見出し画像

《大学入学共通テスト倫理》のための荘子

大学入学共通テストの倫理科目のために歴史的偉人・宗教家・学者を一人ずつ簡単にまとめています。荘子(荘周)(前4世紀頃)。キーワード:「道家」「逍遥遊(しょうようゆう)」「万物斉同(ばんぶつせいどう)」「真人」「心斎坐忘(しんさいざぼう)」「無用の用」「胡蝶の夢」主著『荘子』

これは荘子の「胡蝶図」の1つ

画像1

蝶になった夢をみたが、逆に自分が蝶に夢みられているのかもしれないと思う「胡蝶の夢」。このたとえ話の主人公が荘子です!(画像は明代の画家陸治の「夢蝶(蝶を夢みる)」)

📝この荘子は、諸子百家の「道家」の代表的人物です!

著名思想家、哲学家、文学家,是道家学派的代表人物,老子思想的继承和发展者。(フリー百科事典「維基百科」、庄子のページから引用)

「高名な思想家、哲学者、文学者であり、道家を代表する老子の思想を継承し発展した人物である。」が拙訳。老子の「道」の教えを発展させたのが荘子と言えるでしょう!

📝「老子」はきちんと押さえておきましょう!

「上善は水のごとし。…道にちかし。」『老子』(小川環樹訳注中公文庫)

画像2

「道家」では万物の根源のことを「道」と呼びます。老子はその道に従って素朴に生きるのがよく、儒教の仁義などはそこから離れたものと説きました(「大道廃れて仁義あり」)。ふるまいにおいて水のようにやわらかな謙虚さ(「柔弱謙下(じゅうじゃくけんげ)」)を尊び、そんな人間たちが暮らす小さな自給自足の国家(「小国寡民(しょうこくかみん)」)を理想としました。ちなみに、こんな老子はセンター倫理の中で一番実在が疑われている人物です!(上の『老子』のp22の引用はルビは全て略し、「若し」「幾し」を「ごとし」「ちかし」に改変しました。)

📝荘子は道のなかに突き抜けた自由をつかみました!

神人が住んでいる。その肌は氷や雪さながらで、まるで処女のようにしなやかだ。穀物は食べずに、風を吸い露を飲み、雲や霧にまたがり、飛龍をあやつりながら、世界の外に遊び出てゆく。

神人の居る有り。肌膚は氷雪の若く、淖約たること処子の若し。五穀を食らわず、風を吸い露を飲み、雲気に乗り、飛龍を御して、四海の外に遊ぶ。(『荘子 内篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p25/p23から引用、ただし、書き下し文のルビは全て略した)

これが荘子の「逍遥遊」のイメージの1つ。「逍遥遊」はありのままの《自然》の世界に自己をゆだね、現実世界の束縛から解き放たれて悠々と遊ぶ境地のことを指します。その解放の自由のイメージを「神人(仙人)」に仮託して描いているのがこれです。「有神人居焉。肌膚若冰雪。淖約若處子。不食五穀。吸風飲露。乗雲氣。御飛龍。而遊乎四海之外」

📝「万物斉同(全ては等しく同じ)」の突き抜け感も半端ないです!

かくて天地は私とともにながらえ、万物は私と一つの存在となる。

天地も我と並び生じて、万物も我と一為り。
(『荘子 内篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p67/p65から引用、ただし、書き下し文のルビは全て略した)

こんな感じが荘子の「万物斉同(ばんぶつせいどう)」。一切の事物の価値は等しく、人間の気にするような善悪や美醜の差別を超えて存在している。こんな思考の末に「万物は私と一つの存在となる」という突き抜けた認識に立ちます。全ては「道(タオ)」に通じている!「天地與我並生。而萬物與我為一。」

📝突き抜けた認識の人を「真人」と呼んだりします!

いにしえの真人は、生を喜ぶこともなく、死を憎むこともなかった。生まれてきたことをうれしがりもせず、死んでゆくことを拒みもしなかった。(略)かかる天の立場と人の立場が混然と融和した存在、それを真人と称するのである。

古の真人は、生を説ぶことを知らず、死を悪むことを知らず。その出づるや訴ばず、其の入るや距まず。(略)天と人と相い勝たざる、是を之れ真人と謂う。
(『荘子 内篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p201,203/p196-197,198から引用、ただし、書き下し文のルビは全て略した)

これが荘子の「真人」。自然の道と一体となって生きる、荘子の理想像です。大いなるものと一体になるだけでなく、全てが道という「一」なるものから生まれている以上、その「一」とともに生きることがグレートだという考え方です。「古之眞人。不知説生。不知惡死。其出不訴。其入不距。(略)天與人不相勝也。是之謂眞人。」

📝ちょっと禅の「悟り」にも似ています!

「私は坐(い)ながらにしてすべてを忘れました(略)形骸を離れ、知恵を捨てて、大いなる道と一体になった状態、それが坐ながらにしてすべてを忘れるというのです。」

「回、坐忘せり(略)形を離れ知を去りて、大通に同ず、此を坐忘と謂う」
(『荘子 内篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p249/p247から引用、ただし、訳のルビをパーレンに入れる改変をし、書き下し文のルビは全て略した)

これが荘子の「心斎坐忘(しんさいざぼう)」。心をととのえ己を忘れることで、無為自然の道と一体になることを指します。他の部分で「肉体は骨のように、心は灰のようにせよ」というアドバイスも読めます。実際に座を組んではいないかもしれませんが、これは座禅と同じく悟りを得ようとする修養でしょう。なお、引用の発言者は顔回。不意に一番弟子が孔子を超越した境地を語って孔子もびっくりという設定です。「回坐忘矣(略)離形去知。同於大通。此謂坐忘。」

📝万物の相から現実をみた言葉が「無用の用」です!

