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日本語教育能力検定試験に合格すれば就職できると思っていた俺が馬鹿だったわ・前編

はじめに

 表題につきまして、2つの理由から挫折しましたので、参考になればと思い書きます。ひとつめの理由は誰にでも当てはまりうることで、試験と現場の違いという点に焦点が当てられます。これが前編にあたる本記事で、後編では、労働環境の側面がふたつめの理由として述べられます。こちらは主に比較的若い方々(20歳〜39歳を想定)に向けて書いています。

 サービスとしての日本語教育。お金がどこで発生するかといえば授業です。もちろん日本語教育機関が提供するサービスはそれだけではありませんが、それでも主たるサービスは授業です。

教案——試験勉強を通じて学べない必要不可欠な要素

 授業を成り立たせるに不可欠とされているものを日本語教育能力検定試験は、ほとんどその存在さえも教えてくれません。実際、知らなくても合格できてしまいます。それが何かといえば、キョーアンと呼ばれるものです。私はこのキョーアンと呼ぶものを、今回日本語教育期間に応募するにあたって初めて知りました。
 キョーアンというのは、授業のプランのようなもので、そのようなものなら教育機関であればどこにでもあるとお思いかもしれません。しかし、私が見た範囲では、日本語教育におけるキョーアンというのは、やや特殊なものと映ります。少なくともそれは、一般名詞「教授案」の略称としての「教案(キョーアン)」意味にとどまらない、一種のキョーアン文化とすら呼ぶべき、日本語教育に独特なものであると思います。
 もしあなたがキョーアンについてよく知らなければ、Googleで「日本語教育 教案 サンプル」で検索してみてください。いかにもWordのテーブルで作りましたというような4カラムくらいの文書がいくつか出てくるはずです。それがキョーアンです。日本語教師というのは、このキョーアンの作成に毎度時間を費やします。(*このキョーアン作成には、労働問題の観点への言及が不可避であると思いますが、ここでは触れません。後編で触れられれば言及したいと思います)

直接法——日本語を日本語で教える

 さて、このキョーアン文化が何によって必要とされているのか。ひとつにはもちろん、先にも申し上げた通り、一般名詞としての「授業案」の側面からの要請があります。これは多かれ少なかれ、教える系の仕事であれば必要とされる範囲のものです。しかし、それ以上に重要な、日本語教育特有の理由として挙げられるのが、直接法(direct method)が日本における日本語教育機関で採用されていること、および活動が重視されていることです(あくまでこれは私の仮説として申し上げます)。
 直接法とは、学習対象の言語が母語でない学習者に、その言語をその言語自身で教えることです。言い方がややこしくなりましたが、例えでいえば、日本語の勉強を始めたばかりの留学生に対して、日本語で日本語を教えるというようなことです。これは、「これはペンです」レベルの文の導入から一貫して行われます。最低限の日本語が使えるようになったら授業を全部日本語で行う、ではなく、入門期から授業はすべて日本語で行われるのです(この点で、基本的な英語の知識が備わっている学習者に対してなされている、日本の教育機関でのイマージョンプログラムによる英語カリキュラムとは大きく異なります)。日本語学校教育における英語教育の体験を踏まえていえば、そんなもの無理と思われるかもしれませんが、絵や写真(絵教材と呼ばれます)や実物(レアリアと呼ばれます)等を用いて何とか教えられているのです。「褒める」「殴る」などの動詞についても「褒める場面の絵」「殴る場面の絵」を使うことで、「褒める」「殴る」の意味が教えられるのです。もちろん、学習者の語彙が増えるにつれ、言葉を言葉で説明することも可能になっていきます。

活動——理解させるで終わらん

 日本語学校では、語彙や文法について、直接法で教えるだけでは十分ではありません。日本における日本語学校の学生とは、多くの場合、海外から日本にやってきて、日本で生活していて、朝から夕方までずっと日本語の勉強をしているわけです。そこで何より重視されるのは、産出の側面、つまり、実際に使えるのか?ということです。学習者に理解してもらうだけでなく、学習者が実際に習った文を使えるようになるところまでが教育サービスに含まれているわけです。その「使えるようになる」を授業で保証するのが、活動と呼ばれるものです。
 この活動には文型や表現形式によってさまざまなものがあります。キョーアンにはこの活動のプランも当然組み込まなければいけません。日本語教育能力検定試験の勉強をしても、この活動のプランを作れるようにはならないといっていいと思いますし(←若干留保付きの表現なのは、記述問題が多少それに関わるからです)、実際にプランに沿って活動を実践できるようにはならないのは言うまでもないことです。
 例えば、ロールプレイという形の活動があります。試験の用語集なんかには、「ロールプレイ」という語は収録されています。しかし、ロールプレイとは何であるかが書かれているだけで、どうやってロールプレイという活動を教室内で仕切るか、どのような文型ならばロールプレイが適しているのか、ロールプレイのためのロールカードはどうやって作るのがいいのか、などの実践的(実務的)なことについては、ほとんど試験では問題にされていません。(この辺のことは試験合格後にOJT的に学んでくれということなのでしょう。だけどそうやって放り出された結果、模擬授業で不採用とされ、OJT的に学びようがないという人が現れてくることでしょう。私のように)。
 活動については、活動についての本だけで何冊か出ているので、実際に現場で教えるとするならば、そこで書かれていることも頭に入れたうえで、模擬授業なり自主的なリハーサルなどによって、活動を仕切れるようにならなくてはなりません。このような点からも、試験勉強だけでは実務レベルには及ばないようになっているのです。

