのと、こうして外でひとりぼっちなのとは少し違う。家では決して見えない元カレの幻影が、こんな場面ではふと現れる。楽しい。元カレは誰も聞いてくれない日常の退屈な話を笑顔を浮かべて聞いてくれる。例えば、骨粗しょう症予防のためにカフェオレにしているとか。折れてくっつけた前歯がとれないように気をつけてベーグルサンドを食べるとか。そうしているうちに、自然と聡美も優しい顔つきになる。
どうして、結婚なんかにこだわったのだろう。今、三十歳を過ぎて、冷静に考えれば形式なんてどうでもよかった。よくカウンセラーは「後悔しても何も始まらない。前を向いて生きよう」とアドバイスするが、後悔にすがって生きている人間もいるのだ。選ばなかったもう一方の人生を想像して、そちらの自分に幸せを託す。結論から言えば、今がものすごく不幸なわけではない。寂しいだけだ。
店内には焼きたてのパンの香りが漂っている。奥からパンを載せたトレーが次々と運ばれてきて棚に並べられている。聡美は、それを見て、今度はパン作りに挑戦してみようかなと思った。焼きたてのパンの温度がたまらなく好きだった。
気がつくと、トレーを並べ終えた男性店員が、聡美の方をじっと見ている。真っ白なコックコートにコックベレー。服装から、パン職人だと分かった。聡美はパンをじろじろ見ていたことが恥ずかしくなり、一瞬、目を逸らした。しかし、その様子が気になり、店員の顔をもう一度よく見た。それは懐かしい顔だった。
「小川くん?」
聡美は、そう言いながら無意識に席を立つと彼に近づいた。
小川くんは、顔を赤くして、こくりと頷いた。
小学校時代と顔つき、仕種まで全く変わっていなかった。恥ずかしがり屋の小川くんは、絶対に自分から話さない。聡美が話すことに、いつも頷くだけだった。
「ここでパンを作ってるの?」
聡美は小学生の彼に尋ねるように言った。
小川くんは赤くなったまま頷いた。
「ものすごくおいしいね。私、大好き」
聡美は同級生の彼に話すように言った。
小川くんは嬉しそうに頷いた。
聡美は、あまりの懐かしさに涙が浮かんできた。たった一年、クラスが同じだけだった。しかも、接点があったのは二学期に席が隣同士になった一時だった。それなのに、懐かしくて、懐かしくて、涙がこぼれそうになった。
小川くんは心配そうに聡美の顔をのぞき込んだ。
「ああ。大丈夫。懐かしくて。これ、うれし涙だから」
聡美は目尻に指を当てて涙を止めた。
小川くんは安心したように笑顔で頷いた。そして、ぺこんと頭を下げると奥へと戻っていった。
聡美は席に戻り、カフェオレを一口飲むと、ふっと笑った。今のやりとりは昔のままだった。再現しているかのようだった。
そういえば・・・聡美はあるエピソードを突然に思い出した。
聡美は小学五年生の時、父親の転勤で札幌に引っ越してきた。四度目の転校だった。さすがに転校にも慣れていて、どうしたらすぐにとけ込めるか、どうしたらいじめられないで済むかをすでに心得ていた。二学期には班長に選ばれた。その時、小川くんと同じ班、隣同士になった。
小川くんの今までを知らない聡美は、普通に話しかけて驚いた。全く声を発さず、顔を真っ赤にして頷くだけで、会話が成立しない。しかし、休み時間に他の男子にからかわれ、ズボンを下げられた時、「やめて」と小さく言ったのを聞いて喋るのだと安心した。小川くんには清潔感があった。それは、いつも来ている綿のシャツやズボンに、きちんとアイロンがかかっていたからだった。お母さんの愛情がピンとしたシャツから伝わった。
小川くんは勉強が苦手だった。黒板の内容をノートに書き写すことができなかった。聡美はすぐに気がついて手助けをしたが、一文字書くのに相当時間がかかり、がんばっても一行書けるかどうかだった。テストが返ってくる度、ちらちらとのぞくと、ほとんど白紙だった。お節介の聡美は小川くんのことが心配でたまらなくなった。放っておけなくなった。頼まれもしないのに、あれこれと世話をやくようになった。
