『ラヴ・ストリート』【40】
ラヴ&レボリューション
夏目啓太郎は、午後、病院で検査を受ける美代子を車で病院へ送り届けてから、沢崎のもとへ向かった。迎えに行く四時までは時間があった。父の事件のことを思い切って沢崎に聞いてみることにした。年齢からして事件が起きた時、沢崎はすでに新聞社に勤めていたはずだ。
沢崎はいつものように煙草をふかしながら原稿を読んでいた。啓太郎が側に来るまで気がつかなかった。
「ご無沙汰しています」
「おお。例のパチンコ店の強盗事件はどうした?」
「すみません。頓挫しました」
「はあ?」
啓太郎はすかさずデパ地下の土産を差し出した。
「どら焼きです」
「おお」
沢崎は相変わらず和菓子に目がない。「で、次に取材する事件は?」
啓太郎は少し間をおいてからさらりと言った。
「三十五年前のエリート大学生銀行強盗事件です」
「えっ?」
「この事件を知っていますか?」
「ああ。俺が記者になって、最初に担当した事件だ」
「そうですか」
「本当は、もう全部、知っているんじゃないのか」
「さすが。沢崎さん」
「顔を見れば分かるよ」
「父親なんです」
「なんだってな」
「えっ?」
「お母さんから聞くまで気がつかなかったよ」
「えっ・・・母に会ったんですか?」
「先日、訪ねてこられた」
「どうして、沢崎さんを?」
「当時、取材したことがあるんだ。俺の名前をお母さんが覚えていらした」
啓太郎は自分が知らないところで、事が進んでいることに戸惑った。
「取材した記者と犯人の息子の関係だったんですね」
「お父さんは犯人じゃないだろうが。俺は、当時も今も、そう思っている。思っているじゃ、記者失格か?」
「いいえ」
犯人じゃない。啓太郎は沢崎からこの言葉を聞きたくて会いに来たのだ。
「お父さんは、お母さんとおまえをおいて逃げたんじゃないぞ」
「えっ?」
「お母さんに危害を加えると脅されて仕方なく姿を消したんだ」
「脅された・・・」
これが、たった一つ残った疑問の答えだった。
「おまえの将来のことを考えて身を引いたんだよ」
「そうでしたか・・・」
「お母さんは、おまえが事件どころか、父親の存在すら知らないと思っている。いつ事件のことを知ったんだ?」
「事件の全容を知ったのは先週です。でも、父親の存在と銀行強盗犯だと知ったのは中学二年の時です。夜中に母と祖母が話しているのが偶然聞こえて」
「そうか」
「無実の罪をきせられたとは知らなかったので、ずっと犯罪者の息子なんだって悩んでいました」
「だから、初めて会った時、ジャーナリズムの標的って言ったんだな」
「覚えていたんですね」
「強烈な表現だったからな」
沢崎はそう言うと、デスクの引き出しから書類袋を取り出した。「実はお母さんからこれを預かった。事件のことが書かれた記事らしい」
「そうですか」
「リビング・ウィルだとおっしゃっていた」
「リビング・ウィル・・・」
「お母さんは自分が死んだら、この事件のことを、真実を、おまえに伝えて欲しいと頼みに来たんだよ」
「母は強い人です。かなわない」
「今、受け取るか?」
「いいえ」
「じゃあ、預かっておくぞ」
「はい。では、失礼します」
啓太郎は沢崎に向かって深々と頭を下げてから、その場を立ち去った。居たたまれなかった。きっと泣きそうな顔をしている。いい年をした男が洒落にならない。すぐにトイレに駆け込んで鏡を見た。相変わらずふぬけの顔をしている。それでも鏡の中にいるもう一人の啓太郎は話し相手になった。話し相手も困惑の表情をして、こちらを見ていた。
リビング・ウィルか。きついな。参ったな。
沢崎は一つ重大なことに気がついていない。美代子は死期が迫っていることを感じてリビング・ウィルを託したのではない。三十四年間、必死に隠し通した秘密を、自分の死後、息子に知らせるようなことはしない。絶対に墓場まで持っていく覚悟をしていたはずだ。それがリビング・ウィルを残した。良介の事件が発覚することを想定したからだ。決意をしたからだ。
復讐。
それが分かっているのに何もできない。啓太郎は無力で非力な自分に腹がたった。あまりに情けなくて、鏡の中で震えているもう一人の啓太郎を殴りつけてやりたかった。そして、鏡の中の啓太郎に殴って欲しかった。
その後、啓太郎は車で市内をぐるぐると当てもなく走った。その間中、ずっと考えていた。同じことを何度も何度も繰り返し考えていた。
母には時間がない。アメリカにいる父親を捜し出すことはできないのだろうか。日本に連れ戻したい。母と会わせてやりたい。逮捕されても構わない。自分が守ってあげればいい。父親が守ってくれたように。
啓太郎は四時過ぎに病院へ美代子を迎えに行った。しかし、いつもの待合室に美代子の姿はなかった。少し待ったが一向に現れない。不思議に思い、受付で確認すると検査など受けていないことが分かった。一瞬にして動悸が激しくなり胸元に汗が噴き出た。
まさか・・・。
啓太郎は慌てて家に戻り、天袋から白い箱を取り出した。拳銃がない。美代子は今野のところへ行ったのだ。
パンドラの箱は開いた!
