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Diary in America(後編)

16.Dec.2005(Fri)

今日は、昨日ベアトリスに教えてもらった画材屋PEARLに歩いて行く。この店があるCanal st.は、中華街にあって、日本でいうアキバとアメ横を合わせたような、いくつもの露店のような小さい店が立ち並ぶ大通りだった。PEARLの看板には「世界一大きな店」というコピーが書いてある。(といっても日本の世界堂(※画材屋)と比べてそんなに大きいわけでもない)確か世界堂には「日本一安い店」というコピーがあった。大きな画材屋というものは、とにかく一番が好きらしい。そこでステッドラーの0.7mm製図用シャープペンと(※12日に買ったシャープペンはデッサン用だった)、6本の水彩色鉛筆と3本の大きさの異なる筆を買う。その後メトロに乗ってブルックリンのコニーアイランドまで行くことに決める。途中電車を乗り間違えたのでいくつかの乗り換えをして軌道修正を試みる。

今日の明け方から降っていた雨は,、僕の起きる頃には小降りになり朝食を終えてラウンジを出る頃には既にぴたりと止んでいた。ラウンジ外の中庭には一昨日話したドイツ人男性が煙草を吸いながら突っ立っていた。彼はラウンジから姿を現した僕を見るとニッコリと笑って僕を見て、空を見上げながら「どうだい!」というふうに掌を空に向けて両手を挙げる。僕もつられて空を見上げると、そこには雨で浄化されてきれいになった真っ青な空が広がっていた。僕が「Fine!」と言うと。彼は心底嬉しそうな顔で僕を見た。今日は彼の友達のイベントが野外で行われると言っていたような言っていなかったような…。

今日は、写真を撮る為にあるような(※よく晴れた)日だった。僕は乗り換えをする為にブルックリンのSmith 9駅で降りる。ブルックリンの町並みの向こうに見えるかすんだ摩天楼をホーム越しに、カメラを構えて写真を撮ろうとするとふいに風が吹き僕の帽子を線路の上に吹き飛ばす。「やばっ!」と言いつつ慌ててホームを降りて帽子を拾う。(※その少し前にやはり少年が帽子を吹き飛ばされてホームに降りて拾っていたから問題ないかと思いこんでいた)再びカメラを構え直した時「Hey! You can't ○×△□×△××□!」と、向こうのホームにいた警官が駆けながら僕に向かって叫ぶ。僕は「え、何?」と慌ててカメラをおろすが後の祭り。ホームの階段を下りたところでそのポリスに捕まえられて何と手錠までかけられてしまった。僕は何が悪かったのかわけもわからずにとりあえず言うなりにする。その黒人のポリスは「何で写真を撮ってたんだ!」とか、「何でホームに降りたんだ!」と言う。僕は「景色がキレイだったから」とか「撮ったらいけないと知らなかった」とか「帽子がホームに落ちたからだ」とか言い返すが何故か聞き入れて貰えない。結局そのままポリスカーに乗せられてFulton駅の鉄道警察署?の様な所に連れて行かれる。そこで再び同じ様な事を聞かれて同じように答える。しかし、細かい事を聞かれると(※ブルックリンの人が)早口なのもあって、何を言っているのかわからない。結局話が通じないからということでそこのブタ箱に入れられてしまった。しかし…僕を捕まえたおそらく僕よりもずっと若いだろうそのポリスは、一生懸命僕の体中を探って武器がないことを確認して、何を思ったかブタ箱に入れてからも「その靴ヒモを外してこっちに投げろ」とか言う。何だか映画の見過ぎのママゴト遊びにつき合わされている感じがする。もう一人の落ち着いた感じの署にいた黒人警官は真面目な印象。バッグの中身を調べてから僕の持っていた日本円迄を懐に入れようとしていたこの若者警官に、「おい、それは返せ」と言ったり、一生懸命日本語の通訳のできる人を電話で探してくれた。別に優しい顔はしないが、自分の仕事には誇りを持っている感じ。結局彼が中国系の日本語を話せる人を探しあて、電話で(※僕と親切な警官と電話に出てくれた中国系の人の)3人でやりとりをして何とか(※2.3時間後に)ブタ箱を出して貰った。地下駅のホームの中にあるその署を出てから、財布の中から約$30が抜き取られていることに気づいた。残っている米ドル札はきっかり$1。本当バカにしている。どうやらその若い黒人ポリスにカモられてしまったということだったことに気づく。ビッチでアスホールなJapとか馬鹿にしやがって。それはテメエだ馬鹿!

(※あとになって色々な人の意見を総合するとどうやらテロリストと思われていたらしい。そういえばお金を抜き取った若い警官も最後には俺の財布を見せて「お金はちゃんとあるか?」とか僕に聞いてきたし(無実だとわかった時点でジョークとして僕に返そうとしていたのかな?)、その前にも真面目な警官が「財布の金はちゃんとそろっているか」と何度か聞き直した。(ということはお金を抜き取られることはよくあることなのだろうが)その時、気が動転していて「Yes yes」と繰り返し言ってしまった僕が悪かったのだろう。最終的に、構内で写真を撮ったことと勝手に線路内に降りた事の罪で$50の罰金という黄色い違反キップ(日本の交通反則キップみたいな用紙)のようなものを渡されてしまったのだが、今日を入れて3日以内に払わないとまた逮捕されるぞと脅していたクセに、その日はすでに入金受付時間を過ぎていて、その後の2日間も土日の休日になっていた。その紙に書いてあった規定の15日間の支払期限の間も、ちょうどロスへ行っていてブルックリンの支払所には行けなかったので(その予定は取り調べ時に彼らに話していた)結局その$50も払えずじまいになって日本に帰ってしまった。支払期限が過ぎた今もウチには電話はかかってこない。と、いうことはそれは一種の悪いジョークだと思って済ませてしまって良いということなのだろう。と…と得心して、日本に帰った今になって「アノヤロウ」と苦い顔をして笑うことにした。(苦笑))


17.Dec.2005(Sat)

