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『ラヴ・ストリート』【37】

  シャドー・プレー
 
夏目美代子は、布団に横たわり背中と腰の激痛と闘っていた。この頃は鎮痛剤もあまり効かない。先日の検査では医師が検査データ表を二度見直すほど、腫瘍マーカーがよくない数値を示していた。近々、入院することを勧められた。しかし、もう入院する必要はない。明日、全てが終わる。この家に戻ってくることもないだろう。
 退院してからは、週に三回通院し点滴を受けている。その都度、啓太郎は送り迎えをしてくれている。仕事を優先して欲しいと言うと、忙しくないからと苦笑いする。あれほど熱心に追いかけていたパチンコ店強盗の取材をやめてしまったようだ。ボニーもクライドもいなかった。勝手な妄想だったと笑い飛ばした。もう、啓太郎の大事な時間を、自分のために使わせなくて済む。余計な気遣いをさせなくて済む。解放してあげられる。
 啓太郎あっての三十五年間だった。良介が海外へ逃亡してしまったあの時、啓太郎がお腹にいなかったら、どうなっていたか分からない。
 良介が指名手配されてすぐに美代子の家へマスコミが取材にやってきた。そこで、初めて良介の事件を知った父親は美代子を殴りつけた。事件の真相を告げても一向に信じてくれなかった。「何という男と関わってくれたんだ。この恥さらしが。出ていけ」と顔が腫れるまで何度も殴られた。美代子はお腹の啓太郎を守るため、勘当された形で家を出た。その後、母親は年に一度、こっそりと会いに来たが、父親とは亡くなるまで一度も会わなかった。兄が二人いるがやはり連絡は取り合っていない。もちろん、啓太郎は会ったことがない。
 美代子は短大の卒業を目前にして一人暮らしを始めた。それまでの運命が一転し孤独に放り出された美代子のもとに、友人たちが代わる代わるやってきて同情の言葉を掛けてくれた。何でも力になるからと手を握ってくれた。しかし、美代子は温かい言葉が発せられるのと同時に不穏な空気が流れているのを感じた。よく見ると皆の目つきや態度が今までとは全く違う。中学から短大まで八年間、ずっと親友だと思っていた一人が本音を吐露してくれた。今でも、その会話を鮮明に覚えている。トラウマと言うには大袈裟かもしれないが、その後の人生に大きな影響を与え確実に人生観を変えた。
「美代子って何にも努力しないのに昔から勉強もできて、憧れの良介さんとの恋も簡単に手に入れて、私たちみんな劣等感を持ってた。美代子が微笑むと周りの人間は笑う。そういう天性のものにはかなわない。いつも見下されている感じだった。でも、今は違う。みんな、ようやく上から見下ろしているのよ。不幸に身を落とした美代子だから力になりたいと思える。これで、ようやく本当の友達になれたって」
 美代子はそのあまりにストレートな表現に、友人の敵意すら感じた。
「友達は、上下関係で成り立っていたの?」
「違う? 美代子だって、私たちが自分より下だったから、優越感を持って友達だと言えたのよ。ちなみに、私たちに嫉妬を感じたことがある?」
「嫉妬?・・・いいえ」
「ほらね。上だから嫉妬しないのよ」
 友人はふんと鼻で笑った。
 美代子は震える声で聞いた。それが悲しみなのか、悔しさなのか、分からなかった。
「友達は、自分より下じゃないとだめなの?」
「それが女の本音よ。下だった友達が自分より上になったとたんにつき合いたくなくなる。今の美代子なら分かるでしょう?」
 美代子はそれを聞いて傷つきはしたが、絶望はしなかった。友達にずっと嫌われていたことに気がつかなかっただけだ。自分に人間として魅力がなかったのだと妙に納得した。落胆している場合ではなかった。お腹の中に小さな命が宿っている。きらきらと輝く希望がある。美代子は誰にも頼らずしっかりと生きていく覚悟を決めた。長年の友達も全て失った。いや、友達だと勝手に思っていただけだ。友達なんて最初からいなかったのだ。親もそうだった。エリートの恋人がいると手放しで喜んでいたのに、苦境に立ったとたんに責めるばかりで、娘をかばうことすらしてくれなかった。未婚で妊娠という不道徳なことをしたのだから家を出されても仕方がない。しかし、せめて娘の言うことを、良介を無実だと信じて欲しかった。それからというものの、信じられるのは、お腹の子供、啓太郎だけになった。今でもそうだ。啓太郎だけだ。