*
霧島エリは、発砲音のした方向を見た。少し離れた向こうの曲がり角に、人がうずくまっている。エリは全速力で雪道を走った。きゅっきゅっと雪が鳴いた。近くまで来るとそれが女性だと分かった。黒い細身のロングダウンコートに、ワインレッドのニット帽を被っている。エリは息を切らしながら声を掛けた。
「大丈夫ですか」
エリは背後から顔をのぞき込んだ。うずくまっていたのは、美代子だった。美代子は呆然としている。何か言おうとするが声にならない感じだった。エリは美代子の手に拳銃が握られているのを見て、ものすごく驚いた。美代子は寒さなのか、恐怖なのか、がたがたと震えている。あの時の自分を見ているようだった。
美代子の手から拳銃がぽとりと落ちた。エリは殺意が白い雪に埋もれていくのを見届けた。エリはその拳銃を拾い上げた。次の瞬間、あっと、思わず声が出た。あの感触が甦ってきた。
エリは拳銃をポケットに入れると自宅を指差した。
「私の家、すぐそこなんです。少し休んで下さい」
美代子は少しずつ現実へ戻ってきたようだった。エリの顔を見上げた。
エリは美代子の顔をじっと見つめた。どことなく面影があると思った。
「家には誰もいません。だから、安心して下さい。夏目さん」
「えっ?」
美代子はようやく声を出した。「どうして?」
エリはその様子を見て啓太郎の母親だと確信した。刹那、啓太郎のあの時の言葉が甦ってきた。
「ずっと、母ひとり子ひとりだったからさあ。しかも、癌で長くないんだ」
エリは静かに美代子の手を取った。凍ったように冷たい。ずっと外にいたのだろう。思わず強く握りしめた。
「歩けますか?」
「はい」
エリは美代子の体に腕を回した。ダウンコートの上からなのに、その細さが分かった。美代子を抱えるようにして、ゆっくりと立ち上がった。そして、そのまま美代子を支えるように寄り添い家へ向かった。エリは幸せすぎて重大な罪のことを忘れかけていた。
この人の、たった一人の大切な息子を殺そうとしたんだ・・・。
エリは美代子に申し訳なくて、言葉で謝罪することもできなくて、回した手に力を入れて、精一杯支えて歩いた。涙をこらえて心の中で何度も謝罪の言葉を繰り返した。
*
夏目美代子は、生きているのが不思議だった。コートを着たまま、脱力してソファに座っていた。エリに引きつけられるように、この家に上がり込んでしまった。
この少女は誰? 悪魔に取り憑かれた醜女が最期に見た天使?