今日は、昨日捕まった時に言い渡された$50の罰金を払いに行くつもりが、駅の入口で(※人にbusiness dayとはどんな日か?と聞いたときに)土日祝日は支払所が休日だと気づいて予定を変更する。ブルックリンの海岸にあるコニーアイランドまで電車で行く。途中迄地下を潜っていた電車はブルックリンを半分位来た所で地上の高架線に変わる。コニーアイランドに近くなるにつれ、車両に座っていた乗客の数は、平日の人気のない映画館のようにガランとしてくる。電車の窓にはレンガ色の低層住宅とその上に浮かぶ青空の2トーンカラーが映えている。ゴトゴトいう無骨な車輪の音は、窓から射す光を微妙に揺らしながら、同じ車両の中で聖書を手に語り続ける老いかけた黒人詩人の歯切れの良いリズムのライムに賛美歌の様に共鳴していた。コニーアイランドに近づき電車がスピードを落とし始めると、詩人のライムもリズムを落とし、電車が止まる前にフェードアウトした言葉の余韻が、文明の地の涯を思わせるこの海辺の町に吹く冷たい風となって僕らを電車から追い出した。駅を下りると300m位先に海辺がある。砂浜にはアホウドリが何羽もたわむれている。砂浜に平行に伸びた広い歩道に沿って、屋根付きの休憩所やレストルームが200m置きに並んで建っている。道の裏には黄色いスクールバスの駐車場と、シーズン中にだけ営業しているらしい、赤や青の原色のペンキで塗られたジェットコースターやパラシュートタワー、ゴーカートなどの遊具が置かれた小さな遊園地がある。その向こうには、今歩いて来た駅から出ている高架の上の電車が時々姿を現し、そのまた向こうにレンガ壁の中層マンションがいくつも建っていた。


僕はその景色をスケッチする。色鉛筆を使ってみるがなんだかデッサンのしっかりしない妙な絵になってしまう。それを強く冷たい浜風のせいにして、失敗した後の猫みたいに素知らぬ顔をして何となくやりすごす。その後写真を何枚か撮る。しかし、昨日のトラウマか人のスナップや住宅地は撮る気になれない。(ブルックリンの人というのは警戒心が強いのではないだろうかと独りごちる)その後、近くのバーガー屋に寄ってチキンバーガーセットを頼み少し店内で暖まりながら腹一杯になって帰ることにする。帰りはコニーアイランドから歩いてブルックリンを横切ってブルックリン橋からマンハッタン島に渡って帰ることにする。最近になってやっとAv.の縦糸とst.の横糸の関係がわかって、地図を見ながら難なくチェルシーのホステルに帰り着くことが出来た。


途中会ったブルックリンの黒人のおばちゃんの話。日も落ちて暗くなった頃、マンハッタン橋に続くGoldst.の交差点で地図を広げて有名な観光スポット、ブルックリン橋を探している。よくわからなかったので近くで信号待ちをしていた黒人おばちゃんに「ブルックリン橋はどこですか?」と、道を尋ねる。おばちゃんは、一片の迷いもなく「That right!」と言ってその道の先に光って見える橋を指さす。僕はてっきりマンハッタン橋だと思い込んでいたその橋がブルックリン橋だとわかり喜んで「サンキュー、サンキュー!」と言って、その橋を目指して歩いた。橋の近くに来ると、大きな緑色の交通表示板に「Manhattan Bridge」と表示されているのが見えた。
「これだから、おばちゃんはっ!」僕は顔に手を当てて大きくあきれてしまった。そうしながらも、おばちゃんの持つ位相が世界共通のものの様な気がして何だか吹き出してしまう。僕は何故か気分が良くなって楽しい気持ちでブルックリン橋を渡った。(ちゃんと見つけました)


18.Dec.2005(Sun)

今、グレイハウンドバスに乗っている。丁度最初のインターチェンジのようなところに入った所だ。日本のICと同じくやっぱりアメリカでもICの食料品など高くつくことを知る。今朝は早めに起きて軽く身支度を整え朝食のサンドイッチを作って食べた。最近ミサキが(※内緒で?)泊めてもらっている大阪の2人組の女の子がラウンジで朝食。昨日ミサキの姿が見えない事を心配していた。今朝迄姿を見せていないという。昨日ミサキに僕がブルックリンの駅であった顛末を話したら、彼がよく出入りするブルックリンでそんな事があった事に驚き「その駅の警官に言い返して金を取り返してきますから!」と言った。僕は絶対にそんなことしなくていいと言ったから納得してくれたと思うのだが、行っていなけれいいのだが…。彼は帰りのチケットを持っていない上、住んでいる所も不定なので警察につかまると、中々ブタ箱から出してもらえないと思う。あんな事話した僕にも責任があると思うとちょっと心配する。僕は(※その時すでにかなり生活費も逼迫していたらしい)ミサキに幾ばくかの$を残していこうかと思ったが、日本の知り合いに約束していたNYからのクリスマスカード(普通の絵葉書にしたけど)を出しに42stに行って、ホステルに帰って出発の身支度を整えたりするうちにチェックアウトの時間が来てしまい、(※その前に)銀行でトラベラーズチェックをキャッシュに換えて、昨日ラウンジで知り合った信頼できる30代日本人女性に渡すという当初の計画がうやむやに消えてしまい、気付けばグレイハウンドのチケット売場でチケットを買ってオタオタしているうちにグレイハウンドバスに乗ってしまっていた。
グレイハウンドで12:45発の便に乗りNYを出ると、バスは高速に乗り、またたく間にマンハッタンを離れてしまった。そして、高速や国道から見えるアメリカの田舎の風景や地方都市の少しづつ変わってゆく景観などを楽しむ。しかし、なんとなく昔よく乗っていた東京~博多間の長距離バスにも似た位相があることに気付く。映画の見すぎで首都を離れるとそこには見渡す限りのオレンジ色の荒野が広がっているのかと思っていたら意外にも日本の長距離バスから見る景色に雰囲気が似ている。高速や国道から見える景色というのは多分どこへ行ってもこんなものなのだろう。フィラデルフィアでの1時間の休憩時に、丁度中華街の真ん中がバスステーションだったのでそこで写真を2枚撮ってコンビニで$1.99の大きなオレンジジュースを買う。再出発してから再び日記を書き進めるうちに外は早くも夜の景色に変わってしまっていた。