肉桂(にっけい)はなまじ食用なればこそ伐(き)られ、漆(うるし)はなまじ有用なればこそ割(さ)かれる。人はみな有用の用を知るが、無用の用を知るものはない

桂は食らう可きが故に之を伐り、漆は用う可きが故に之を割く。人は皆な有用の用を知りて、無用の用を知ること莫きなり
(『荘子 内篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p159/p158から引用、ただし、訳のルビをパーレンに入れる改変をし、書き下し文のルビは全て略した)

これが荘子の「無用の用」。無用とされるものの中に、あるがままの自然の用(価値)があるという考え。シナモンとウルシとはともに木肌を削ってとるもの。木肌の存在価値は別にあるという話。木の命が無事であるべきという意味から、木があるがままに生きることが世界の意味であるという感覚まで含むと思います。「桂可食。故伐之。漆可用。故割之。人皆知有用之用。而莫知無用之用也」

こんな感じが「道家」です!

画像3

道家は中国禅に影響を与え、唐の時代に国教になる「道教(タオイズム)」につながるもの。ちなみに、日本では唐代の文化が好まれたことから、当時から老荘がものすごく読まれています!

📝「胡蝶の夢」にも独特な悟りの意識が込められています!

はて、これは荘周が夢でチョウになっていたのか。それともチョウが夢で荘周になっていたのか。荘周とチョウには、きっと区別があるはずだ。これこそ「物化」(万物の変化)というものなのだ。

周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを知らず。周と胡蝶とは則ち必ず分有り。此を之れ物化と謂う。
(『荘子 内篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p92/p91から引用、ただし、書き下し文のルビは全て略した)

これが荘子の「物化」。1つ1つが何らかの「用」をもって生きている。その用をとびこえて全ては1つに至るプロセスで、他のものに変化することを「物化」と呼んでいます。「不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之謂物化」

📝最後に、『荘子』から少ししんみりする箇所を引用させてください!

そなたは私のことを心にかけながら、私の実際をすっかり忘れてしまっている。といっても、別に気に病むことはないんだよ。過ぎ去った私は忘れられたって、私にはまだ忘れられることのない本質があるんだから

汝の吾を服するや亦た甚だ忘る。然りと雖も、汝、奚をか患えん。故き吾を忘ると雖も、吾忘れざる者の存する有り
(『荘子 外篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p501/p498から引用、ただし、書き下し文のルビは全て略した)

これは孔子の顔回への語り。死別のかなしみは互いが1つであるという《実際》を忘れさせてしまう。しかし「道」の本質は私とともにずっと生きているのだ。だから気に病むことはない。道家の哲学が、死のかなしみにそっと語りかける文章だと思います。「汝服吾也亦甚忘。雖然。汝奚患焉。雖忘乎故吾。吾有不忘者存」

恵先生が亡くなられてから、私には相方とする人がいなくなった。もうともに議論しあう相手がいないんだよ

夫子の死せし自り、吾以て質と為す無し。吾与に之を言う無し
(『荘子 雑篇』(福永光司/興膳宏訳、ちくま学芸文庫)p91/p90から引用、ただし、書き下し文のルビは全て略した)

これは荘子の恵子との対話。恵子(恵施とも、諸子百家「名家」の思想家)は荘子のよい論敵だったそうです。「外篇」秋水篇で、荘子「魚が楽しそうに泳いでいる~」恵子「魚じゃないのにどうして楽しそうって言えるのっ?」ではじまる切れ気味な哲学トークを交わす、2人の友情が不意に物語られるとぐっとくるものがあります。「「自夫子之死也。吾無以爲質矣。吾無與言之矣」

あとは小ネタを!

『荘子』は魅力的なたとえ話で知られる。そこに老子や孔子など先人も登場させ、事実らしさにこだわらずに自在な物語をつむいでいる。だから、荘子やその一派は二次創作の元祖といえるかもしれない。

↪これを「重言(じゅうげん→古人を登場させて論を重くする表現)」というそうです。鴻(おおとり)や混沌(こんとん)などの意想外なたとえ話(「寓言」)とともに書物『荘子』をいろどります。とりわけ「孔子」の「重言」の扱いが自由で、その話題のノリで、①道を理解しないおろかもの。②道を理解しながら別をすすめた、あるいは途上にある賢者。③その他。など色んな役割を兼ねています。可能世界にふれたみたいな面白さがあります。本気で、二次創作の元祖と言っていいかもしれません。

さっき私は蝶を夢みたか、いまの私が蝶に夢みられているのか。自明の現実にこんな疑問を投げかける「胡蝶の夢」。画像は日本の絵師柴田是真がその説話を描いたもの。「胡蝶を夢見る荘子」(1888)です。縦長の余韻を使いきっていて素敵です!

画像4


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?