今野を背後から狙って撃ったことなど、遠い夢のようだった。銃声が響いた時、振り向いた今野の顔は、ただの老人だった。それでも恐ろしくて、すぐに曲がり角に身を隠してしまった。銃から弾丸が飛び出すことはなかった。やはり、夢だったのかもしれない。悪い夢をみていた。美代子は突然現れた天使に目を移した。
エリはスクールコートを脱いで、キッチンのカウンターに面した食卓の椅子に掛けた。そのままキッチンへ行き、ポットに水を入れてコンセントを差し込んだ。
「今、部屋が暖まりますから」
対面キッチンのカウンターから、美代子の方をのぞき込んだエリの制服は、懐かしいセイジョのものだった。デザインは今風にアレンジされているものの、胸についたエムブレムもそのままだった。
「あら、セイジョの制服」
「はい」
「私も卒業しているのよ」
「ああ。そういえば、前に夏目さんが言ってました」
「まあ、そうなの」
美代子は、啓太郎とエリが一体どういう関係なのか、全く見当がつかなかった。
エリはまだキッチンにいて、食器棚からティーカップを出していた。手先が震えるのか、カチャカチャという磁器の音がした。
「あと、ロールキャベツがおいしいって。挽肉の中心にチーズが入ってるんですよね」
「そんなことも?」
「はい」
「啓太郎、マザコンなの」
「そんな感じがします」
エリがくすっと笑った。意図的に明るい話題で、心を和ませてくれているのが分かった。美代子ははっと気がつき、ようやくコートを脱いだ。近くにあったストーブの暖かい温風が心地よくて瞼が下がってきた。もう暖かさを感じることもないと思っていた。冷たい雪の上で命尽きるはずだった。ポットの湯が沸騰し電子音の『メヌエット』が流れた。エリがティーカップとクッキーをトレーで運んできた。そして、テーブルに置いた。
「どうぞ。ジンジャーティーです。今、はまってるんです」
「ショウガのいい香りがする」
「蜂蜜も入っているので、体が温まると思います」
「ありがとう。初めて飲むわ」
美代子はカップで手を温めながら、ジンジャーティーを一口飲んだ。「おいしい」
「ですよね」
エリは嬉しそうに言うと、クッキーを箱から出して皿に並べた。「クッキーもどうぞ」
美代子はもう一口飲んだ。本当においしかった。体がぽかぽかとしてきた。ここ数日は、ほとんど味覚が麻痺していて、何を口にしてもおいしいと感じなかった。不思議だった。今は体の痛みも全くなかった。何という穏やかな時を過ごしているのだろう。
「こんなによくしてくれて、本当にありがとう。えっと、お名前は?」
「霧島エリです」
「エリさんね」
「はい。あっ、私、夏目さんに電話を入れておきます。心配してると困りますから」
エリはキッチンのカウンターにトレーを置くと、椅子に掛かっていたコートのポケットから携帯電話を出した。そして、キッチンの方に少し離れて電話をかけた。
*
夏目啓太郎は、美代子が拳銃を持って出かけたことを知って、慌てて家を飛び出した。車のエンジンをかけているところで携帯電話が鳴った。エリからだった。
啓太郎はかなり焦った喋り方で電話に出た。
「もしもしっ」
「夏目さんですか。霧島です」
「ごめん。今、急いでて。後でかけ直していいかな」
「お母さん、大丈夫です」
「えっ?」
「夏目さんのお母さん、うちにいます」
「どういうこと?」
「偶然、通りかかったんです。すぐにお母さんだって気がついたので、家に来てもらいました」
「どうして、うちの母親だと?」
「あの拳銃、私から没収したモデルガンですよね」
啓太郎は白い箱に入っていた拳銃を、あの日に持ち帰った光輝のモデルガンとすり替えたのだった。
「ああ。よく分かったね」
「デザートイーグルでしたし、持ち手のところに、Lの字みたいなひっかき傷がついていたんです。夏目さんが無責任に捨てるわけもないと思ったので」
「君がいて助かった。誰かに通報でもされていたら大変だった」
エリの声が小さくなった。
「体の具合が悪いって、確か・・・」
「そうなんだ。今すぐ車で迎えに行くから。迷惑をかけて本当にごめん」
「いいえ。こちらは大丈夫ですから、気をつけて運転してきて下さい」
