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『ラヴ・ストリート』【42】

  アウト・ザ・ブルー
 
五十嵐聡美は、夫から離婚を切り出されるのを待っていた。しかし、一向にその気配がない。有紗と会ってから一週間が過ぎた。どうなっているのだろう。街に積もった雪は、ここ数日の暖かさで、すっかり解けてしまった。今年の11月の天候は不安定だった。真冬並みに冷え込んで雪が積もったかと思えば、秋に戻ったように暖かくなって解けてしまう。その繰り返しだった。まるで女心のようだ。有紗も気が変わったのかもしれない。まあ、どちらに転んでも、もういい。そんな心境にまで達していた。若い妻の方がいいからと放り出されてもいい。家政婦と割り切ってこのまま働き続けてもいい。馨がきちんと生活できればそれでいい。結局、その馨にさえ醜態をさらし、軽蔑の眼差しで見られているのだから救いようがない。未だに分からないのは、馨が、何故わざわざ、よりによって、大切なオルゴールを壊したのかだ。どこまでもついていない。やはり、やけっ婚の罰だ。
 元カレは自分を思い出すことがあるだろうか。おそらくないだろう。きっと結婚はしていなくても恋人はいると思う。優しい人だった。礼儀正しくて、「ありがとう」とよく言う人だった。嬉しいことは嬉しい。楽しければ楽しい。おいしければおいしいと、思ったことは言葉で伝えてくれる人だった。それが当たり前だと思って、五年間を過ごしてしまった。そんな天性の優しさと素直さを持った人は、そうそういないのだと、別れて初めて気がついた。その優しさをずっと欲している。女はわがままだ。無い物ねだりが好きだ。
 寂しい時は寂しいと言う。そんな相手もいなくなってしまった。女友達に寂しいと電話できる年齢でもなくなってしまった。時々、都会の雑踏の真ん中で叫びたくなる時がある。
 誰か、私を思い出して! 思い出してくれたら、死んでもいい!
 ほとんど病的だ。カウンセリングが必要かとも思う。しかし、そんな勇気もない。 
 聡美は夫が嫌いではなかった。一緒にいれば好きになるだろうと思った。しかし、次第に好きではなくなった。いつの間にか嫌いになった。先日、ソファに投げ飛ばされて大嫌いになった。死ぬほど嫌いになった時は、受け身はやめて自分から離婚したいと言い出すつもりでいる。きっと、夫も同じ経過で自分を嫌うに至っていると思う。かろうじて子供の存在で繋がっているに過ぎない。夫婦とは何だろうと思う。今は一緒にいると寂しい存在でしかない。馨が全てだった。可愛くて愛おしくてたまらなかった。いつも抱きしめていた。しかし、ここ数年、馨が急速に離れていき、反抗するようになってからは、育児に逃げることもできず、それこそ毎日がブルーだった。
 食欲不振と不眠に悩まされるようになった。食べようとすると吐き気がした。気持ちが悪いのを我慢して食事を作るようになった。一週間で四キロ痩せた。体調が悪いので寝ようとすると、胸騒ぎと冷や汗ですぐに目が覚める。眠れない。いびきをかいて寝ている夫の横で、日が昇るのをじっと待つ。結婚当初から体調が悪いのを訴えても、夫は聞く耳を持たなかった。確かに夫がどうこうできることではない。病院へ行けば済むことだ。分かってはいるが、演技でも心配してくれる一言が欲しかった。夜が、暗闇が怖くてすすり泣いてみる。何も変わらない。ここ数日はそれにも耐えられなくなり、朝の三時半には、リビングのソファに座り、カーテンの隙間から朝日を待つ。鬱病なのかとも思う。でも、それも認めたくない。弱い女のような気がして嫌だった。
 誰か助けて! 助けて!
 叫んでいると朝日が昇ってくる。暗闇から解放されて、少しほっとする。どんなにつらくても朝はやってくる。一日は始まる。時間は経つ。月日は流れる。
 少し前までは、オルゴールのノクターンを聴きながら、呪文のように繰り返し言っていた。
 いつかどこかですれ違う。
 寂しかったが希望もあった。しかし、今はノクターンも聞こえない。希望もない。睡眠という、たった一つの現実逃避の手段まで奪われてしまった。夢みることもできない。呆然としたまま、錯乱状態で叫び続ける。
 助けて! 助けて!