Harrisburg停車。さっきまでPhiladelphiaで乗車した満席の客の半分位が降りる。セントルイスまですし詰めの状態が続けば(自分はバックパックを席に持ち込んでいたので結構変な格好ですわっていた)エコノミー症候群が心配になったが、これなら大丈夫そうだった。隣に座っていた優しそうな黒人青年も、一言二言しか喋らない変な日本人の横の席から解放されて、そそくさと斜め前の空いた席に移った。NYから乗っている同年代らしきアルゼンチンの男性は僕と同様L.Aまで行くそうだ。赤い服にナイキの青い帽子を被った彼とはお互い英語がうまく話せない同士で、お互いとなりのスペースが空いて通路を挟んだ向こうとこちらの窓際からお互い久しぶりに目が合って、お互い言葉を交わさないながらもニコッ!と笑い合った。
Pittsburgh停車。大きな待合所で1時間の休憩。バスから乗客全員が降りなくてはならない。何でなのか英語が聞き取れなくてよくわからなかったがPittsburghの前にどこかのバーガーキングのある小さな停留所で新しく乗りこんで隣に座ったメキシカンの男性が大丈夫と言ってくれたので大丈夫みたいだ。ここの待合所の中は周りの壁づたいに自販機その他を設置して、(※ほとんどしきりのない)部屋の中央には何も置いていない。その場所に約100人以上の人が立ったり座ったり寝転んだりしてたむろっていて、何だか震災時の緊急避難所みたいだ。Columbus停車。Pittsburghから寒い夜の雪景色が続く。バスの中で少し眠れたので少し気分が良くなる。バスステーションのレストランには列が出来ている。アメリカ人は並ばないなんてホラを吹いていた日本人はどいつだ。NYのスーパーで買った安い食パンももう少しでなくなる。
Indianapoliceに停車。バスの中でよく眠れた。空調がしっかりしているおかげか、日本の長距離バスよりも快適に感じる。起きた時は既に水平線の向こうにオレンジの太陽が昇り始めていた。バスステーションでは敷地の周りを歩いて写真を何枚か撮る。食パンを入れていたビニール袋の中にソーセージを1本発見し(自分で入れたのだが)それと一緒にパンの残りも平らげる。

New York→New Ark→?→Cambel Place→Philadelphia→Somewhere Burger King in I.C→Harrisburg→Pittsburgh→Columbus→Indianapolice→Effingham


19.Dec.2005(Mon)

もうすぐSt.Loiseだろうか。雪の姿は日陰にとり残されたなごり雪しか見えない。枯草の広がる農園が地平線まで続き、地平線の向こうに落葉した広葉樹がとり囲む。電線を張ったでくのぼうのような電柱の列が視界に現れては消えて行く。アメリカの風景だ。雲ひとつない青空のななめ45°あたりに昇る太陽の日射しがバスの窓から射し込んできて少し暑い。僕の隣にはPittsburghから乗り込んだ18才位の少年がCDウォークマンでラップミュージックを聴いている。赤い大きめの服に、股下の深いダボダボのジーンズ。細い流線型のサングラスをかけて、通路側の肘掛けに肩肘をついて目を閉じている。ヘッドッフォンからもれ聴こえる大音量のブラックミュージックが今の僕のBGMだ。このバスのクラクションは少しいかれているらしい。時々5分位ずっと鳴りっぱなしになって、運転手は仕方なく炉辺にバスを停めてクラクションが鳴り止むのを待っている。後から乗り込んだ乗客は意味がわからず「Crazy driver!」とか叫んでいたが「勝手に鳴っちゃうんだよ。俺は押してない」という言葉を聞き、あきれたような声を出していた。隣の少年はその長いクラクションが鳴り始めた時から少し苦い顔をして(※バッグからCDプレーヤーを取り出して)音楽を聴くことにしていた。

EffinghamからSt.Louiseに移動する途中ソーニャという女の子が前の席から身を乗り出して話しかけてきた。「こんにちは」と日本語で話してきたので驚いた顔をすると「私は関西大学で2年間勉強しました(※留学していたということらしい)」と言った。彼女はそれから僕の英語力に合わせながら「どこに行くの?」とか「何の仕事をしているの?」とか矢継ぎ早に質問する。何故か目が合う度にニコリと笑う。それも僕だけに。何か日本で覚えた処世術の様なのだがなんだかぎこちない。でも19歳の女の子が暗中模索した日本人とのコミュニケーション術なのかと思うと、すこし可愛いく思えてくる。St Louiseでバスの乗り換えをして席も入れ変わる。今度隣りに座ったのはインドネシアの男性。34歳で僕とは2才違いだがアメリカの大学で経営学やグローバルコミュニケーションを勉強し卒業したという。教授のような喋り方をする、とソーニャが言っている、と彼が言っていたのでそうなのだろう。(※僕にはどんな喋り方かとか、そこまでわからなかった)大学は神学系の学校なのだろうか。(と言っていた気がする)僕に神を信じることの大切さを説いて、バイブルをくれようとした。僕に君は神を信じないの?と聞いた時、僕が彼を傷つけたくない為に答えを「ムニュムニュ」と言ってごまかしていると、日本の自殺者の増加傾向の原因を彼はたずねた。僕は、彼がそれを日本人の信仰心の薄さと結びつけたがっていたのは推察できたが、僕は60年代~80年代の経済成長期の団塊世代のハードワークと彼らの退職後の家族との冷えた関係からくる孤独感がそうさせるのではないかということを、ものすごく拙い英語で話した。(※でも後で、ネットを介した若い人たちの集団自殺についても聞かれて返答に窮してしまった)すると、ソーニャが少し憂鬱な顔をして話した。ソーニャの父親は高齢で(※ソーニャの種を宿した後に亡くなった画家。彼は自分の)死の前に家に誰も寄せつけずにひとりで病死したようだ。彼女はそれはある意味自殺なのじゃないかと言っていたが、ポールが(このインドネシア男性のミドルネーム…彼にファーストネームを聞いたのだが、その時書きとめなかった為に失念してしまった)それは自分で選択した自然死なのだと彼女になぐさめるように言っていた。ソーニャはロシアン、アイリッシュ、ジャーマニー、その他様々10以上の人種の混血だという。今通っている大学ではアジア政治学を習っている。旅行が好きで日本滞在時には日本各地を旅したしヨーロッパの様々な国も旅行した。来年はオーストラリアに長期滞在をするという。彼女の父親は何百点ものコレクションを残した。作品を載せたHPアドレスを教えてもらったので僕はそれを帰国して見ようと思う。(※「cooldaddio.net」で当時は閲覧できたが現在はない)バスの中で色々話せて楽しかった。とは言ってもその話の半分も僕は理解できなかったが…。2人とも向学心が旺盛で政治の話、経済の話、宗教の話などをグローバルな視点から話していたみたいだ。2人とKansas Cityのバスターミナルで別れる時、それぞれの写真を撮らせてもらう。多分フラッシュをかけずに結構シャッタースピードを遅くしてしまったので、かなりブレブレの写真になっているかもしれない。ポールとは少し時間があったので2人でカップラーメンをターミナルの売店で買って食べた。彼がお祈りをさせてくれと言ったので僕は彼の言うまま手を合わせて目を閉じて立っていた。(※ターミナルでバスを待つ長い行列の中で)彼は色々長いこと喋って、僕をほめる様なことを言って幸運を祈ったりしてくれた。僕はクリスチャンでもないので大勢の人の中、少しだけ人目を気にしてしまったが要は気持ちだと思うのでその気持ちに感謝した。
この2人との出会いは、このバスの旅の1つの収穫だったと思う。