文型積み上げ方式——未習トラップを回避せよ

 ここでもう一つだけ日本語教育における教授法の特徴を言うと、「文型積み上げ方式」というものがあります。この説明には、代表的な教科書である『みんなの日本語 初級』のウェブサイトに掲げられたものを引用します。(ちなみに、ここでいう文型とは、英文法でいう5文型の文型とはまったく別の概念ですのでご注意ください。)

易しい文型から難しい文型へ学習を進める文型積み上げ方式で、前の課までに習った語彙や文型を使って、新しい課の学習項目を紹介(導入)・練習できるようになっています。

https://www.3anet.co.jp/np/info-detail/129/

 なんか、良さそうに思えますよね。スモールステップ方式とか、四谷学院の55段階方式みたいな、そんな感じで、学習者を置いてけぼりにしない、そのためのよく練られたシラバスなんだろうなと想像するわけです。が、これがですね、教える側になると結構厄介なのです。
 「前の課までに習った語彙や文型を使」うというのがポイントです。直接法では日本語で日本語を教えますが、その日本語とは、あくまで学習者が既に習っている範囲での(既習の)日本語であるという制約があるのです。例えば、語彙で言うと、『みんなの日本語 第2版 初級 I』で登場する形容詞は、80弱です(厳密には計上していません。悪しからず)。文型を導入するにあたっては、自分なりに導入のための例文を作ることにもなるかと思いますが、意外とこの「既習の範囲内で」という制約が重くのしかかります。語彙だけでなく、文型の制約もあります。例えば、自動詞と他動詞の区別は、『みんなの日本語 第2版 初級 II』で導入されます。そのため、上巻にあたる「初級 I」が終わるまでに「エアコンをつけます」(第14課)や「エアコンをつけてください」は言えても、「エアコンがつきます」や「エアコンがついています」に関しては、下巻にあたる「初級 II」の第29課まで待たねばなりません。慣れないうちは、「エアコンをつけます」を導入する際に、どうしても「エアコンがつきます」まで言ってしまうものです。事実、『みんなの日本語I 第2版 教え方の手引き』に記されている「留意点」には次のような記述がいくつか見られます。

1)「開きます、閉まります、消えます、つきます、止まります」などの自動詞が未習なので、機械などの使い方を説明する際には既習の語彙で説明できる現象を選んで、紹介する。

『みんなの日本語I 第2版 教え方の手引き』198頁

「既習の語彙で説明できる現象を選んで」とは書いてありますが、これがいざやろうとすると、ああでもないこうでもないと悩むことになります。ある一点で未習の制約をかいくぐったような例文ができても、そのとき、また別の未習の領域に踏み込んでしまったりというようなことが多々あり、あちらが立てばこちらが立たず、というような迷路にはまり込むこともあります。私はキョーアンを作る際にこの迷路に何度も入り込んだので、いつしかこうした事態を「未習トラップを踏む」と表現するようになりました。もちろん、これには慣れの側面が多分にあると思いますが、慣れるまでが大変です。こうしたことも、試験を通じては学ぶことができません。

この記事のまとめ

 留学生向けに初級クラスを担当する場合、多くの場合は『みんなの日本語 初級』を用いて指導することになると思います。
 直接法という指導方法をベースに、文型を積み上げていく形で、理解できること、言えることを増やしていくのが教師の仕事です。
 この方針の元では授業はレギュレート(調整、制御、管理)されていなければなりません。このレギュレーションを保証するものとしてあるのがキョーアンです。日本語学校の授業は、一般的な意味での「教授案」、メインのテキスト、そして教師の専門知識では成り立たないのです。
 日本語教育能力検定試験は、教師として持つべき専門知識を問いますが、それは教室では無力です。「四つ仮名」、「クラッシェンのインプット仮説」、「口蓋化」、「語用論的転移」等々について説明できても、授業には関係ないのです。いな、関係ないとは言い過ぎかもしれません、しかし、それらの知識が必要とされる以前に、おびただしいほどの授業におけるレギュレーションのノウハウが必要とされるのです。

 後編では、労働環境の観点からと、挫折した私自身の今後の方針について述べていきます。


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