『ラヴ・ストリート』【7】
アンリトン・ルール
五十嵐聡美は、花を生ける時、いつも昔の恋人のことを思い出す。花が主張する色彩と香りは恋心に似ているからだ。自然と憂いのある表情になる。
最初で最後の恋人に「だったら、恋なんかするな」と言ってやりたかった。別れ際、ビンタの一つもお見舞いしたかった。しかし、できなかった。それではあまりに大人げない。きっと、そのイメージのまま恋人の心に残ってしまう。五年間の楽しい思い出が一瞬にして砕け散ってしまう。木っ端みじんは見苦しい。
恋人、つまり元カレとの間にはアンリトン・ルールが存在していた。
元カレと出会ったのは中学二年、同じクラスになった時である。元カレは背が高く、どちらかと言えば無口だったが、何事にも誠実であったため女子には静かな人気があった。聡美は最初、元カレに対して何の感情も抱いていなかった。しかし、ある噂を耳にしてから妙に気になり出し、その姿を目で追っているうちに好きになってしまった。初恋である。
その噂とは、男子に圧倒的人気を誇った女子の頬を張り倒したというものだった。その女子は陰で密かに女王と呼ばれていた。女王は学校でも評判の美人だったが、人の好き嫌いが激しく、気に入らない人間に対しては陰湿ないじめをしていた。周りは自分がその標的にならないようにと女王の機嫌をとり、おべっかを使っていた。聡美は同じクラスにならなくてよかったと、友人たちと口々に言い合った。
そんな女王が元カレを好きになり猛アタックを開始した。しかし、全く相手にされなかった。どうしても気を引きたい女王は、元カレにレコードをプレゼントした。元カレは'60年代のサイケデリック音楽に傾倒していて、クラスでは誰も知らないドアーズというグループのファンだった。'80年代後半の当時は、丁度レコードからCDに移行する時期で、レコードが消滅する前に、何とか好きなアルバムを手に入れておきたいという元カレの情報を女王がつかんだ。ところが喜ばれるどころか逆に張り倒されたというのだ。聞くところによると、そのレコードは女王がある男子を使って古レコード屋から万引きさせたもので、全く罪悪感のない女王に対して元カレが相当にキレたらしい。今すぐレコードを返して謝ってこい。万引きは犯罪だと。
話に尾ひれがついているにしろ、ものすごいエピソードである。その後、女王が古レコード屋へ謝りに行ったかどうかは知らない。しかし、勘違いしていた女王は、ものの見事にその座位から失脚した。静かな人気者だった元カレの周りは少々騒がしくなった。もちろん、聡美もその中の一人だった。
では、どうして聡美と元カレはつき合うことになったのか。中学生くらいだときっかけは至って単純だったりする。修学旅行のバスの中、罰ゲームが行われた。バスガイドに「女子の名前を一人言って下さい」と言われた元カレは、聡美の名前を即答したのだった。聡美は赤面し、嬉しいやら恥ずかしいやらで座席に隠れるように下を向いた。その話は瞬く間に広がり、担任も頷く公認の仲になってしまった。元カレもまんざらではないといった態度だった。なぜなら雨の日、「傘がないから入れてくれ」と聡美の傘に入ってきたのだ。背の高い元カレは、すぐに内側の骨の部分に頭をぶつけた。そのぶっきらぼうな気持ちの伝え方が可愛らしくて、聡美は思わずくすっと笑った。元カレは右手で頭をかき、左手で傘を持とうとした。その時、柄の部分で聡美と手が触れた。元カレは黙って、聡美の手に自分の手を重ねた。こうして、二人は恋人同士になった。
数年後、聡美は元カレに聞いたことがある。何故罰ゲームで自分の名前を挙げたのか。
「たまたま斜め前に顔が見えたから」
そう言いながらも、中学三年から大学二年の夏まで、実に五年もつき合った。聡美はこのまま結婚するだろうと思っていた。いや、普通の女性なら思うだろう。