St.Louise→Columbia→Kansas City→Salina→Colby→Denver


20.Dec.2005(Tue)

Denverまでは夜の道行きで隣にはケンタッキー出身の50代以上の白髪の男性が座っていた。黒の本革のウェスタンハットにジャケット、ウェスタンブーツというどこから見ても西部か南部あたりの人で(※何か大きく勘違いをしていたらしいケンタッキーは中東部だった。カーボーイハットを被っていれば西部の人と考えるのはおのぼりさん特有の偏見なのかもしれない)口数少なく、最初に自己紹介めいたものをした以外にはほとんど話はしなかった。日本ではあまり見たことのないタイプの男臭さを感じさせる。、隣に座っていながらお互いあまり干渉せず、迷惑もかけない範囲で自分の好きなことをしているという、とても落ち着いた道行きだった。
Kansas Cityからは再び雪景色が広がり、遠く迄続くなだらかな起伏の上に降る雪が時々街灯に照らされては消え、その風景を窓から眺めながらうつらうつらして気がつくと眠っていた。ふと車の振動で起こされ再び風景を眺めながら眠り、を何度か繰り返すうちに朝が近づき、2度目の乗り換えのDenverに着いた。次の出発予定時間を30分以上も過ぎ2時間以上待つとやっと次のLos Angels行きのバスが到着した。バスがロッキー山脈にさしかかると雪で覆われた高い山々に囲まれながら曲がりくねる道を行く、雪の姿がなくなるとオレンジ色のいびつな形にけずられたstateな渓谷が容姿を現した。

隣のおばさんが「looks like state」と僕に言った時何のことかよくわからなかったが慌てて電子辞書を調べてみると、この言葉には「州」という意味の他にも「アメリカ合衆国国民が自国を指すときに使う言葉」「威厳、威儀、堂々とした様子」など様々な意味合いがその言葉に含まれていることを知る。そういえばNYで自由の女神を見に行く為に走る地下鉄の中で黒人のおばさんに「Liberty islandに行くにはどうしたらいいんですか?」とたずねた時も「あんたState of Libertyに行くの?」とStateという言葉にアクセントをおいて、少し感慨を込めた感じで僕に聞き返したのを思い出した。渓谷の景観に感動したのはいいのだが「美しい」という言葉はこの岩山にはどうも不適当なものに思えて(※言いあぐねていた)所、このおばさんが教えてくれた丁度いい言葉が「State」だった。(※この時"Statue" of Liberty「自由の"女神像"」と言われたのを完全にState of Libertyと言われたと勘違いしていた「looks like state」に関しては、はっきりそう聞こえたんだけど違う気が…)
ロッキー山脈を越えるとあとはアメリカ以外の何物でもないような荒野が広がるその中にまっすぐに続く道をただただ走って行く。Green Riverでは(僕とおばさんの座ってたシートが壊れていたので)シートを後ろの方に移る。真ん中の通路をはさんだ左斜め前のシートに座っていたアーミージャケットの米兵青年と、僕の前の席シートに座っている黒人とスパニッシュのどちらとも言えないような顔つきの背の高い男が銃のカタログを手にあれがいいこれがいいと話のやりとりをしていた。どちらも色々な戦火をくぐり抜けた者同士の気のおけない話をしている。米兵青年が開いていた兵士用の新聞(なのかな?)には様々な兵士用の武器とその値段を書いた広告が載せられていた。気に入った武器なんかは自分で買わないといけないのだろうか。自分の命の値段を照らし合わせながら、どの武器を買おうかと広告に見入る兵士の姿に現実の厳しさを知る。彼らは本当に明るい声で戦争の話をしていた。最初は「いい気なもんだよ…」と内心思いながら話を聞いていたが、実際の彼らには死と引き換えの仕事をしているという現実があることを知る。テキサスに入り、Green River(※?場所を勘違いしてるかもしれません)の小さなバスターミナルを兼ねた、ガソリンスタンド兼コンビニスーパーのような(※言い方は悪いがとても辺鄙な)場所に入るとそこには青年兵士の両親とワイフ、それに姉か妹(それともワイフの友達だろうか)がハンディビデオカメラを回して、4人で待ち受けていた。バスのシートから家族を見つけた青年は本当に優しい笑みをこぼし、その笑う目尻にそれまで気付かなかった深い深いしわを浮かべて見せた。彼はバスを降りると妻としっかりと抱き合い、もう1人の女性はカメラをうれしそうな顔で回し続けていた。その小さなバスステーションは荒野の中にポツンと建ち、故郷に帰ってきた彼を、家族とともに温かく迎え入れているみたいだった。

Grand Junction→Green River→Parawan


20.Dec.2005(Tue)