「ありがとう」
啓太郎は電話を切った手が震えていることに気がついた。大きな深呼吸を一つしたが、心臓の音が喉元まで響いていた。思わず目を閉じてハンドルに顔を伏せた。すぐに車を発進させることができなかった。
*
夏目美代子は、エリが向こうで「私から没収したモデルガン」と言ったのを聞いて、はっと思った。エリは啓太郎が話していたセイジョの子に違いない。パチンコ店強盗の共犯者。ボニーだ。拳銃はボニーのモデルガン・・・啓太郎は、あの白い箱を知っていたのだ。
エリは戻ってきて斜め横のソファに座った。
「車で迎えに来てくれるそうです」
「ありがとう」
「私もいただきます」
エリは少し冷めたジンジャーティーをすーっと飲んだ。そして、格子柄のチョコクッキーをさくさくとおいしそうに食べた。
美代子は幸せな気分になっていた。ずっと病気の痛みと闘ってきた。迫り来る死の影に脅かされていた。復讐の念に取り憑かれていた。あらゆる負の要素に囲まれて日々を過ごしてきた。それが、今は痛みもない。死の影も見えない。憎しみもない。全てが穏やかだった。どんな運命も全て乗り越えて甘受したような安堵感だった。
「楽しかった時の話をしてもいい?」
「はい」
「セイジョに通っていた時に、啓太郎の父親と出会ったの」
「そうなんですかあ」
「『カサブランカ』っていう喫茶店があるでしょう?」
「はい」
「そこでバイトをしていた大学生で、ひと目惚れしちゃったの。初恋」
「かっこいい人だったんですね」
「ええ。とっても」
美代子のおどけた顔を見て、エリはふふと笑った。
美代子はエリの笑顔に昔の自分を重ねた。この子は今、幸せなのだと思った。
「今、素敵な恋をしているのね」
「えっ?」
エリの顔が赤くなった。
「顔に書いてあるわ」
「はい。私も初恋です」
「そう。彼はどんな人?」
「太陽みたいな人です」
「太陽・・・大きな存在なのね」
「大きくて、眩しくて、暖かくて、明るく照らしてくれます」
「本当に彼が好きなのね」
「はい」
「羨ましいわ」
「私の方こそ、羨ましいです」
「えっ?」
「だって、初恋が成就して、革命を起こしたんですよね」
「革命?」
「人間は恋と革命のために生まれてきた」
「太宰治の『斜陽』ね」
「はい。革命とは、こいしい人の子を生み、育てること!」
エリは天使のように微笑んだ。「啓太郎さんですよね」
美代子ははっとした。こんな大切なことに今頃気がつくなんて。革命。愛する良介の子供を生み育てた。それは何て幸せな人生だったのだろう。まだ十代の無垢な少女に改めて教えられた。限られた時間の中でも、まだまだ素敵な出会いは訪れる。
「そうね。そのとおりだわ」
玄関のチャイムが鳴った。
「夏目さんですね」
エリは玄関に走っていった。玄関が開くと啓太郎の声がした。「迷惑をかけてごめん。お邪魔します」。啓太郎の足音が近づいてきた。ドアが開いて、入ってきた啓太郎を見て、美代子は目を細めた。良介に、こんなにも似ている。恋と革命は成し遂げられていた。
*
夏目啓太郎は、美代子の穏やかな顔を見て涙が出そうになった。側に駆け寄ってすぐに抱きしめてあげたかった。しかし、側に仁王立ちしたまま感情を押し殺し、生まれて初めて母親をたしなめた。安堵感の反動だった。
「何をやってるんだよ」
「啓太郎・・・」
「優等生の母親だったのに、五十半ばでグレてどうするんだよ」
ドア付近に立っていたエリが、気遣うように啓太郎の顔をのぞき込んだ。
「私、席を外しましょうか」
「いや、いい。いてくれて構わない」
啓太郎はエリにいて欲しいと思った。何故だか分からないが、この光景を見ていて欲しいと思った。
「俺を殺人犯の子供にするつもり?」
「ごめんね」
「父親は強盗犯、母親が殺人犯じゃ、俺、可哀想すぎるだろう」
美代子はものすごく驚いていた。声が震えた。
「お父さんのこと、知っていたの?」
「ああ」
「いつから?」
「中学二年の時。夜中に話してるのが聞こえちゃったんだ」
「そんな・・・」
「ずっと悩んでた。苦しかった」
「知らなかった・・・」