 短大卒業後はデパートに就職が決まっていた。人事部の女性課長に、未婚で出産することになった事情を包み隠さず話し、辞退を申し出て受理された。しかし、出産後、婦人服メーカーの派遣社員の仕事を紹介してくれたのは、この女性課長だった。デパートやアパレル業界は女性が早くから役職に就き、社会的地位、福利厚生を確立していた。だからこそ、美代子に理解を示し、寛容に受け入れてくれた。周りには離婚して母子家庭となったり、その他家庭の事情を抱えて働く母親の姿がたくさんあった。それは大きな支えになった。友達ではなく、仲間だった。美代子は仲間という言葉が好きだった。上下もなく対等だと思った。友達は作らず、仲間だけを増やしていった。そして、啓太郎を無事に育てていくことができた。
 仲間は五十歳を過ぎた辺りから次第に、一人二人とリタイアし始めた。子供が就職し手が離れたというのもあるが、圧倒的に多いのが老齢の親の介護だった。ブランド撤退に伴う解雇も少なからずあった。そんな中、美代子はずっと働き続けることができた。仕事も仲間も好きだった。まさか、自身の病気でリタイアするとは夢にも思わなかった。まさかこんなに早く逝くことになるとは。
 啓太郎はバイトに行って、深夜二時過ぎまで帰ってこない。美代子は鉛のように重い体を、息を切らしながら起こした。腰に激痛が走る。何とか椅子に上ると、押し入れの天袋から白い箱を取り出した。
 箱を見つめながら、こんな方法しかないのかと悔やまれた。何のために法律があるのか。日本は法治国家ではないのか。それが不可能なら、天罰、神の裁きが下されることはないのか。
 ふと人の気配を横に感じた。黒い影が襖に映っている。昔、幼い啓太郎と近くの児童会館で見た影絵芝居を思い出した。『アリババと四十人の盗賊』だった。その時、不思議に思ったものだ。登場人物には、表情も、衣装も、色もない。簡素に切り抜かれた人間の形をした影が、右に左に向きを変えて動くだけだった。それなのに、アリババは善人の姿に、盗賊は悪人の姿に見える。目をこらして見れば見るほど、影の中に喜怒哀楽の表情が浮かび上がってくる。
 今、横にいる黒い影は恐ろしい形相をしている。性別は女だ。年は五十五歳。三ヶ月前、癌を告知された。余命一ヶ月くらいだろうか。箱を開けて何かを取り出した。拳銃だ。拳銃を持っている。
 シャドー・プレーが始まった。美代子は観客席でそれを見ている。
 女の影は夜中に拳銃をバッグに忍ばせる。朝起きると何もなかったように優しい母親の仮面をつけて息子に嘘をつく。「午後から病院で検査がある」と。息子は体のことを心配し、外出先までついてくるので嘘をつくしかない。女の影は息子がいったん家に帰ったのを確認すると、病院から敵の男がいる自動車整備工場へと向かう。そして、帰宅する男の後をつけて背後から発砲する。男が息絶えるのを見届けてから、女の影は自らに発砲する。その時、影は影でなくなる。
 誰もが心の中に銃を隠し持っている。それは衝動と似ていて、誰もが引き金を引くことができる。衝動は人間の感情の中でいちばん純粋で、いちばん困難だ。
 その反対に理性がある。人間だけに与えられた特権だ。理性が衝動に歯止めをかけている。何とか踏みとどまっている。しかし、時として人は理性を失う。迫り来る死という恐怖の前に砕け散る。銃の引き金を引く。こんな形で人生の幕を閉じたくはなかったと後悔しながら。
 美代子の瞳から涙がこぼれた。良介に会いたい。アメリカのどこかで生きているのに。死ぬ前に、もう一度、良介に会いたい。良介の腕の中で死にたい。美代子は泣き続けた。泣いても運命が変えられないことを身をもって感じてきた。それを知るための人生だった。そのための人生だったとしたら、自分があまりに可哀想だ。美代子は初めて自分のために泣いた。可哀想な自分のために泣いた。神様が同情して運命を変えてくれるまで泣こうと思った。

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