Parowanで休憩をとって、¢99のドリトスを買った。バスがラスベガスへ向けて走っているとハプニングが起きた。突然後輪のタイヤの1つがパンクして走るうちにどんどん右に傾いて、それでもドライバーは走り続けたが、とうとう危ないと判断したのか手近にあったファミレスの駐車場に停車した。タイヤがパンクして大きく傾いたまま尚も走り続けようとするドライバーに乗客のみんながヤジを飛ばしながら爆笑していた。停車するとスパニッシュらしいさっきの背の高い普段着の兵士の男が何か言ってバスの外へ出たので他の人達も出て僕も出た。もちろんパンクしたタイヤの修理をするものだと思ったのだがみんな口々に文句を言って見ているだけで何もしようとしない。ドライバーもしきりに携帯で会社に電話を掛けるだけで修理のことはミジンも頭に浮かばないようだ。道具やスペアタイヤを常備していないのだろうか。みんなでお手上げをしている。20分位みんなでウロウロした揚げ句、とうとう会社から新しく送られてくるバスに乗ることになったようだ。何だか早く行きたい組の人とゆっくり待つ人との組に分かれているみたいだ。今、わかるのはここまで、これからどうなるのかよく分からない。
結局、2.3時間後に別のバスが到着した。一行はそれに乗ってラスベガスへ。パンクした前のドライバーは皆から非難ごうごうで、そのドライバーが僕の前でバスに乗り込もうとしたとき僕の後ろに並んでいたやせた女性が「あんたがまた、運転するつもりじゃないでしょうね。冗談じゃない。このバスに乗ってきたドライバーに運転させなさいよ。あんたのせいでみんな迷惑かかったんだから」と、ハッキリ言う。「わあ、やっぱりアメリカだあ」と内心恐々としながら乗り込むと、今度はそのドライバーがどこのシートに座るか(正直かなり肥満の女性だった)でモメて皆にたらい回しに…。こうなるとかなり可哀そうな感じなのだがみんなゲラゲラ笑って野次を飛ばしていた。ひえー恐ろしやアメリカ…。
ラスベガスに着くと1時間あったはずの休憩が20分位になってしまい、ここでも皆でブーをたれる。ま、これは仕方ないか。皆ものすごく楽しみにしてたもんなあ、べガス。そして、べガスのステーションに足止めされたまま再出発。ドライバーも皆の意見が反映されてか、べガス迄運んで来てくれた人に交替。パンクドライバーが所在なさげに新しいドライバーに「私も一緒に行くから…」と言うと「Get out!!」とキツイ一言を。やはりここはアメリカだ。そしてLos Angelesへと向けて出発。途中、荒地の広がる平地の向こうから徐々に赤い太陽が昇ってきて夜が明け始める。ロスに近くなるにつれ、テキサスで見た荒野とは違う、白い砂まじりの土の上にポツポツと40~50cm位の草木の生える準乾燥地帯風の荒野に変わり、周りにもなだらかな丘陵のような形をしたハゲ山が見えてくる。Berstowではマクドナルドなどのファーストフード店がいくつも集まった所に停まり休憩。半分位の人がマクドで何か朝食を買って、朝陽に映える赤いキレイなウロコ雲を見たりしながら西海岸らしい景色の中で15分ばかりの休憩を楽しむ。

Las Vegas→RS Berstow P


22.Dec.2005(Tue)

昨日は色々とありすぎてちゃんと書こうと考えるとげんなりしてしまう。とりあえず箇条書きで書いてみる。

1.BerstowからL.Aに向かうバスの途中、またもやタイヤがパンクして、妻と2人の兄妹とバスに乗っていたスパニッシュの男性がバスの中で突然暴れだして「俺はもうこのバスを降りる!」と言って窓を殴り出して高速に飛び出そうとしたこと。
(※新しい女性の運転手にも飛びかかろうとして僕が慌てて(妻子が同乗していることを知っていたので)止めに入ったのだが、結局その運転手がハイウェイパトロールを呼び、彼は手錠をかけられパトカーに乗せられてロスの警察に連れて行かれてしまった。しかし、運転手の女性も彼の妻子が同乗していると知り気がとがめたのか彼をあまり深く追求せずこれまでのパンクのトラブルなどを説明して、軽い事情聴取ぐらいで済ましてくれるような雰囲気になった)

2.ロスに着き、グレイハウンドのステーションからビルの見える市街まで歩く。重いバックパックの荷物と厚着でロスの熱い日射しの中を歩き、3日間風呂に入っていないのと、ちょっとした眠気で「まいったな~」という感じの中、泊まる場所を探す。市街地内のGrand Central Marketという食品市場のようなところで「BENTOUYA(弁当屋)」という店の看板を見て、値段も手頃だったのでそこでテリ焼き弁当を買うことにする。その店に日系の人がいたので英語で「日本語話せますか?」と聞くと流暢な日本語を笑顔で話すとてもいい人だったので、ホッとして日本語で安宿の場所を聞くと日本人街の交番(本当の警察ではない。日本人街(※リトルトーキョー)の案内所的な役割や安全目付役的な役割を自治的に果たしてくれているとても親切な場所)をとても懇切丁寧に教えてくれ、お弁当にコークのおまけまでつけてくれる。バスステーションから市街地まで歩いて来る途中、辺鄙な通りの辺鄙なスーパーでジュースを買おうとしたら値表示に書いていたにも関わらずそれより高い値段をふっかけてられたので(※もちろん買わなかったが)少しブルーな気分だったのが、彼のおかげで舞台の幕が変わるようにL.Aに対する印象がガラリと変わる。それからその交番で教えてもらった、そこから100m先の大丸ホテルという安宿で2泊することに決定する。