美代子は下を向くと手で顔を覆った。肩が震えている。すすり泣いている。
啓太郎は美代子の肩に両手を優しく置いた。
「話してくれてもよかったのに。俺はお父さんを信じたよ」
美代子は少し顔を上げた。
「でも、知らない方がいいと思ったの。一生、言わないつもりだった」
「だったら、そうしてくれよ。復讐なんかしないでさ」
「癌という悪い細胞が、体の中でどんどん増殖していくのと一緒に、憎しみや復讐の念まで増殖してしまったの」
啓太郎が美代子を抱きしめた。母を抱きしめたのも生まれて初めてだった。
「ジョン・レノンが死んだ時、あんなに銃を憎んだのに、その凶器を手にしちゃだめじゃないか」
「啓太郎、ごめん。ごめんなさい」
美代子は顔をぐちゃぐちゃにして泣き続けた。
「でもさ。誰にでも殺意を抱いてしまう瞬間がある」
「えっ?」
「お母さんの代わりに、俺が撃っていたかもしれない」
啓太郎は美代子を抱きしめたまま、エリの方を見た。エリも声を殺して泣いていた。啓太郎はエリに向かって微笑むと、静かにゆっくりと頷いた。啓太郎へ抱いた殺意への許しだった。それが伝わったのか、エリもしっかりと頷いた。
「お母さん。ジャン・バルジャンは、悪人じゃないと思うよ」
「えっ?」
「それにお父さんは、ジャン・バルジャンじゃない。犯罪者でもない。むしろ被害者、冤罪だ」
「そうね」
「お母さんが、いちばん知っているくせに」
「うん」
啓太郎は何と闘ってきたのだろうと思った。長い間、何を苦しみ、もがき続けてきたのだろうと。
「帰ろう」
「うん」
啓太郎と美代子は力強く立ち上がった。これからも病魔との闘いが続く。
美代子は涙をふいて笑顔を作った。そして、エリのところへ行き頭を下げた。
「エリさん。いろいろとありがとう」
「いいえ、こちらこそ・・・」
「彼と仲良くね」
「はい」
「恋と革命ね」
「はいっ」
エリもきらきらとした笑顔になった。
啓太郎はエリと出会うべくして出会ったのだと痛感した。母もそれを感じている。
今日もあちこちで衝動という名の銃声が聞こえる。銃声を聞きつけた人が集まる。しかし、ほんの数分ずれただけで人はすれ違う。だから、出会った人は最初から見えない糸で繋がっている。互いを引き寄せ、ほんのわずかな時間のずれを修復してしまう。だから、それに気づく人は少ない。偶然という言葉で片付けてしまう。一方で、必然と分かっていても断ち切らなければならない糸もある。完全に断ち切れなかった糸は、また出会いを生む。
エリと本当の別れの時が来た。啓太郎は光輝とエリの犯罪を見逃した以上、今度こそ、繋がった糸をきちんと断ち切るべきだと思った。
啓太郎は玄関で靴を履いている美代子に車のキーを渡した。
「先に車に乗っていてくれる?」
美代子はすぐに啓太郎の気持ちを察した。
「うん。じゃあ、エリさん。本当にありがとう」
美代子が深々と頭を下げた。
「また、ジンジャーティーを飲みに来て下さい」
「ありがとう。さようなら」
「さようなら」
美代子が静かに出ていった。エリは寂しそうに美代子の後ろ姿を見送った。
啓太郎も靴を履くと、エリに深々と頭を下げた。
「母を助けてくれて、笑顔にしてくれて、ありがとう」
「いいえ。そんな」
「本当にごめん。もう会うつもりはなかったのに」
エリは、一瞬、沈黙した。
「・・・えっ? クリーニング代は?」
啓太郎はふっと笑った。
「あれは冗談だよ」
「そうなんですか?」
「じゃあ、今日、世話をかけたからクリーニング代はチャラ。南城くんにもそう伝えて」
「でも」
「俺は君たちのことを忘れたんだ。だから、俺のことも忘れて欲しい。母のしたことも」
エリは啓太郎の言葉に戸惑っていた。
「もちろん、今日あったことは言いません。でも、夏目さんのことは忘れたくありません。光輝も同じ気持ちです」
啓太郎は冷静な微笑みを浮かべて言った。
「もう、会うこともないよ」
「えっ?」
「じゃあ。本当にありがとう」
「あの」
「あんな思いまでして守った彼から、離れたらだめだよ」
「夏目さん・・・」
啓太郎はくるりと背を向けた。そして、ドアに手をかけて後ろ姿で言った。
「永遠にさよなら。元気で」
