『ラヴ・ストリート』【29】
ドロシーと魔法の靴(シンクロニシティⅠ)
今野佑香は、学校から帰ると、部屋の鴨居にワンピースを掛けてうっとり眺めた。先日、エリからもらった水色のワンピースだ。再来週の日曜日に行われる学習発表会の舞台上で着ている自分を想像した。台詞に合わせてくるりと回る度に、スカートがエレガントに広がる。
去年までは、配役決めの時、その他大勢の脇役になるようにわざと小さな声を出していた。母から衣装を縫わなければならない役は絶対になるなと釘を刺されていたからだった。しかし、今年はこのワンピースがあったので、『オズの魔法使い』の主役ドロシーに初めて手を挙げた。水色のワンピースはまさに絵本のイメージそのままだった。来週には、いよいよ衣装を着ての通しリハーサルがある。
衣装には、もう一つ白いエプロンが必要だった。もちろん母は買っても作ってもくれない。先生は無理して揃える必要はないと言ったが、他のドロシー役の女の子は全員用意するようだった。佑香は自分で作ろうかと思い、昨日、ワンピースと絵本を持参して聡美に相談した。聡美は、すぐさま奥から白い布を取り出してきた。花柄の地模様が入ったおしゃれなものだった。
「この布でよければ、作ってあげるわよ」
「いいんですか」
「ええ。洋服を作るの好きなの。これはね。馨が生まれた時に着せたベビードレスとケープの余り布でね。少し黄ばんでいるけど、一度、お洗濯すると真っ白になるから」
「じゃあ、お願いします」
佑香はぺこんと頭を下げた。
「デザインを決めて、型紙を作りましょうか」
「はい」
聡美は絵本のシンプルなエプロンの絵をささっと描くと、その裾にフリルをつけ足して可愛らしいデザイン画を完成させた。次にワンピースを着た佑香の寸法を測り、デパートの包装紙の裏に型紙をおこした。型紙を布に置き裁断すると、しつけ糸でさっと縫い合わせた。佑香は服が出来上がっていく過程を見たことがなかったので、興味深く、ずっと横でくいるように見ていた。二時間ちょっとで仮縫い状態のエプロンが完成した。まだ、裾のフリルはついていなかったが、十分、可愛らしかった。
佑香はワンピースの上にエプロンを着けて聡美の前に立ってみた。気分はもうドロシーだった。
アメリカはカンザスの大草原に暮らすドロシー。犬のトトと一緒に家ごと吹き飛ばされて偶然に悪い東の魔女を倒す。故郷に帰りたいドロシーは、北の魔女の助言を得て、オズの魔法使いに会いに行く。途中で、脳のない藁のかかし、心のないブリキの木こり、勇気のないライオンの仲間たちと出会い、それぞれの願いをかなえてもらいに、オズの国へ向かう。悪い西の魔女を倒し、あらゆる困難を乗り越え、南の魔女に帰る方法を教えてもらう。
佑香は最後の第五幕のドロシー役だった。聡美の前で劇のクライマックスを演じてみせた。
「魔法の靴のかかとを三度打ち合わせれば願い事がかなうのね。ありがとう。南の魔女グリンダ」
聡美は笑顔で見守っている。
佑香は子役並みの演技で目を潤ませた。
「今までありがとう。かかしさん、木こりさん、ライオンさん。さあ、トト。家へ帰りましょう。かかとをコンコンコン。カンザスへ」
聡美が拍手をしている。佑香は聡美が本当の母親だったらいいのにと恍惚の表情で見つめ、お辞儀をした。
刹那、帰ってきた馨が廊下を通った。佑香と一瞬、目が合った。佑香は真っ赤になったが、馨は不機嫌な表情のまま冷たい視線を向けた。そして、無言で二階へ上がっていった。聡美はいつものことなので、馨の態度にあえて何の反応もせず、佑香のエプロンのサイズをもう一度確かめていた。
「じゃあ、ミシンで本縫いをして仕上げておくから、明日、四時くらいに取りに来てね」
「はい。お願いします」
そして、今日ようやく三時五十分になった。佑香は出かける前に、もう一度、鴨居に掛かっているワンピースを眺め手で撫でた。
佑香が玄関で靴を履いていると、居間から母と姉の話し声がした。
「パチンコ、三万も負けちゃった。あんた、お小遣い、少し残ってない?」
「あるわけないしょ」
「三千円、いや千円でもいいんだけど、貸してくれない」
佑香は小学生に似つかわしくない険しい表情になった。パチンコのことしか頭にない母。家でするのはそんな話ばかりだ。佑香は耳をふさぐと、この家から逃げるように玄関を飛び出した。そして、駆け足で聡美の家へ向かった。