3.そこでシャワーを浴びてから再び交番に行って(※簡単な観光案内もしてくれる)教えてもらったレドンドビーチにバスで行く。黒人のドライバーのおっちゃんに運賃を聞いて「$20札しかない」と言うと、「俺には日本人の友達がいるからいいよ」と言って$1にしてくれる。バスはどこで降りればいいのかよくわからないので、不安になって白人男性に「レドンドビーチはどこで降りればいいか」と路線図を開いて聞くと「ここだよ、ここ」と素気なく言う。信じ切って降りたところ、レドンドビーチはまだまだ先の全然違う場所に降りてしまっていた。そこは電車の高架線駅下のバスステーションで、そこで困って道をたずねたおばあちゃんが人なつこい日本人のおばあちゃんでとても親切にしてくれる。おばあちゃんは高架下でお菓子や飲み物の露店をしている。そして僕が道をたずねると「ちょっと待って、ヒロが詳しいから」と言い、ミニバンから仕入れものを運んで来た息子を呼ぶ。ヒロと呼ばれるその人は、30代前後の気持ちのいい青年といった感じで事の顛末を話すと驚いて「レドンドビーチ?まだずっと先だよ。歩くには遠すぎるからバスにまた乗って行った方がいいよ」と教えてくれる。そしてL.Aのバスのことを何も知らない僕に$3の1日フリーパスの使い方を教えてくれ、恐らくそれ以上するだろうお菓子と飲み物をたった$2で売ってくれた。(※$20の両替代わりにやってくれた)そしてそれから30分近く待たないといけないレドンドビーチ行きのバスを待つ間、ずっと僕の話し相手をしてくれる。今迄描いた日記とドローイングを見せる。今日、グレイハウンドでNYから来たばかりだという話をする。「君の本が出たらここで売ってあげるよ」と言ってくれた。

4.レドンドビーチから帰りのバスを乗り間違え、とんでもない方向へ行ってしまう。間違えたことをデンゼル・ワシントンのような精悍な顔立ちのカッコイイ黒人ドライバーの人に伝えると、テキパキとハンドルを切ってバスを遠回りさせて(※乗客が少なかった)次のバスが来る停留所まで運んでくれ「いいか、get off and get onだ」とバスの乗り方を教えてくれる。しかし、次のバスの運転手に確かめるとLittle Tokyoには行かないことが判明し、困った顔をしていると24歳のTonyという黒人青年が(※彼のまだあどけないような顔が印象に残っている)「俺がその近くに住んでいるからそこまで送ってあげるよ」と言ってとても複雑なバス、電車、バスの乗り換えをして送ってくれる。あのカッコいいバスの運転手にしても、この青年にしても僕が「英語うまくしゃべれないんです」と言うと、とても分かり易い言葉を選んで話してくれる。何故だかここの人達は人の世話を焼いたら事が済むまでキッチリと面倒を見てくれる。なんだか(※南西寄りの土地柄と関係があるのか)僕が学生時代に住んでいた福岡の人たちを想起させるような温かい人たちが多いのかもしれない。Tonyとはバスや電車の中で恋人、家族のこと、宗教のこと(その青年の宗教観は僕と少し似ていた。自分は少しそれに距離を置いてはいるが、色んな宗教のあり方を別に否定はしないという)僕の行ったことのあるNYやイスラエルの話、今つけている日記の話などをした。そして彼は、自分はまだ1度もロスから出たことがないと言った。しかし僕が、家族を守る為に働いているのだから君の方が僕よりずっと偉いと言うと、彼は少し納得してくれたみたいだった。なんだか申し訳なくなって別れる少し前にお礼にお金を渡そうとすると、彼は「そんなのいいんだよ、金はたくさんあるんだ」と財布を開いて見せて丁重に断った。僕は彼のプライドを傷つけたような気になるが彼はいっこうに気にしない様子で、バスに乗り合わせた顔なじみが「くれるって言うんだから貰っちまえよ」と言うのを早口で言い返して一向に介さない様子だった。
そんなことを話しながらバスがLittle Tokyoまで近づくと、彼はその手前のダウンタウンで別れ際に僕と握手をして彼の顔見知りと降りて行った。「ここに俺の家があるから」と言っていたが、もしかすると本当ではないような気もする。そうして僕は夜の10時過ぎにLittle Tokyoのダイマルホテルに帰りつくことができた。

→Los Angeles

23.Dec.2005(Fri)

昨日は、朝、ダイマルホテルの管理をしている中国系のおばちゃんに教えてもらった中華街の「新新」という店で朝飯を食べる。メニューがなく、色々な惣菜とか点心とかニワトリの丸焼きが置いてある。頼み方がわからないので「頼み方がわからない」と言って指で指して頼む。その後中華街からBroadwayを真直ぐ歩いてLittle Tokyo近くまで帰ろうとしたが途中でMOCA(L.Aの現代美術館)に寄り、大分時間を費やした。とは言ってもNYのMOMAと比べると規模が小さいので、若手の作家の企画展、アメリカンコミックの巨匠と呼ばれる人らの原画やオブジェを集めた展示、それに現代美術作家の常設展、と大きく3つの展示エリアのみで構成されている。若い2人組のコリア娘のミニスカートから出るムチムチした足に目を奪われ「イカン、イカン…」と首を振りながら少しNYのメトでした切ないデートのことを思い出す。時間をかけて見ても数時間で見ることが出来るくらいキッチリ、コンパクトにまとめてある。それでいながら、若い作家の「今」を感じる作品や、今まで知らなかったアメコミ作家のアート指向の高い作品などに新鮮な刺激を受ける。
その後MOCAの近くのBENTOYAでトンカツ弁当を食べる。ウマイ。特に肉がうまい。L.Aのなつかしい日本の味に少しホッとする。そしてまたコークをサービスで付けてもらってしまう。「これではいつまでも恩返しができない」と思いつつ、L.Aで会った日本の人情に再び心をやられる。そしてダイマルに帰る。ダイマルに帰るとおばちゃんが、2階への階段を上がったところにある受付前の小さなラウンジで5.6人の中国系の人と楽しそうに歓談している。おばちゃんは僕をちらっと見て「あら、ずいぶんかかったのね…」と道に迷いでもしたのかと心配した様子で日本語で言う。僕は「ああ、いえ…」と、生返事をしながら、おばちゃんの杉村春子(※小津映画に出演していた女優)の様な少し古風なもの言いに少し感動しながら部屋へと帰る。少し経ってから再び小さなラウンジに行くと20代日本人の青年と一組のカップルが話していた。青年はこっちで働いていてカップルは観光旅行だそう。ちょっとした自己紹介をして話に加わり「何してんの?」とか「どんな感じ?」とかをお互い少しずつ話す。それからラウンジの本棚の「地球のあるき方 アメリカ」を調べて今後のサンフランシスコ行きの計画を大まかに決める。その後、このホテルのすぐ裏手の方にあるMOCA Geffen Contemporary館を観に行く。木曜5時以降が無料なので、それまで入口正面にあったテーブルで少し日記を書きつつ時間を待つ。ここは、大きな倉庫を分割したような構造の建物で、入口からは、後ろに隠れた幾つかの部屋を除く大抵の部屋が見渡せた。「Extacy」という何とも妖し気な色気を持った作品を集めた企画で、いくつかの作品はドラッグをテーマにしていた。こちらのMOCA Geffen館の展示は前述のMOCAよりも更に若々しい斬新な作品もあり、前衛的な感じがした。色々な個性的な作品が混在しているにも関わらず、それでも最後にはキチッとまとまっている感じが清々しい展示で、胃にもたれない後味の良い印象が残った。そうして会場を出たあとは7時を回っていて、外は夜になっていた。
その後ダイマルのラウンジで、今度はこっちで6年寿司屋で働いている人と多少右翼思考の強い少し年配の人と会い、寿司屋のアライさんの部屋でイラク戦争とアメリカ経済との関係を鋭く突いたサンダンス映画祭金賞をとった映画のビデオを見ながら熱い議論を交わす。途中でこっちでバイトしている20代の女の子と俳優志望の30代の離婚経験のある男性も加わり、この2人が持ってきたブラックレインのビデオを見ながら映画の話やなんか、さっきとは打って変わって色気のある楽しい話を、酒を飲みつつ、少しのガンジャ?を試しに吸いつつ盛り上がってみんな眠くなった頃に散開した。その後部屋で日記を書こうとしたが酒と悪いタバコの影響か、何だか少しフワフワした感じと少し頭の重い感じで何もできなかったのでそのまま寝ることにした。翌日、誰もいないラウンジ受付にカギを置いてチェックアウトしてから、グレイハウンドバスに乗りにダウンタウンから少し離れたAmariroのバスステーションまで、散々迷った揚げ句に到着した。しかしながらサンフランシスコ行きのバスが夜の10:00便しかないというので再びダウンタウンにバスで戻りそこから電車でハリウッドに行って思う存分観光してから10:00前に再びバスターミナルに戻ってサンフランシスコへと発った。