啓太郎は、かっこよすぎたかなと背中で笑ってドアを開けた。
*
夏目美代子は、車の助手席から今野の家を見ていた。明かりが灯っている。家族がいる。そうだ。家族がいる。
美代子が撃った拳銃は、啓太郎が機転を利かせてすり替えたモデルガン、つまりおもちゃだった。色も形も似ていて全く気がつかなかった。啓太郎が偶然にもあの白い箱を開けなかったら、すり替えてくれなかったら、本当に殺人犯になっていた。今野はこの路上で絶命し、自分も自殺していた。今野の家から子供と孫たちが出てきて、その突然の死を悲しみ泣き叫ぶ。この道に絶叫が響きわたる。そして、生涯、犯人の美代子を憎み続けるのだ。啓太郎にも、さらに苦悩の日々を重ねさせるところだった。今になって、その愚かさに震えた。復讐なんかしても何の解決にもならないのに、どうかしていた。もう少しで良介にも、啓太郎にも軽蔑される人間になるところだった。
啓太郎が運転席のドアを開けて乗り込んできた。そして、すぐにエンジンをかけた。
「昨日さあ。この家に来たんだ。今野の顔を見に」
「えっ?」
「どんな悪党なんだろうと思って。結局、本人は見当たらなくて。孫だと思うんだけど、小学生の女の子がボーイフレンドと楽しそうに話してるのを見ただけだった」
「そう・・・」
「その時は、今野を憎む気持ちが強くて、あの子のことを別に何とも思わなかった。一方で、法律で罰せられないなら、民事裁判を起こすとか、ノンフィクションに書くとか、世間に、この事件を知ってもらうという方法があるんじゃないかって、そんなことばかり考えてたんだ」
美代子は、啓太郎が同じ気持ちでも、先を見据えて考えていることに頭が下がった。本当に正義感の強い、立派な息子だ。革命の産物だった。
「でさあ。今朝起きてカーテンを開けてたら、窓から小学生たちが楽しそうに登校している姿が見えた。そうしたら、突然、あの子を思い出したんだ。今野の犯罪が明らかになるということは、あの子を傷つけてしまうことなんだって」
「そのとおりだわ・・・」
「あの子の未来まで奪ってはいけないって思ったんだ。憎しみが哀れみになっていた。人間はすごいよね。寝て起きただけで気持ちが変わる。時間の経過が、正反対の感情を生む」
「そうね。それが人間なのよね。一つの感情に縛られることはない」
「そう思う。殺意を抱いた瞬間を、お母さんも俺も通り過ぎたんだ。お母さんの長い間の苦しみを考えたら簡単に言えないけど、今野という男は殺人も犯していないし、結果としてお金も奪っていない。だから、小学生のあの子を犯罪者の孫にしたくない。だから、もう時効でいいかなと思うんだ。だめ?」
「いいわよ。拳銃の引き金を引いて分かったの。これじゃ何も変わらないって。今までの憎しみや苦しみが癒されることはないって。本当にごめんね。馬鹿な母親で」
「不謹慎だけと、かっこよかったよ」
「えっ?」
「なんか腹減ったあ」
「・・・うん、そうね」
美代子は啓太郎の横顔を見た。こんなにいい息子が側にいてくれるのに、これ以上、何を望んでいたのだろう。毎年、送られてくるお金。良介は生きている。生きているだけでいい。啓太郎と良介がいつか会えるかもしれないという希望はある。あとわずかな命を全うしよう。また、新しい出会いがあるかもしれない。
新しい出会い。そう考えて、美代子は田中さんのことを思い出した。
「何で田中さんと別れたのか、ようやく分かったわ」
「えっ?」
「お父さんの犯罪を知って、身を引いたのね」
「違うよ」
啓太郎は明らかに動揺していた。幼い時から口調で分かる。
おそらく田中さんとは疎遠になっているのだろう。
「で、やっぱり田中さんと結婚しようかなという話はどうしたの?」
「お母さんが世話をやかせるから忘れてたよ」
啓太郎の苦笑した横顔が何とも愛おしい。いくつになっても子供は可愛いものだ。暗闇に包まれた車窓から、街の明かりが飛び込んでくる。冷え切った夜の街に明かりが暖かい。美代子はいくつもの明かりに、啓太郎の幸せを願った。
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