聡美の家の前には白い車が止まっていた。聡美は車庫のシャッターを閉めているところだった。佑香の姿を見つけると駆け寄ってきた。
「あっ、佑香ちゃん。丁度よかった。これエプロンできてるから」
聡美は佑香に袋を差し出した。
佑香は深く頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます」
車の助手席にマスクをした馨が乗っているのが見えた。「馨くん、どうかしたんですか?」
「帰ってきたらなんか元気がなくて。熱を計ってみたら八度五分あったの」
聡美の視線は馨にばかり向いていた。「これから病院へ行くの。じゃあ、急ぐから、ごめんね」
「はい。おだいじに・・・」
聡美は佑香の言葉の途中で運転席に乗り込み、車を発進させて行ってしまった。
佑香は車が遠ざかるのを見ていた。寂しかった。聡美は所詮、馨の母親なのだ。血の繋がらない他人だから、気を遣ってくれたり、優しくしてくれるのも、子供心に分かっていた。それでも寂しかった。
佑香はすぐに家に帰る気になれず、こぐま公園のベンチに座った。公園は雪が解け、ぐちゃぐちゃになっていた。草の生えている部分だけかろうじて雪が残っている。太陽が沈み始めると辺りは薄暗く一気に冷え込んできた。
佑香は、かじかんできた手で袋を開けてみた。きれいにアイロンが掛けられた真っ白なエプロンと赤いリボンが入っている。佑香はリボンを手に取りあっと思った。絵本のドロシーが髪に赤いリボンをつけていたのを覚えていて、聡美が用意してくれたのだ。馨が羨ましかった。細かいところまで気を配る母親。帰ってきた時の様子だけで、熱があると分かる母親。
「君、ちょっと聞きたいんだけど」
佑香が振り返ると、グレーの制服を着た高校生が歩道に立っていた。光輝だった。
「この近くに、霧島さんていう家があるのを知らないかな」
「うちの向かいです」
佑香は光輝の顔を見て赤くなった。
光輝は走ってきたのか息が切れていた。
「本当? 場所はどの辺かな」
「私、今から家に帰るので一緒に行きますか?」
「助かった。急いでたんだ」
佑香はベンチを立つと、鉄の柵をぽんと跳び越えた。そして、家の方向に歩き出した。光輝は少し後ろをついてきた。佑香は光輝が後ろにいて顔が見えないので、照れずに聞いた。
「ひょっとして、エリお姉ちゃんのお友達ですか」
「うん」
「やっぱり」
「どうして分かったの?」
「だって、制服を着てるから」
「そうか」
「制服を着てなかったら、知らない男の人と歩いたりしません」
「しっかりしてるね」
光輝はいつの間にか佑香の横を歩いていて、顔をのぞき込んでふっと笑った。
佑香はまた赤くなった。
「ここです」
「ありがとう」
光輝はエリの家を見上げたが、どうしようか迷っているようだった。
佑香はそれを察した。
「呼んであげる」
エリの家のインターホンを押した。応答がない。佑香はそれから二度ほど押したがやはり誰も出なかった。「いないみたい」
光輝は、頭を下げた。
「いろいろとありがとう」
「いいえ」
光輝はすぐに携帯を取り出し電話をかけた。切迫した顔だった。
佑香は玄関のドアを閉める時に、もう一度、光輝を見た。エリの彼氏なのだと思った。光輝の必死な感じがたまらなかった。エリが羨ましかった。また、少し寂しさを感じた。みんな愛されている。
佑香が部屋に戻ると鴨居に掛かっていたワンピースがなくなっていた。
居間では、母がソファに足を投げ出し煙草を吸っていた。
「お母さん、部屋に掛けてあった水色のワンピースは?」
「あれ、向かいの姉さんからもらったんだってね」
母はにやりとしてから、煙草の煙をふーっと吐いた。
「そうだけど」
「なんか人気あるブランドらしいよ」
「ふーん。で、どこにやったの」
「どこって、リサイクルショップ。二千五百円だから、まあまあかな」
「えっ?」
「元値は三万八千円もするんだって。もっと出せってよ」
佑香はようやくことの成り行きが分かった。母は佑香が何よりも大事にしているワンピースをリサイクルショップに売ってしまったのだ。胸がむかむかして吐き気がした。
「ひどいよ。あのワンピース、学習発表会で着るつもりだったのに」
「別に他の服を適当に着ればいいしょ」
「あれじゃないとだめなの」
