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『からくりサーカス』(藤田和日郎、小学館)の感想

 21巻で「他人がいなければ生きてゆけない」という台詞がある。この考えが作品の芯にあると思う。オートマ―タはフランシーン人形のために生きようとしていたし、「しろがね」たちも大事な人が失われた現実に対して命を捨てる。どちらも「他人がいなければ生きてゆけない」にも関わらず(それゆえに)、孤独に生きてしまう。
 「他人がいなければ生きてゆけない」にも関わらずなぜか生きてしまう悲喜劇。それを暴力全開に演じる悪役たちが本当に素敵だ。オートマータだけではない。フェイスレスがそうだ。この芯のある悪によって物語が引き締まっていて、巻数の長さを気にさせない。
 ところで、ゾナハ病は、「他人がいなければ生きてゆけない」ことをダイレクトに負った業(病)だが、自分と他人のどうしようもない溝を表現しておりここにも芯がある。自分の命をかけた行動を相手が受けとる(笑う)かどうか分からない。むしろ笑えない。つまり、他人とともに生きてゆけないリアルを示している。
 不死や長生にもこの芯を読んでみよう。それをこの物語で読めば、他人と生きてゆく方途を失ったあてどない生命のことだと感じられる。ある意味では私たちも不死と言える。使い所なく持て余した生の実感がそうなのだ。生きる意味がなければ死も無意味で、他人と生きることができない生が不死となる。
 『からくりサーカス』を読んで不死や長生に憧れるものは多分いない。彼らは長大な寿命を得ている以上に、他人と生きられない業を多く負っているのだ。不死や長生でも他人と生きられない。一方で、単に普通の生では他人と生きるにはあまりに脆いし他人を生かす力もない。では、どうすればよいのだろうか。
 『からくりサーカス』は、この問いを真正面から問うていると感じる。そして、ものすごく真正面から答えようとしていると思う。そんなマンガは他にない。「一人よりも二人が絶対最強だ」という芯をまっすぐ答えきった『うしおととら』よりもハードな問いを問うていると思う。
 しかし、『からくりサーカス』のラストを読んで、「甘い」と「厳しい」という正反対の二つの感想を持つものは多いと思う。フェイスレスの改心を「甘い」と感じ、マサルがナルミとの再会を選ばなかったことを「厳しい」と感じる。甘くて厳しいラストシーンをどう評価するかで意見は分かれるだろう。
 私はこの「甘さ」と「厳しさ」は二つで一つだと考える。再会を選ばなかったことが、フェイスレスの改心を生み出しているのだから。ここに他人とともに生き、他人を生かす答えがある。藤田和日郎は問いの答えを言葉では意識しなかったと思うが、確かにマンガには刻みこんでいる。
 それを書く前に、登場人物の覚悟を読もう。ナルミの「何度だって越えてやる」(38巻)、マサルの「滅びを知ってなお、己の存在を肯定する」「ぼくはぼくさ」(40巻)、しろがねの「ありがとう、出会ってくれて~いつかまた私と出会ってください」(42巻)。どれもぐっとくるが、フェイスレスの改心には届かない。
 何がフェイスレスの心を撃つのか。1巻と43巻に、[たたかう][にげる]というようなゲームのコマンド選択が繰り返されている。これだと思う。しかしそれは「自分の意志を選択する」という話で終わらない。ゲームでコマンド選択が現われるのは「エンカウント(偶然の出会い)」によってである。
 偶然の出会いを肯定し自分の必然を選ぶこと。うまく言えないが、この「心の姿勢」(43巻)が『からくりサーカス』の答えとしてある気がする。マサルがナルミの代わりに宇宙に行ったのは、ゾナハ病を止める確率が高いからではない。ナルミがマサルより先にしろがねと会った偶然の出会いがその選択を選ばせた。
 世界を滅ぼすはずなのに、マサルとの偶然の出会いによって中止を選択すること。このフェイスレスの改心は利己的な行動だとも言えるのだ。偶然による選択を生むことが、自分の役割を自由にひらく可能性がある。フェイスレスは弟(マサル)を肯定する兄にもなるのだ。それは弟として肯定されなかった現実を揺るがしていく。
 ところで、『からくりサーカス』の「サーカス」は「家族でないものが家族になる」意味があると思う。ナルミ、しろがね、マサルは三人家族のように寄りそうべきとも感じさせる。それはマサルの「厳しい」選択によって実現しない。このときマサルは子ではなく、二人の親のように振るまう。
 マサルは偶然の出会いを肯定し自分の必然をそう選んだ。この役割を真摯に交替していく自由が『からくりサーカス』がたどりついた答えだ。他人とともに生き、他人を生かす答えを藤田和日郎はつかんでいた。

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