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『金色夜叉』(尾崎紅葉、新潮文庫)の感想

「金剛石(ダイアモンド)!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石?」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石?」
「可感(すばらし)い金剛石」
「可恐(おそろし)い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
 瞬(またた)く間に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳(うた)へり。」(p16)


 「明治の小説で最も大衆に愛読されたもの」(p576解説)という『金色夜叉』は初めの方で文字数稼ぎのような場面があり、これは歌舞伎的なつくり物語として群衆を表現した個所でもあります。「明治時代の閉された男女交際期間の一つの有力な窓というべき正月のカルタ大会」(p578)に集う男女が、一人の男性富山唯継(富を継いでいるだけのボンボンていう感じの名前)のダイヤの指輪に見ほれているシーンがそれ。
 この金持ちの登場により夫婦の契りを交わしていた貫一とお宮の間に亀裂が走る。「ある令嬢は、死後墓前に花や水を供えるより『金色夜叉』掲載の読売を毎朝供えてほしいと遺言したというほどであった」そうで、ベタで浮き沈みが激しいメロドラマが美しい流麗な文語文で語られている結構は、韓流ドラマに通じる魅力があると思います。

 『金色夜叉』のキャラはやりすぎですごく魅力があります。
「それぢゃ断然(いよいよ)お前は嫁ぐ気だね! これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちええ、腸の腐つた女! 姦婦」
 その声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたと踢(蹴)たり。地響して横様に転びしが、なかなか声も立てずし苦痛を忍びて、彼(=宮)はそのまま砂に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為(えせ)ず弱々と僵(たお)れたるを、なほ憎さげに見遣りつつ、
 「宮、おのれ、おのれ姦婦。やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了ふのだ。学問も何ももう廃(やめ)だ。この根の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖(くら)つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人!」(p88)

 熱海での破局の名場面(熱海が「風はあらぬに花は頻(しきり)に散りぬ。散る時に軽く舞ふを鶯は争ひて歌へり。」(p61)とハワイ並の極楽な扱われ方にも時代を感じて奥ゆかしいです)。「ちええ」とか、ちょっと口に出していってみたくなるキャラの激情はとても魅力です。

 負の感情の爆発だけがキャラの魅力ではありません。次は、失踪し高利貸しになっていた貫一は仕事の恨みを買って闇撃ちに合い入院した場面。その事件が新聞に載ったことから、大恩ある宮の父親が病院に訪ねてきます。彼が声をかけても貫一は返事をせずにそっぽを向いている。そんな場面の続きがこれ。
「(貫一に猛アピールをしている同じく高利貸しの悪女の満枝)はこの長者(宮の父親)の窘(くるし)めるを傍(よそ)で見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺へば、涙の顔を褥(しとね)に擦付(すりつ)けて、急上(せきあ)げ急上げ肩息(かたいき)してゐたり。」(p291)
 恩人に優しくされて爆泣きしそうな貫一。子供みたいな純情と激情が表現されている名場面です。ちなみに満枝の登場で展開が余計に韓流です。

 一方、こんなにも貫一を悲劇のどん底に突き落としたお宮の方はどうでしょうか。
「宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半には過ぎざらん。彼(=宮)自らその色好(いろよき)を知ればなり。世間の女の誰か自ら色好を知らざるべき(略)宮は己が美しさの幾何(いかばかり)値する当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔(わづか)に箇程(かほど)の資産を嗣ぎ、類多き学士風情を夫に有たんは、決して彼が所望(のぞみ)の絶頂にはあらざりき。」(P28-29)
 要するに貫一じゃ物足りないという話。これじゃ読者も「ちええ」と言いそうです。しかし明治期の女性は、欲を持ちすぎてしまう宮にこそ熱い視線を送ったのではないかとも思います。
 彼女は物語に波乱を招き、読者が思ってもあきらめてしまうような気持ちに忠実だから羨望と共感ができる。それが絶世の美女なら共感にもなおのこと熱もこもろうというもの。しかも富山と結婚した後になって「宮が貫一に別れてより、始めて己の如何(いか)ばかり彼に恋せしかを知りけるなり」(p245)と思ってしまう。身勝手ながら、ここにももう一人激情に忠実な人物造形がなされています。

 この物語のあらすじは、二人が破局する「前篇」。高利貸しになった貫一と「富山の令夫人」となった宮が一瞬邂逅した後貫一が入院する「中篇」。宮の本心に迫るとともに、貫一を子のように扱っていた高利貸しの鰐淵と妻が恨みを買い放火によって死んでしまう「後編」。宮が貫一の家に押しかけるがそこに満枝も来て修羅場な「続編」。貫一が旅に出ると富山ゆかりの人物と出会う「続続編」。貫一が改心し棄てていた宮の手紙をひもとく「新続編」と続いて未完となっています(小栗風葉の「終編金色夜叉」による完結があります)。

 後半で面白かったのは「続編」から「続続編」に連なる展開です。「心中」を夢オチで回避するところから、貫一が夢で見たような土地を旅する展開があります。このあたりを読んでいると、テキストのどこまでが夢だか、現実だかが分からなくなる。まるで「続続編」の貫一は死後の世界にいて、世界の「ミレエジ(鏡)」(p527)を映し見ているようにも読める。とつぜんシュールな読書感覚です。
 だからこう言えるかもしれません。間貫一は「物語」と「リアル」との間を一貫して生きていたのだと。その夢か現実か分からない奇妙なあり方こそが小説であり、心中という戯作の「物語」に限りなく接近しながら、人が生き続ける小説のリアリズムに向かおうとしている。
 他の硯友社の文語の小説の、一つの「物語」に向かい死んでいく志向に対し(広津柳郎や樋口一葉あたりを念頭に置いています)、『金色夜叉』は「生」に向かおうとするために、死ぬはずのものが生きているリアルの狂いを迎えてしまう。未完である今作はその矛盾を解消しきれずに終わりますが読めば読むほどに、物語のキャラクターとは私たちにとって何かということを考えさせる抜群の明治期のエンターテイメント小説です。

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