24.Dec.2005(Sat)

PM10:00~AM5:00まで約7時間のバス旅を何事もなく終えサンフランシスコに着くと外はまだ夜の闇に包まれていた。とりあえずバスステーションの外へ出てホテルで調べておいた安ホステルを探す。まず高いビルの見える方角へと歩く。そうすれば大抵繁華街のようなものがそこにあるからだ。しかしそこに着いてみるとそれ程大きい街のようではないらしく、24時間営業の店もほんのわずかで少し期待はずれに。サンフランシスコって田舎町なの?と首を傾げる。(※あとで勘違いをしていたことがわかるのだが)とりあえず開いていたスナック菓子などを売っている店(小さな本屋に思いつきで日用品や食品を置いたような感じの店)で日清のカップヌードルと期限切れで安くなったクッキーを買い、それを食べながらホステルの住所を探して歩く。まず最初にダイマルホテルで一昨日話した女の子に教えてもらった$17のホステルを探して5.stを歩いて行くが、どんどんさびれた感じになってしまって、とうとう突き当たりのJack London Squareにまで来てしまう。そこはボートやフェリーの船着き場となっていて、その海際の丁度手すりの途切れた船の着岸場所に、誠実そうな表情のJack Londonの等身大のブロンズ像が、激しく演説する時のような動きのあるポーズで建てられていた。しばらくその像を見ながら「誰だっけ?」と思案しつつ、船着き場の周りにあった幾つかのヒントから(狼の絵の入った解説プレートあったりした)「白い牙」の作者ではなかったかと推測する。しかし、それがわかったところでホステル探しには何も関係がないので諦めて、もと来た道を戻ることにした。そして、ここまでの予定がグレイハウンドバスの遅い出発便のせいで7時間以上も遅くなってしまったことで、夜を越えて翌日(今日)到着してしまったのでここサンフランシスコでの予定がかなりキビシくなってしまったことを取り返すべくNY行きの帰りのバスチケットの出発場所をここSF(サンフランシスコ)に変更し、あわよくばSFからL.Aまでの戻りのチケットの予約をキャンセルしてもらおうとチケット売場に行ってみるが、にべもなく断られる。まあ往復割引のチケットだから想像はついたけれど、クリスマス効果で何とかなるかという甘い算段だった。(※しかし今、ネットでグレイハウンドバスを調べて、アメリパスという安いフリーパスがあることを知る…トホホ)それでも、赤いサンタ帽を被ったその受付の(ふくよかなアフリカンアメリカンの)お姉さんは残念ね~。という顔をしながら「これはL.AかNYじゃなきゃ変えられないの。と少し柔らかい口調で教えてくれた。これはサンタ帽を意識したお姉さんのクリスマス効果かも。普段はもっとぶっきらぼうな言い方をしていると思う。そして、仕方がないので服など、あまり高価でないものだけを入れたバックパックを翌日までバスステーションで預かってもらう事にした。この際、野宿して明日の朝まで観光してやろうという腹づもりだ。(※翌朝には再びグレイハウンドでL.Aに帰らねばならない)そうしてから地下鉄駅前の市役所広場で市役所が開くAM8:30まで待ってSFの無料地図の様なものを探そうと思ったが、ふと地下鉄構内に降りてみると、ストリートの名前が書いてある5.6ページ分の地下鉄路線図を見つける。NYにもこういう地図がメトロなどに置いてあったが、L.Aではなかなか見つからず、結局$5以上もする観光用地図をリトルトーキョーの紀伊国屋で買うハメになってしまったので、(※あとになって見つけたバスの路線図が、L.Aでは意外と役に立った)あまり期待していなかっただけに大きく胸をなでおろした。これでどこに行くかのメドが立った。そして(※もとよりあまり観光地をまわる気はなかったので)あてずっぽうで行く場所を決めて、その駅に降りてあたりを歩いてみることにした。まだ朝なのでこれから回っても色々見て回れるような気がする。SFのBURTという地下鉄ははNYやL.Aよりも少し割高に感じた。何か1時間半の間だけ$3くらいで自由に乗れるパスもあったが、それは今回のsightseeingのやり方に沿っていないようなので(時間が短すぎる)一番安い料金カードを買って降りたい所で降りて、その際清算して駅を出ることにした。まず降りたのがRichmond駅。駅の周りには土地を思う存分使っている感じの低層住宅が広がっている。スパニッシュや白人もいるがどちらかというとアフリカンアメリカンが多いようだ。