小川くんは忘れ物の常習犯だった。しかも、忘れたことを先生に言えない。教科書だけではなく、絵の具、習字道具、裁縫道具、必ずといっていいほど聡美が貸していた。聡美は別に迷惑だとも思わなかった。それが小川くんのペースだと受け止めていたからだ。
ある図工の時間、全員に同じぬり絵が配られた。山、川、木々など、自然に囲まれた家の絵だった。空に虹が架かっている。それを好きな色で塗るというものだった。小川くんはやはり色鉛筆を忘れた。聡美は「自由に使っていいよ」と、机の真ん中に、自慢の二十四色の色鉛筆を置いたが、小川くんは、もじもじしたまま下を向いていた。いつも業を煮やした聡美が「遠慮しなくていいの」と言うと、ようやく遠慮がちに手を伸ばすのだった。小川くんは、照れ笑いを浮かべながら、いちばん端の黒色の鉛筆を手に取った。聡美がまさかと思って見ていると、空を黒色で塗り始めた。太陽も虹も黒色で塗った。「いろんな色を使っていいよ」と言っても、照れくさそうにして黒色を塗り続けた。小川くんには、景色がこんなふうに見えているのかなと、聡美は余計な心配をした。
二学期の終わり頃、参観日があった。たくさんの母親が来ていた。聡美の席がいちばん後ろだったので、聡美の母親は気を遣い、向こう側に離れて立っていた。
授業が終わり、教科書をカバンに入れていると、聡美の後方に立っていた見知らぬ母親が、聡美に話しかけてきた。
「いつもありがとう」
「えっ?」
優しい笑顔の若い母親だった。小川くんが照れくさそうにちらちらと見ている。
聡美は、その時、ようやく小川くんの母親だと気がついた。
小川くんの母親は、もう一度、繰り返した。
「いつも優しくしてくれて、ありがとう」
聡美は突然のことに顔が真っ赤になった。
「い、いいえ」
完全に声が上ずってしまった。それから、どきどきが止まらなかった。嬉しいやら、恥ずかしいやら。半ば強引にお節介をやいていただけなのに、お礼を言われるなんて。そう考えると、赤面したままになった。
学校からの帰り道、聡美はようやく冷静になって肝心なことに気がついたのだった。
小川くんは、お母さんに学校であったことを、ちゃんと話しているんだ。だから、お母さんは、私にありがとうって言ったんだ。「いつも優しくしてくれて、ありがとう」って。小川くんは景色を黒一色で塗ったけど、心の中の景色は本当は二十四色。いや、それでは足りないくらいたくさんの色で塗られているんだ!
聡美は、そのエピソードを鮮明に覚えていたことに驚いていた。今まで二十数年間、一度も思い出さないでいたことが不思議なくらいだった。小川くんの母親の優しい笑顔。無器用な息子を見守り、大きな愛情で包み込む絶対的存在。
グレート・マザー。あんな母親になりたいと、五年生の聡美は思ったはずだ。
それに引き替え、今の自分はどうだろう。馨のテストの点数が五点上がった下がったと一喜一憂している。夫の意見とはいえ、将来のためにと遠い小学校に通わせ、帰ってからは塾と習い事で縛りつけている。馨は学校であったこと、友達のことを、何も話してくれない。こちらから聞こうともしなくなった。こんな母親になるつもりはなかった。お節介の聡美ちゃんはどこへ行ったのだろう。いつの間にか、馨と距離ができてしまった。その距離が寂しくて、家の中でも孤独で、元カレに執着してしまう。幻影を追うことに逃げてしまう。悪循環だ。
聡美は、また因果律について考える。ここで、小川くんに会ったのには意味がある。
グレート・マザー。そろそろ目覚めなさい。
神様が、もう夢をみるのをやめなさい。期待するのをやめなさいと言っている。もっと、息子に目を向けなさい。母親に戻りなさいと言っている。馨が精神的に自立するまで、母親を諦めてはいけない。
小川くん。お母さんは、お元気ですか?
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