「もう売っちゃったんだから、諦めな」
「どこのお店? 返してもらいに行ってくる」
「お金ないと引き取れないしょ」
「二千五百円ちょうだい」
「もうパチンコで使っちゃった」
母はぺろっと舌を出した。
佑香は、母の赤黒い舌を見た瞬間、あまりの悲しみに言葉を失った。視界はぼんやりとかすみ、音も全く聞こえなくなった。熱い涙が頬を伝わるのを感じても、泣き声一つ発することができなかった。
いつも、こんなふうだった。小さい時からたくさん傷つけられてきた。パチンコと遊びを優先し完全に母親を放棄していた。何日も家を空けて帰らないことがあった。具合が悪くても病院へ連れていってもらえず放っておかれたこともあった。いつしか、こんな親を持ってしまったのだから仕方ないと諦めるようになった。悲しいとも思わなくなった。気がつくと、どこか冷めた可愛げのない子供になっていた。そんな時、聡美に会った。聡美の優しさに触れ、心が弱り、子供らしさ、少女らしさを取り戻してしまった。だから、こんなに悲しいのだ。
佑香は部屋に戻った。とたんに出なかったはずの声が唇の隙間から漏れてきた。二段ベッドに上がり、頭から布団をかぶると、わーっと泣き叫んだ。ずっと大声で泣き続けた。
私はドロシーになれない。どんなに困っていても北の魔女は現れない。かかしさんも、木こりさんも、ライオンさんもいない。仲間も友達もいない。おとぎ話はもうたくさん。いい子でいたって、何にもいいことなんかない。
おとぎ話を信じなくなった時、少女はおとなになる。
いつものことだが、涙は二時間で自然に止まった。佑香は布団から顔を出し、この怒りと悲しみをどうやって乗り越えようかと考えた。その時、偶然、机の本箱の上に置かれていたエアマシンガンが目に飛び込んできた。同時に馨の言葉が甦ってきた。
「親にムカついたら、背後からダダダダダって撃ってやればいい」
佑香は取り憑かれたようにベッドから下りると、エアマシンガンを手に取った。前に持った時より、ずっしり重くなっているような気がした。
居間では、母が一人で弁当を食べていた。
「あんたの分もあるよ。好きなの取りな」
佑香は母に向けてマシンガンを構えた。
「何それ。撃つつもり?」
母は、箸を持った手で佑香を指差して、かかかと下品に笑った。
佑香は内なる怒りを爆発させるように引き金を引いた。
ダダダダダダ。
マシンガンは火薬の臭いをまき散らしながら、銃口から弾を連射した。母は弾の威力に押され、後ろのソファに飛ばされるように倒れ込んだ。
「えっ?」
母の胸の傷口から血が流れている。母は、一瞬、顔を上げて佑香を凝視したが、がくっと首を後ろに倒すと、そのまま息絶えた。凄惨な光景だった。
「いやあぁぁ」
佑香は、叫びながらマシンガンを足下に投げ捨て、半狂乱になって家を飛び出した。裸足だった。
「エリお姉ちゃーん」
泣きながらエリの家のチャイムを押した。誰も出てこない。佑香は聡美の家へ向かって走った。暗闇の中、月だけが妙に明るかった。曲がり角に馨が腕組みをして立っていた。まるで佑香の行動を予測していたようなタイミングだった。佑香が取り乱している姿を見て、にやりと笑った。
佑香は馨の嘲笑を見て理解した。全ては馨が仕組んだことだった。まんまとその企みに、罠にはまったのだった。佑香はぶるぶると震えていた。
「まさか本当に撃つなんてね」
「どうして、私にこんなひどい意地悪をするの」
「君に消えて欲しいから」
「えっ?」
「目障りなんだ」
馨は憎しみの表情で佑香を見た。「僕のお母さんを横取りした罰だよ!」
佑香は体の力が抜け、その場に座り込んでしまった。もう泣き叫ぶしかなかった。
「ひどいよお。私、私、うちのお母さんを殺しちゃったあ」
「自業自得さ。いいじゃん。君は、あの下品なお母さんが大嫌いだったんだろう」
「うわあぁぁ」
佑香の張り裂けんばかりの声が暗がりの街に響いた。「魔法の靴が欲しいよお。時間を戻してよお」
佑香は座り込んだまま、かかとをアスファルトに三度打ちつけた。裸足だった。時間が戻るはずなどなかった。泣いて泣いて、かかとの骨が砕けるほど打ちつけては絶叫した。
「誰か助けて!」
誰もいなかった。月だけが佑香を照らしていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?