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『水の中の犬』(木内一裕、講談社文庫)の感想

「え? だって先輩はこーゆー人が引き受けないような仕事がやりたくて探偵になったんじゃないんスか?」
「言ってる意味がわからんね。好き好んで危険な仕事をやりたがる奴なんているわけないだろ?」
 木島は探偵を指差して笑った。
「ここにいるじゃないですか」(p149)

 元刑事の「探偵」。彼はけっして他人の叫びを無視できない人間である。だが、心優しき彼にこの世界はあまりに残酷だ。最初の依頼【第一話】取るに足りない事件、最初の事件の清算がせまり無数の残酷な犯罪が関わる【第二話】死ぬ迄にやっておくべき二つの事、自分のルーツを知って現在の救済に必死に取り組む【第三話】ヨハネスからの手紙。からだに鉛をいれるような有毒な残酷さに彼はおそわれる。ぐいぐい読める作品だが、1日1話を読み進めることをおすすめしたい。それくらい話が重い。

 そして、この残酷な世界のなかで、彼は至極まっとうである。

(略)病院を出ても何の行動も起こせず、その苛立ちを彼女にぶつけた。ただそれだけの男だった。
 だが私はそれを受け入れる気にならなかった。私はもう少しマシな人間であるはずだ。
 私は証明しなければならない。彼女に対しても、自分自身に対しても。(p80-81)

 私たちも同じ内省を抱いたことがあるかもしれない。その意味で「探偵」は私たちと近い。だが、彼は逃げない。自身のまっとうさがさらなる悲劇に彼を誘うのだがそこから逃げない。そして、希望なき世界に一つの行為を撃ち込むことになる。それがギリギリまで彼の魂が考え抜いた「証明」だ。

「俺は思い違いをしていたのかも知れん」
「何がだ?」
 私は訊ねた。
「あんたは俺が思ってたような男とは違ったってことだ」
「どういうことだ?」(p351)

 私たちもこの物語を勘違いする可能性がある。彼がこの作品でなしたことは、ただイノチガケで自分を省みない無謀さでない。復讐でもなく、清算したい過去と現在とを重ね合わせたものでもない。自分のできるギリギリの選択を考え抜いた、透徹した覚悟がそこにあるのだ。

 きっと、その覚悟のなかで彼は何百回も死んでいる。自分の命より大事にすべきものが何かをくりかえし思念している。彼はもっとも純粋に人を思う人間だといえるだろう。そして、彼を「最高の男」(p374)と呼ぶ矢能の存在によって、彼はわずかに救われもしたはずだ。

「(略)後は俺に任せろ」
 力強い声だった。探偵は歩き続けた。口元にゆっくりと笑みが広がっていく。
 嬉しかった。後を託せる人間がいることは素晴らしいことだ。
 探偵は初めてそう思った。死ぬまでにやっておくべきもう一つのことが何なのかはいまだにわからないでいたが、満足して死ねそうな気がした。(p242)

(補足:この探偵が名前をもたないことはあまりにも自然で、その意味を言葉に移すのはとてもむずかしい。だが、他人に純粋に向かう魂は固有名詞で呼ぶことが似つかわしくないと感じる。組織になびかず、心優しくあるもの。彼は「私立探偵」という呼び名がいちばんしっくりくるだろう。ちなみに、作者自身がメガホンをとった映画『鉄と鉛』も最高です。)

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