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これだけは平成に置いていく

世の中を悲観的に見ているな、と気づいたのが最近。

「仕事はしんどい」のが普通
「学校はいじめがある」のが普通
「男性は暴力的」なのが普通
「職場はパワハラ・セクハラがある」のが普通
「女子会は足の引っ張り合いをしているのが普通」

という思い込みで生きてきた。



TVもゲームもマンガも禁止されていたので、わたしにとってのメディアは本と雑誌しかなく、母のパソコンを13歳で勝手に使うようになってからは、主な情報源はインターネット一本だった。


ネットは、自分の検索した、いわゆる「見たい情報」しか目に入らないようにできている。
Twitterが日本に上陸した翌年にはTwitterを始めていたわたしは、あらゆる情報をネットから受け取っていた。(当時はalfooとかdecooとかありとあらゆるブログやリアルタイム更新をいくつも並行してやっていた)


「良い情報」や「しあわせなこと」に比べて、「嫌だったこと」「傷ついたこと」は可視化されやすい。
なぜなら、気持ちよく受け取れたことはあまり気にとめないことが多いけれど、引っかかったことは思わず発信してしまいがちだからだ。
disやヘイトは拡散されやすい。そして、目につきやすくなってしまう。


わたしはその、「引っかかったこと」によるネガキャンされた情報ばかり受け取ってきてしまったのだと思う。
今でこそリアルを信じるようになったけれど、人生の半分以上をネットで過ごしているので、ネットの友人から得た情報ばかりを盲信していた時期もあった。


だから、職場の先輩が優しかったり、仕事が楽しかったり、ちょっと褒められたり、いじめられなかったりするだけで、「すごい!良い環境だ…わたしの知っている世界と違う…!」と思ってしまうのだ。
悲観的故にいろんなもののハードルが低くて生きやすいのかもしれないけれど、幸せな考え方を受け取るにはいささか都合が悪い。


仕事はたのしい」し
「学校ではいじめられなかったし、むしろ合わない人とは大人な対応を取るという素敵な人たちばかりだった」し
「男性が暴力的なのではなく、暴力的な人もいるというだけでそんなの性差じゃなく個体差」だし
「職場はパワハラ・セクハラがないのがあるべき姿」だし、今のところは全くないし、
「女子会は足の引っ張り合いをしてる、なんてわたしが参加する女子会では見たことがないし、素敵な女子ばかりでいつも仕事や老後の話ばかりしてる」し、笑


悲観的な思い込みのせいで、不用意に傷つかないようにしてきたんだな、わたしは。
だけどこれじゃ悲しい世界だ。


社会人はたのしいってこと、仕事はたのしいってことを伝えるために、今わたしは仕事をしているのかもしれない。
考え方を変えるのは難しいけれど、わたしはこうやって自分で自分に設定を課してしまっているのだから、また別の設定を課せばいいだけだよね。


だからいつもいつも「負けない」とか「倒す」とか、強い言葉を使って鼓舞してきたんだな。何と戦ってるんだか。

こんな悲観的思考は、平成に置いていきます。バイバイ

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