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大切なことはみんな、Yahoo!ブログが教えてくれた

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2019年12月15日、Yahoo!ブログが終了するらしい。
わたしにとってのYahoo!ブログは、思春期に最も没頭した居場所であり、思い入れの強い場所なので、すこしまとめておきたいと思う。



2006年の夏頃から、母が使っていたパソコンに自分のアカウントを作り、何となくネットサーフィンするようになった。
2006年の夏といえばわたしは中学2年生で、部活とダンスと秋に控えていた発表会の衣装作りで、それなりに忙しくしていた時期でもある。そんな生活の中でも夜通しインターネットに張り付くことがやめられなくて、ネットは徐々にわたしの生活を侵食していった。


最初にハマったのは画像収集。
まだ「スクバをデコる」「プリ帳を盛る」などの「盛り」文化が蔓延っていた時代、プリ帳をデコるためのフォントや素材を求めて検索を続けた。
いわゆるガラケーの「待受画像」を大量にアップしているYahoo!ブログを片っ端から覗いては、「これはジャンル分けが下手くそ…」「こんなに細切れに記事をアップする必要ないのでは?」などと思っていた。
そこで、「自分が画像をジャンル分けして、うまくまとめるブログを作ればいいのだ」と思ったのが秋のこと。こうして自分のブログを作り、少しずつネットの向こうの人たちと交流することになった。何より、カテゴライズすることが好きだった。


ある時、自分が作ったわけではない画像を収集して再度UPすることは「無断転載」といい、「著作権法違反」になるのだ、ということを教えてくれた人がいた。
自分が画像を作った側の人間だったら…ということを想像したら、嫌な気持ちになるのはすぐに理解できることだった。そこで「じゃあ、自分で作る人になろう」と決意。そこから、画像を作る側の人になった。

ブログのトップ画像、60×17pxサイズのアイコン、バナーetc、フリー素材を用いて来る日も来る日も画像加工を続ける日々。トンチキなコラージュみたいなものばかり作っていたように思う。
gifアニメを習得したのもこの頃で、透過色を決めて透過させて、チカチカするbitアイコンを作って遊んでいた。
当時は「Pictbear加工講座」というサイトがいくつもあり、そこでいろんなブラシやシャドウの使い方を学んだ。(踊るはりゅびっとわん、というフォントが本当に可愛くてよくアイコンに使用させてもらっていたんだけど、配布していたサイト様が閉鎖されてしまってからめっきり見なくなっちゃったな…さみしい)


同時に、ブログを「デコる」ためのHTMLやYahoo!ブログ特有の文字列加工技術(wiki文法)を学び始めた。簡単なものは暗記したり、よく使う色はカラーコードごと暗記してしまうほどのめり込んでいた。
徐々に画像加工やwiki文法がわかるようになるにつれて、それを記事にして素材を配布するようになった。それがきっかけでブログへのアクセス数も増えて、交流するネット内の友人の数が爆発的に増えていった。ブログは家みたいなもので、そこに集う人たちと毎日テキストで会話をした。
少しずつ、アイコンの作成依頼も受けるようになった。本当に簡単なものだったけれど、毎日人から依頼を受けて作っては渡して、を繰り返しているうちに少しずつ上達していった。後にも先にもここまで夢中になってやれたことは、数えるほどしかないと思う。
(当時使っていたWindowsXPはもう動かなくなってしまって、一つも画像が残っていないので何も説得力がないのだけれど…)



それからの日々は、完全にネット依存症のそれだった。家にいる時間のほとんどを、パソコンを使って過ごした。
中2の終わりには、何となく通い続けていた公文もやめてしまい、受験生になることを言い訳に、ダンスもやめてしまった。続けられたのは塾とピアノだけだった。宿題も勉強も、最低限しか手をつけなくなった。
それでも、表向きは中学にも部活にも休まず行っていたし、それなりに取り繕えていたと思う。けれどもわたしの心はいつもネットの中にあって、いつも心ここに在らず、だった。