 そして、ついに聡美は薄暮に幻影を見る。
 聡美は、ふらついた体で夕食の買い出しに行こうと、門の鉄扉に手を掛けた時、元カレの幻影が道路にあるのを見た。
「田中じゃなくて、五十嵐っていう名字なんだ」
 啓太郎は近づいてきて、向こう側からやはり鉄扉に手を掛けた。扉を挟んで、聡美と啓太郎は、しばらく見つめ合った。あの頃に時が戻った。
 聡美はもう死ぬのかと思った。体も精神も衰弱しきっていた。こんなにも、はっきりと啓太郎の幻影が見える。あんなに会いたかった啓太郎が目の前にいる。
 そうか。私、死ぬんだ・・・。
「聡美。全然、変わってないね」
「啓太郎も」
「子供はいるの?」
「男の子が一人」
「そう」
「そっちは?」
「独身のまんま」
 神様からの最後のプレゼントだと思った。この幻影が消えたら、もう啓太郎には会えない。話すこともできない。聞かなければ。真実を。
「どうして、結婚できないって言ったの?」
「若くて、勇気がなかった」
「勇気?」
「ああ。今なら言える」
「じゃあ、言って」
「父親が銀行強盗犯で、逃亡したままなんだ」
「えっ?」
「つき合っていた五年間、ずっと言えなくて・・・嫌われるのが怖かった」
「それでも構わないって言ったら?」
「それはそれで困ったと思う」
「そう」
「それにフリーライターだけで食っていけなくて、週四でバイトもしてる」
「そう」
「だから、こんな大きな家に住まわせてあげられなかった」
「そう」
「あとは・・・」
「まだ理由があるの?」
「俺、マザコンなんだ」
「それは知ってた」
「そうかあ」
 啓太郎が笑った。目尻を下げて、大きな口を開けて笑う。昔のままだ。
 聡美は現実と混同した。懐かしさに胸が苦しくなって、涙が浮かんできた。しかし、泣くまいと思った。泣いたら、この幻影は消えてしまう。せっかく会えた啓太郎に、元気で、気が強くて、凛とした自分を見せたいと思った。
「私を思い出すことはある?」
「いつも」
「嘘」
「楽しかったから」
「えっ?」
「聡美といて楽しかった」
「それを聞いて、もう十分だわ」
「後悔してるんだ」
「後悔?」
「聡美と結婚したかった」
「今になって、随分と素直なのね」
「この間から、人が変わったみたいなんだ」
「何かあったの?」
「拳銃で撃たれた」
「えっ?」
「女子高生に撃たれた」
「女子高生・・・別れる時、張り倒しておくべきだったかしら」
「顔は穏やかだったけど、やっぱり怒ってたんだ」
「ええ。あの時はね。でも、今はもういい」
「どうして?」
「こうして啓太郎に会えたから」
 聡美は、再会して最初の笑顔を啓太郎に見せた。
「そうだ。智樹に会ったんだって?」
「えっ?」
「小川智樹」
 聡美は、二度、瞬きをした。啓太郎がいる。もう一度、瞬きをした。啓太郎はそこにいる。確かにいる。
「えーっ! 啓太郎なの?」
「今さら、何を驚いているんだよ。さんざん喋っておいて」
 聡美はとたんに声が震えた。
「幻だと思って話してたから」
「人を幽霊みたいに言うなよ」
「うん・・・」
 聡美は声だけでなく体も震えているのがわかった。いざ夢が現実になると、歓喜よりも畏怖のような感情が先立ち、人間は震えるのだということが分かった。
「智樹から聞いたよ。働いているパン屋で会ったって」
「うん」
「智樹、言ってた」
「何て?」
「会った瞬間、聡美が涙ぐんだって」
「だって、懐かしかったんだもの」
「それを聞いた時から、気になってたんだ」
「何を?」
「懐かしい人に会って、涙ぐむのは、幸せじゃないからだよ」
「えっ?」
「今だって、俺に会って、涙ぐんでる。目が潤んでる」
「年とると単純に涙もろくなるのよ」
「痩せたね・・・幸せなの?」
「今、答えを持ってくる。待ってて」
