見出し画像

『昨夜のカレー、明日のパン』(木皿泉、河出文庫)の感想

 素敵なタイトルである。「ゆうべのカレー」も「あしたのパン」もとても身近なものなのに、その二つがつながるだけで不思議なほど前向きな印象が受けとれる。そして、日々の食事みたいな人間のいとなみを大切にした物語を想像する。

 たしかに、本作に登場するのは全員市井の人々なのだ。会社員の「テツコ」、彼女と同居している義父の「ギフ」、テツコの同僚で恋人の「岩井さん」、元CAでご近所の「タカラ」、テツコの義理の従弟の「虎尾」などなど。テツコの夫であり他界した「一樹」も当然紹介しなければならない。

 日常のいとなみが張り裂けそうなかなしみとともにあること。彼らはときに手をこまねきながらも、それを辛抱づよく受けいれている。いつまでも悲しみにくれていればいいのでなく、いっさいを忘れようとするのでもなく。テツコたちは「一樹」と誠実に向き合っている、あのころも、いまも。

職場と病院と家とを何回も往復したあの暗い道。寒かったし、悲しかったし、二人とも疲れきって口もきけなかった。その時、行く先にポツンと明かりが見えた。猫が跳ねている立て看板が出ていた。近づくと、パン屋だった。(略)
「もうすぐ新しいのが焼き上がりますよ」
と店の人に言われ、二人は待った。その時の二人は待つのに慣れきっていた。病院のあらゆるところ、検査結果を聞くための部屋や支払所、手術室、詰所などで、ただひたすら待っていたからだ。パンの焼ける匂いは、これ以上ないほどの幸せの匂いだった。店員が包むパンの皮がパリンパリンと音をたてたのを聞いてテツコとギフは思わず微笑んだ。
(p24-25から引用、「跳」「微笑」の「は」「ほほえ」のルビを略した)

 すばらしい文章である。おいしそうなパンが二人に救いを与えてくれること、そして、食べものに生きる意欲をもらえるほどに二人が旺盛な生命であることがリズミカルに表現されている。同時に、彼らが本当にギリギリのところで「一樹」の病と生きた人たちなのだということも分かる。

 このあと、テツコとギフ2人の同居生活がはじまる。私は彼らに本当に素敵な意味で「大人」を感じる。

 テツコの夫、一樹が亡くなったのは七年前で、その後も、ギフとテツコは同じ屋根の下で、働いては食べ、食べては眠ってと、ただただ日々を送ってきた。最初に割り振りされたはずの立場や役割は、今やすっかり忘れ去られている。なぜ一緒にここにいるかという理由も、暮らしているうちに曖昧になりつつあった。義父は、いつの間にか〈ギフ〉となってしまったのに、名何年前に死んだ夫は、ずっと夫のままだった。
(p14、「一樹」の「かずき」のルビを略した)

 義父を「ギフ」とカタカナにすること。義父をカタカナで呼ぶのは一風変わったように思えるが、そうではない。「義父」と呼びつづけること、義父の名前を呼ぶ場合を想像すれば、一樹が不在である事実や存在が過去になってしまったやるせなさが生きることをひび割れさせてしまうだろう。

 彼らが一緒に暮らすことをテツコは「ただただ日々を送ってきた」といっているが本当は違うと思う。義父と離れてしまえば一樹と育んだ関係が「過去のもの」になってしまう。ギフもテツコもひたむきに一樹を想い、ちょっとだけ変わったふるまいをしながら現在を埋めようとつとめているのだ。

 私はこんな彼らが本当に大人だと思う。泣き叫びたい自分の感情を大事にするより、愛するひと、目の前にいるひと、いま生きている事実を大切にしたり敬意をはらう。そのやさしさと自分らしさを両立させようとして時にちょっと変なふるまいにもなる。こういう人が一番素敵な大人だと思う。

 本書は連作短編集である。二人がお隣さんの話をするのが冒頭の「ムムム」、タカラの内面を描く「パワースポット」、ギフの冷や水な趣味の「山ガール」、一樹を想うもう1人が描かれる「虎尾」、岩井さんがしでかした「魔法のカード」、全てのはじまりのように荘重な「夕子」、実は似た者と思える面識ない2人が同居を突然はじめる「男子会」、エピローグにふさわしい「一樹」、いまふたたびテツコの内面をトレースしていく、文庫版書下ろしなのにものすごくよすぎる「ひっつき虫」の全9篇。素敵な大人たちの波乱ぶくみの物語がいつまでも読んでいたいと思わせる。

 最後にもう1度タイトルについて。その意味は本作を最後まで読めば必ず分かる。しかし、その含蓄はすごく深い。この言葉に感動したのが誰かを思うこと。その感動がいまどこにあるかを想像すると、私たちも私たちなりの「昨日のカレー、明日のパン」を抱えて生きていることに気づくだろう。

(木皿泉は、和泉務と妻鹿年季子の2人の夫婦脚本家。『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『セクシーボイスアンドロボ』『Q10』などがその作品。本書によって小説家としてデビューした後も『ハル』『さざなみのよる』『カゲロボ』と立て続けに傑作を発表している。)


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?