ブログの認知度が少し出てくると、方々からやっかまれることもあり、ああやっときたか…と思ったのが中3の春。
2chに晒されたのも、ゲストブックを荒らされたのも一度や二度ではない。リセット癖がある故にもう当時のブログは残っていないけれど、今でもIDで検索すると2chのログが表示される。
「晒し」や「炎上」が恐ろしいことや、少し知名度が出てくるとそれは避けられないこと、著作権違反のこと、個人情報をどこまでネットに上げていいのか、などネットのいろはを学んだのがこの頃だった。


2007年、初めてネットの友人と文通したのも、オフ会したのもYahoo!ブログ経由のこと。
「学校では、"知らない人に会ってはいけません"とか言われるけど、いつ虐めてくるかわからないような中学の人たちより、よほどネットの中の人の方が良い人で安心だよな」と思ったりしていた。
ブログで仲良くなる→文通(or他のサイトのIDを教えてもらうorメアドを交換する)→skype→オフ会、と手順を踏んでいたので怪しい人に遭うこともなかったし、自分と合う/合わないの線引きがテキストだけでできる、いわゆる「目利き力」みたいなものを身につけることができて、今でもすごく役立っている。


高校生になって、部活も勉強も忙しくなり更新を続けられなくなって、いつの間にかブログへの興味を失ってしまった。この時、わたしは小さく絶望した。
だって「ブログを一生続ける」「こんなに楽しいものはない」と疑わなかったから。好きなものへの興味を失ってしまうことを、何より悲しく思った。

この経験から、「好きなものを一生好きでい続けることは難しい」「本当に好きなものも、ある日突然興味を失うこともある」ということを学んだ。
14〜16歳にかけて割と重い体験として経験してしまったので、好きなものをずっと好きでいるには体力も気力も必要で、いつ手放してもいいようにしておかなくちゃな、というのが自分の中にずっとある。好きという感情は刹那的なものだから、好きなものをある日突然好きでなくなってしまうかもしれない不安、みたいなものが拭えない。


Yahoo!ブログを通じて出会った友人たちは、いつしか全員Twitterに移行し、ブログがなくなってからもその関係性は続いた。黎明期(2008年頃)のTwitterは穏やかで、とても居心地が良かった。
その中でも特に仲の良かった、というか共通の友人だった5人でグループを作り、夜通しskypeしたりするようになった。「好きなものを好きなように語る」ためのskypeメンバー。これが、わたしにとって初めてできた共助コミュニティだったように思う。学校にも、家にも居場所がないように感じていたわたしを救ってくれた、みんな。自分の好きなものに自信が持てずに隠していたわたしを受け入れてくれて、とても感謝している。好きなものについて発信していると周りから情報をもらえたりすることもあるんだ…!と学んだ。

夜中のskypeは、家の人たちが寝静まってから布団をかぶって深夜0時からスタートする、秘密の時間。
2010年のW杯の時は、みんなでTVの前に座ってskype繋いで一緒に応援したり。
東日本大震災の時は、唯一わたしだけが関西在住だから、ネットが繋がらない関東地区の皆に計画停電の時間を教えてあげたり。関東に友人がいるから、被災していなくとも当事者意識が芽生えて、ボランティアにも行こうと思ったし、行った。
わたしがアメリカにいた頃は、時差が17時間もあるのにみんなskypeに付き合ってくれたり。就活で上京した時は、快く家に泊めてくれたりして、とても助かったり。

今ではもう、5人揃ってskypeすることはなくなってしまったけれど、個人的につながっている人とはこれからも仲良くしていきたい所存です。心の拠り所になってくれてありがとう、12年前にYahoo!ブログを通じて知り合ったみんなへ。



人との出会い方なんて無数にあるけど、無数にあるから、入口なんてなんでもいいでしょ、と思う。たとえ、無名の、どこの誰かも分からない、トンチキなハンドルネームだったとしても。
昨今、ようやく市民権を得てきたように感じるネットを基軸にした出会い方、やり方を間違えなければきっとうまく居場所が作れるのではないか。少なくともネットに救われてなんとか生きてこられたわたしは、そう信じています。


▼先週の「ノートの切れはし」はこちら


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