カオスの縁を彷徨う霊魂【論文紹介】#14

去年の初め頃、大規模言語モデルは学習量が200億語程度を超えると(仕組みは従来と同じでも)相転移のように急激に性能が上がることが示された。そのおかげでChat GPTなどは大幅に性能が向上した。
それより2年ほど前に、天然のニューラルネットワークである人間の脳において、意識を失っている状態と意識がある状態の脳の活動の調査から相転移的な振る舞いを分析したのが本論文である。

今週は、arXivのこちらの記事
2401.10009.pdf (arxiv.org)
が引用しているこちら。
Consciousness is supported by near-critical slow cortical electrodynamics
意識は臨界に近い低速皮質の電気力学に立脚している
Consciousness is supported by near-critical slow cortical electrodynamics | PNAS

従来の研究から、意識のある状態はカオスになるかぎりぎりのカオスの縁の状態で、不安定性がそれを超えたカオス状態でも、それより下の周期的な状態でも意識はないだろうと推測されてきた。
何らかの手法で脳の不安定度合いを測り、不安定度合いが小さければ、安定して周期的な信号しか発せられない。不安定度合いが大きければ次々に予測不能な信号が発せられるが、意味のある情報が発生してもすぐかき消されてしまって全体的に情報は少ない。その中間あたりのカオスの縁の状態なら意味のある情報が発生する上にそれがある程度生き残り、多くの意味のある情報が処理される(図1)。
カオスの縁については日本語文献は少ないが、これがわかりやすい。
ワペラから学ぶ複雑系のキーワード | system*art (renga.com)

図1 カオスの縁で発生する意識の概略図
横軸は、脳細胞の活性度合い、縦軸は、脳内で発生する情報の量
左の活発でない状態では、周期的な信号ばかりで情報は少ない
右の活発な場合では、カオス的で情報が壊されてやはり情報は少ない
その間のカオスの縁の状態で情報は最も多く、これが覚醒状態と言える

本研究ではまず、Steyn-Ross, Steyn-Ross, and Sleigh [参考文献28] によって開発されたマクロスケール皮質電気力学の平均場モデルをシミュレーションして脳の状態を評価する。
通常の覚醒状態と、全身発作状態と、γ-アミノ酪酸アゴニスト(GABA作動性)麻酔中の状態をシミュレーションする。実際の脳からでも検出できる低周波皮質信号を取り出し、そこに含まれる情報量と信号の不安定度合いを評価する。
皮質に現れる情報量(グラフ縦軸)としては、レンペル-ジフ複雑性(Lempel–Ziv complexity)を使用する。コルモゴロフ複雑性に似た尺度だが、言語ではなく単純な入れ子コピーの関数とどれだけ一致するかで非冗長な情報の量を測る
皮質の電気信号の不安定度合い(グラフ横軸)は次の2つの尺度を用いる。
1つはリアプノフ指数で、正のときはカオス、負のときは周期的挙動、0のときがその境界のカオスの縁の状態を示す(図2A)。
もう1つは0-1カオステストによるK値で、これも同様に大きいほどカオス性が大きいことを示す(図2B)。0-1カオステストは比較的新しく作られたカオス判定法で、脳の信号に用いたのは本論文の新規性の1つである。

図2 A.リアプノフ指数と情報量の関係
10秒のシミュレーション
B.0-1カオステストによるカオス度合いと情報量の関係
青丸が通常の覚醒中、ピンクが全身発作中、茶色がγ-アミノ酪酸アゴニスト(GABA作動性)麻酔中

従来の研究から予想されていた通り、逆U字型になってカオスの縁のあたりで情報量は最大になり、通常の覚醒状態はそこにあることが示された。また、全身発作中は不安定度が小さく周期的挙動になりやすい左側、麻酔中は不安定度が大きく強いカオス的挙動になる右側ということも示された。全身発作中と麻酔中はどちらも意識がなくなるが、どちらが右か左かというのは今までわかっておらず、これも本論文の新規性である。

次に、ヒトとマカクサルから実際の低周波皮質信号のデータを取る。通常の覚醒時、全身発作時、麻酔時、LSDを摂取した状態(!)における脳の状態を、皮質電図検査 (ECoG) と脳磁図検査 (MEG)で見て、低周波皮質信号を取り出し、0-1カオステストにかけた。

図3 ヒトとマカクザルの脳データから得られたk値(横軸)と情報量(縦軸)
どちらの軸も通常の覚醒状態(青点)を1に規格化されている
LSD摂取状態では不安定性が減る(左)側に行っているのに情報量は増えている

図3でも予想通り逆U字型で、通常の覚醒状態は頂点近くにあることが示された。全身発作状態が左側で、麻酔状態が右側なのも同様である。
そして、今回注目すべきは、LSD摂取状態である。
LSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)は従来から皮質活動の情報の豊富さを確実に高めることが示されてきた。情報が増えるということは、通常の覚醒状態より不安定性が増えた状態ではないかと推測されるが、図3の結果は逆で、緑の点は青の点より左(不安定性が減るほう)に行っている。

LSDについて最近見た興味深いネット記事で、アメリカで初期の集積回路設計者はLSDを摂取していたという話があった。
初期のコンピューター工学者は集積回路を設計するときLSDを服用していたらしい「スティーブ・ジョブスもキメていた」「LSDでLSIを作っていたのか」 - Togetter
集積回路の設計は非常に複雑な要素の組み合わせを脳内で処理しなければならず、おそらくシラフでやるよりもLSDを摂取したほうが、脳内でも複数の情報が残りやすく設計に有利の脳の状態になるのだろうと、本論文を踏まえ推測できる。

また少し前に、生物は睡眠が基本状態で、覚醒状態を進化させたという研究があった。睡眠のメカニズムは脳の進化に先立つ可能性、生物は睡眠状態がデフォルトかもしれない - GIGAZINE
そうなのか?と私はしばらく疑っていたが、本論文を読んで考えが変わった。生物の進化の過程で、頭部に神経が集まったからといって、うまいことカオスの縁になる覚醒状態はそう簡単にできるものではない、進化の過程で生存に有利になる覚醒状態をうまく作れるように変異していったのだろう、と本研究からは素直に納得できる。
だからといってショートスリーパーが優れているとかいう単純な話ではない。これに対する強烈なカウンターパンチは「アインシュタインは10時間睡眠だった」だろう。脳の優秀さは、まだまだ全貌は全くわからないほど複雑で複合的な要因が絡まった結果であるし、”優秀さ”という概念も非常にあいまいで相対的で主観にまみれた概念だと思われるので、そういった議論はまだまだできる段階ではない。

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