元カレは高校時代、何かの拍子に涼しい顔で言った。
「俺は結婚しないな。重すぎる」
場所と状況ははっきりしない。それくらいさらりと言ってのけた。だから、聡美はさほど気に留めなかった。「若いうちはうーんと遊びたいから、早く結婚したくない」程度に聞いていた。しかし、その言葉は数年後に繰り返された。
「ごめん。この先、結婚というゴールはない」
ふられたわけではなかった。アンリトン・ルールを受け入れるか否かだった。
聡美は混乱した。元カレは独身主義者なのか。聡美に結婚を決意させる魅力がなかったのか。それとも、何か傷を抱えているのか。自分の家庭環境と関係しているのか。元カレは自ら理由を語ることはなかった。精神的にも肉体的にも、全てにおいて深く繋がっている自信があったのに、聡美は真意を聞く勇気がなかった。五年という月日は何だったのだろう。
「だったら、恋なんかするな!」
叫んでおけばよかった。どうして物わかりのいい女を演じ終わってしまったのだろう。
聡美は短大を卒業すると、両親に勧められるままにお見合いをした。一流大学卒のエリートサラリーマンだった。聡美の両親は安定志向で、相手の職業どころか、その親の職業にまでこだわった。どのみち元カレのような男は認めてもらえなかっただろう。反対は必至だった。
見合い相手は外見も人柄もまあまあだったので、聡美は結婚することにした。恋愛の駆け引きなどという煩わしいことは、もううんざりだった。勢いだけだった。結婚式の日、大きな鏡に映るウエディングドレス姿の自分に向かって、「やけ酒ならぬ、やけっ婚だね」と言った。鏡の中の花嫁は目を潤ませ、寂しい微笑みを浮かべた。
あれから十年以上が過ぎた。子供も十一歳だ。白いお城のような家に住み、庭には花が咲き乱れている。お菓子作りと洋裁が趣味で、今はアレンジメントフラワーに凝っている。
私は幸せな主婦に見えますか?
聡美は元カレの幻影に問いかける。返事はない。
「いろんなお花が集まって、すごくきれいです」
聡美は、はっと我に返った。佑香が微笑んでいる。今、この少女は私を憧れの眼差で見てくれている。これでいい。
「あっ、お名前を聞いていなかったわね」
「佑香です」
「佑香ちゃんね。何年生?」
「五年生です」
「あら、うちの馨と一緒の学年ね」
「えっ?」
佑香の顔が、一瞬、曇った。
「馨は、違う小学校へ通っているの」
「そうですか」
佑香は、ほっとしたような顔をした。
聡美は佑香の家庭のことを知らないので、佑香の一喜一憂を気に留めなかった。ブーケのように可愛らしく仕上がった花を袋へ入れると、佑香に差し出した。
「はい、どうぞ。帰ったら瓶にお水を入れてあげてね」
「ありがとうございます」
「また、いつでも来てね」
「はい。さようなら」
佑香はお辞儀をすると、花を眺めながら門を出ていった。顔がにっこりとしていた。
聡美はその様子を見て、門のところまで佑香を追った。
「明日、アップルパイを焼くつもりなの。よかったら、この時間に寄ってみて」
「いいんですか?」
「もちろん。一緒に食べましょう」
「はい」
「あっ、馨だわ」
佑香は後ろを振り返った。
「ただいま」
息子の馨だった。背がすらりと高く、目元が聡美によく似ている。
「おかえり、馨。こちらは、佑香ちゃん。馨と同い年なんですって」
佑香は不意をつかれ赤くなっていた。慌てて頭を下げた。
「こんにちは」
「ふーん」
馨は佑香を一瞥すると、そのまま家へ入っていった。
聡美は佑香に申し訳なさそうに言った。
「きっと照れているのよ。男の子って愛想がなくていやよねえ。それとも父親に似たのかしら」
聡美は馨の仏頂面と夫の不機嫌な顔を重ねた。夫は毎日そんな顔だ。もうすでに夫の笑顔を明確に思い出せなくなっていた。
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