 聡美は急いで家の中に入った。すぐに食器棚の引き出しを開け、家計簿の下に隠してあった拳銃を取り出した。そして、玄関を飛び出した。
 啓太郎は白い息を吐いて立っていた。本当に幻ではない。そこにいる。
 聡美は、銃口を、たまらなく愛しい啓太郎に向けた。
「撃ってもいい?」
「また拳銃か」
「女子高生とは、弾に込められている想いが違うわよ」
 聡美の瞳から、一粒、涙がこぼれた。「一緒に、死んで」
 啓太郎は甘受したように優しい目をして聡美を見た。
「いいよ・・・」
 聡美は引き金を引いた。
 パーン。
 冷たい銃声が薄暮の住宅街に響きわたった。
 啓太郎の髪の毛に、万国旗と色とりどりの細い紙テープが絡みついている。
「一ヶ月早いけど、メリークリスマス」
「クラッカーかあ」
「なんだと思ったの」
「本物の拳銃」
「まさか」
「この間、撃たれたあ、死ぬーって思った時、聡美の顔が浮かんだんだ」
「えっ?」
「まだ、好きなんだと思った」
 聡美はもう涙を止めることができなかった。
「私、ずっと会いたかった」
「聡美」
「会えたら死んでもいいと思ってた」
 それが答えだった。聡美の瞳から涙があふれ、冷たい頬を伝った。
「もうだめだ」
 啓太郎は鉄扉を開けて入ってきた。「我慢しようと思ったけど、後悔すると思うから」
 そう言うと、聡美にキスをしようとした。
 聡美は、啓太郎の大きな手が聡美の頭を引き寄せた瞬間、本当に死んでもいいと思った。これ以上の幸せはもうないと思った。それなのに、瞳を閉じたとたん、前歯のことを思い出した。
 因果律。前歯が折れた意味がようやく分かった。啓太郎に出会った時、自分を見失う。自分が背負っている全てのものを忘れてしまう。感情に流されて不道徳な行為をしてしまう。それにブレーキをかけるために前歯は折れたのだ。
 聡美は唇が触れる直前に、頭をぐっと引いて後ろに一歩下がった。
「この間、ドアにぶつけて前歯が折れたの」
「えっ?」
「接着したけど、軽い衝撃でも、またすぐに取れちゃうの」
 聡美は前歯をイーの口にして見せた。この仕種でロマンチックな雰囲気は一気に吹き飛んでしまった。いや、聡美が自ら遠ざけた。
「折れてるか、よく分からないけど」
 啓太郎はのぞき込んで首をひねった。
 聡美は指をさした。
「こっちの歯。斜めにヒビが入っているでしょう?」
「本当だ。ほとんど目立たないけど」
「キスしたら、また取れる」
 啓太郎はぷっと吹いた。思った通りだった。啓太郎なら笑ってくれる。ちゃんと反応してくれる。啓太郎は聡美の頭をぽんとたたいた。懐かしい感触だった。胸がキュンとなった。どきどきした。いつ以来だろう。
「相変わらず、しっかりしてそうでドジだなあ」
「ドジって死語だって知ってる?」
「嘘」
「息子が使わねーよって言ってた」
「そうかあ」
 啓太郎は大きな口を開けて笑った。「あっ! キス、スルーされた」
「だから、前歯が」
「じゃあ、次からは折れないように、気をつけて、静かにキスする」
 聡美はふっと笑った。啓太郎といるといつも笑っていた。
「何で私の住所が分かったの?」
「コネクションを使って調べたから」
「私に会う理由は何?」
「どうしても会いたくて」
「啓太郎・・・」
「聡美。結婚してくれない?」
「えっ?」
「結婚して下さい」
 聡美は、刹那、心に持ち続けていた人魚姫のナイフを、混沌としたブルーの海に落とした。それは凪の暗い海底へ沈むと、静かに消えていった。その瞬間、水平線にかすかな光が見えた。そして、こちらに向かって強い風が吹いた。大きな波が起こった。

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