『ラヴ・ストリート』【13】
因果律とノクターン・アディクション
五十嵐聡美は、歯の治療を終えても、すぐに家へ帰る気にはなれず、大通の地下街を歩いていた。ショーウィンドーを飾る洋服や小物を眺めることもせず、ただぼんやりと雑踏の中に身を置き、当てもなく流れていた。視線は無意識にすれ違う人へと向いている。
いつかどこかですれ違う。
元カレは、その後もずっと札幌市内に住んでいるらしかった。人口百万都市は広いようで狭い。いや、狭いようで広い。思いがけずに、ばったりと街中で会ってもよさそうなものだ。しかし、別れてから十四年。そのような偶然は訪れなかった。
いつも会った時のことをシミュレーションしている。久しぶりと再会を喜び嬉しそうな顔をするのか。あなたのことなんか今の今まで忘れてましたとクールを装うのか。会いたかったと素直に涙を浮かべるのか。その後どうする気もない。ドラマチックな展開を期待しているわけでもない。ただ、もう一度だけ会いたい。
日々起きる出来事には必ず因果律がある。聡美は前歯を折った瞬間、それを考えた。前歯を折ったのには、きっと理由がある。
神様が、もう夢をみるのをやめなさいと言っている。
たかが歯を折ったくらいでと思うかもしれないが、女にとっては大事件だった。聡美はそれでも淡々と朝食の準備をし、夫と馨を起こして食卓に着かせてから、口を横に広げ前歯を見せた。そして、おどけながら言った。
「朝、起きたらぼーっとしてて、ドアの縁にぶつけちゃった」
馨が馬鹿にして笑った。
「かっこ悪い。出っ歯だからだよ」
聡美は馨に笑ってもらい少しだけ救われた。不思議な感情だ。笑われて救われる。
「もう恥ずかしくて、人前に出られないわよね」
夫は聡美をちらっと見ただけで面倒くさそうに言った。
「そんなもの歯医者でくっつくって」
そんな物理的なことは分かっている。聡美は駄目もとで話題を引っ張ってみた。
「でも跡とか残るでしょう?」
「誰もおまえの歯なんか見てないって。大袈裟だな」
夫はこれ以上話しかけるなと言わんばかりに、うざったそうな表情をした。そう言えば、ウォッチタワーがある家の父親も頭痛を訴えた妻にこんな態度をとっていた。どこの夫も、朝から妻の話を真剣に聞くのは面倒らしい。
「確かに大したことじゃないわよね」もう恋をするわけじゃないんだから。と心で付け加えて聡美は席を立った。別に夫の態度に傷ついたわけでも落胆したわけでもなかった。最初から期待などしていない。それどころか、すでに違うことに思いを馳せていた。こんな前歯では元カレに会っても困る。会えない。早く治さないと。
聡美は珍しく家事を放ったまま歯科医院に急行した。先端が斜めに折れた前歯は何とか無事に接着することができた。しかし、鏡でよく見ると、はっきりと跡が見てとれる。聡美はもう歯を見せて笑えないとがっかりした。とりあえず、これ以外に治療方法はないらしい。これだけ医療技術が進んでいるのに、どうして骨と違って歯は再生しないのだろうと悲しくなった。
神様がもう期待するのをやめなさいと言っている。
多少費用を掛けてもよいなら審美治療で目立たなくする方法もあるらしいが、夫に相談し意見を聞くまでもなかった。夫の言葉は容易に想像できる。普通の主婦なんだから何もそこまでしなくていいだろう。つまり、もう女としてがんばる必要もないし、そんな年でもないということだ。前歯の傷跡に気がついてくれる人もいない。吐息がかかる距離に顔を近づける人もいない。確かにそうだ。
聡美は洋服でも買おうかとデパートに入りかけたが、クローゼットで出番を待っているうちに流行遅れになってしまうだろうと考えて躊躇した。おいしいものでも食べようかとレストランをのぞいたが、自分で作れそうなものばかりでやはり躊躇した。自分のためにお金を使うのはもったいない。その分を他に回せる。そんなふうに次から次へといろんなことを我慢するので、さらに落ち込んでいく。ぱーっとお金を使う度胸もない。
地下から地上に出て、今度は大通公園を歩いた。快晴だった。どこまでも高く澄み切った青い空。冷たい空気を突き抜け差し込む陽光。火照った頬に心地よく吹く風。そこにいる誰もが幸せそうに見えた。お互いを気遣うようにゆっくりと歩く老夫婦。芝生の上を駆け回る幼児とそれを見守る母親。赤ちゃんを膝に抱いてあやす若い夫婦。手を繋ぎベンチで語り合う恋人。その様子がどれも素敵で、自分はひとり惨めで、切なくて大声で泣き叫びそうになった。その場にへたり込んで、幼児のようにわんわんと泣き叫びたかった。
もう一度だけ会いたい。もう一度、会えたら死んでもいい。
不幸なわけじゃない。世の中には不況風が吹いているが、前と何ら変わらない普通の生活を送っている。食べるものにも困らない。家もある。温かい寝床もある。着る洋服もある。病気を患っているわけでもない。それだけで十分のはずだ。たかが前歯を折っただけだ。どうして、こんなにちっぽけなことが悲しいのだろう。
聡美は涙を堪えきれず、思わずベンチに座った。慌ててハンドバッグから鏡を出すと、目にゴミが入ったふりをしてごまかした。前にも、こんな滑稽な芝居をしたことがある。接待ゴルフに行ったはずの夫が、若い女性と一緒に歩いているのを見かけた時だ。馨の前で泣くわけにはいかなかった。夫に悪気はないのだろう。人を傷つけようとして故意にしているわけではない。心のままに行動しているだけだ。そんなたわいないことで傷つく自分が弱いだけなのだ。
因果律。これも、やけっ婚をした罰だと思う。
少し離れたところに噴水が見えた。それは陽光を受けてきらきらと輝き、水流が描く放物線は、宝物にしているクリスタル製のオルゴールを彷彿とさせた。
オルゴールから流れる曲は『ノクターン』だ。
小樽のオルゴール堂で元カレが買ってくれたものだった。裏にはイニシャルが刻まれている。結婚してからも、リビングの出窓に堂々と置かれている。
毎日、夫と馨を送り出すとテーブルへ持ってきて、コーヒーを飲みながらぼんやりと見つめる。曲に耳を傾ける。何度も何度もネジを巻き、昔へとタイムトリップする。
聡美は他のことに気持ちを向けていないと、ずっとこの状態でいてしまうのではと危機感を抱いた。子育てが一段落した頃から、何かに依存しないと時を過ごせなくなっていた。アディクションは、年々悪化していく。花をたくさん育てているのもその一つだ。寂しいと思う度、花がどんどん増えていく。冬になり花の上に雪が積もってしまうと、今度はお菓子作りに熱中し始める。夫も息子も大して喜ばなくなったスイーツを作り続ける。何かをしていないと一日中、オルゴールを聴いてしまう。
だから、街をぼんやりと歩く時は、否応なしに心の中にノクターンが流れてくる。そんなノスタルジーが元カレの幻影を見せる。似た人を見かける度にどきっとする。
聡美は公園のベンチから、ようやく立ち上がった。時間というのは涙を止める特効薬だ。馨が家で待っている。夕食は馨の好きなカレーピラフを作ろう。そう思いながら歩き出した。掃除をして、洗濯をして、アイロンをかけて、靴を磨こう。あれこれ忙しく動いて、心の空白をなくそう。少しでもノクターン・アディクションから脱しなければ。
いつかどこかですれ違う。
聡美はテレビ塔を見上げた。空が、あんなに高い。
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