(※以下26日まで時間と体力的な都合で書いていない。よって今から思い出して少し書き足してみる。)
芝のある庭や空き地などNYとは違ってスペースに余裕のあるいかにも西海岸らしい低層住宅地を歩いてゆく。クリスマスイブだからだろうか。公園では説教のようなラップ、もしくはラップのような説教をマイク片手にパフォーマンスしているアフリカンアメリカンがいた。東洋人はここら辺では珍しいのか僕が通りかかると「ブッダはなんとかかんとか!」と、言っていたが僕には残念ながらわからない。悪口ではなさそうだった。そのまま通り過ぎて歩いて行くと、真横に走っている広い車道に突き当たる。その向こう側は貨物車両の線路が車道に平行に並んでいて金網で柵をしてあるので通り抜けはできない。仕方ないので左の方角に歩を進めることにする。

多分そこの近くに海があるはずなのだが、道の両側に広い工場とさっきの線路の敷地があるのだがどこにも見つけることができなかった。海沿いに歩けばそのうちどこかの駅に続く道が見つかるだろうと思っていたが海が見えないのでどんな所を歩いているのかよくわからないままその車道わきの道をてくてく歩いて行く。するとその道は左へカーブして、そのまま歩いて行くとなにやら広大な整備途中の工場の敷地内へと続いてそこで道が途切れてしまった。

仕方なく、丁度向こうから歩いてきた泥で顔を真っ黒にした白人の作業員の人に「この近くにBURTの駅はないですか?」と聞いたところ、一番近くの駅はここをズーッと回ったかなり遠くににある駅だ。と言って、僕が今歩いてきた方向を指差して教えてくれる。「かなり遠いよ」と言う言葉に「今その道を歩いてきたんだけどなあ」と心の中でぼやきながら仕方なくRichmond駅に引き返すことに決めた。しかし、そのまま引き返すのも味気ないのでテキトーな感じで来た時のコースを変えてみる。途中ヨットハーバーを見かけたが柵で囲まれた敷地内にあって海はほとんど見れなかった。あの車道に入ってから道を歩いている人は見かけない。こんなところを散歩する人など1人もいないのだろう。ここら辺の道で人の姿を見たのは1軒のガソリンスタンドで働いていた2.3人の従業員と、この道をハイペースで僕の後ろから駆け抜けて行ったジョギング中の1人の若い男性だけだった。乗用車がフイに後ろから「ポン!」とクラクションを鳴らして追い越す。窓から手を出して親指を立てて「頑張りな!」という感じのジェスチャーをしたので、僕もあわてて笑いながら親指を立てて「ありがと」と、心の中でつぶやいた。もし今誰かに「お前、こんなところで何してるんだ?」と、たずねられたならば僕は迷わずsightseeingと答えるだろう。その人は笑うかもしれない。でも、僕が本当に見たかったのは、誰も見向きもしないようなこんな景色だったのかもしれない。

その道の先はすこし上にせり上がって半分陸橋のようになっている。陸橋の下には溝のように掘り抜かれた高速道路が通っていてそこだけ時間が違うようにビュンビュンと何台もの車が走っていた。その陸橋を越えて少し先に見える信号のある十字路の交差点に着くと、来るとき通った駅近くの住宅よりもあまりお金のかかっていなさそうな低層住宅地が左側に見えた。左に折れようとしてフト道路の向こう側に目をやると草野球用の小さな野球グラウンドがあって、その芝の上に20羽くらいのガチョウ(?)が戯れているのを見つける。「これ飼ってるの?」と?マークのまま誰もいないそのグラウンドに入り何とはなしに写真を撮る。

そうしてグラウンドを出た所の歩道から再び左のコースをまっすぐに歩き始める。時おり見かける人はみんなアフリカンアメリカンで、たった今友達と別れた自転車に乗った少年が向こう側の歩道からこっち側に寄ってきて少し物珍しそうな話しかけたそうな顔をして僕をチラリと見てそのまま通り過ぎて行く。方向音痴ではないので方角としてはこっちで合っていると思いながらもなかなか駅らしき標識も(ないのかもしれないが)見当たらないので、向こうから来た5.60代くらい白髪まじりのの渋いおじさんに駅をたずねる。おじさんは渋い顔つきのまま道を教えてくれる。「Bye」と別れ際に言ってくれたので僕も「Bye」と、とっさに返したが、5.60代の目上のおじさんにByeと言って返すのは日本人的感覚からしてなんだか失礼だったような気がして駅に向かいながら1人モゾモゾと頭をかきながら駅まで歩く。
再びRichmond駅に着いた僕はまた電車に乗り、今度はどこへ行こうかとBURTの路線図を眺める。向かい合わせ式のシートで、僕の前に座った黒人青年がなんか妙な顔をして自分の周りを見回している。「何だろう?」と思いつつしばらく眺めていると、ふと足下から足裏の異臭が鼻を突くことに気がつき、慌てて足をシートの下に引っ込める。ここ何日かのバス移動で履きっぱなしになった靴が蒸れてしまったのと、今日を入れてここ3日間靴下を変えていなかったのを思い出す。NYでは3日くらい同じ靴下を履いていても全然臭わなかったのだが、こっちは暑いのでそれだけ履きっぱなしでしかも歩き回ったりしているとかなり臭ってくる。僕はせめて下着くらいバッグに入れて来るんだったと少し反省する。その男性が僕の足のニオイから解放されて目的の駅に降りた後、僕はまたしばらく路線図とにらめっこをして、Daly City駅で降りることに決める。

電車からDaly Cityを見たときにまず目に入ったのが一面閑静な住宅の建ち並ぶキレイな丘陵だった。駅からはそう遠く離れていないので、そこまで歩いて行くことにする。その丘の住宅地はどの家もお金に余裕のありそうな立派な家ばかり建っており自治もしっかりしているのか、道路を渡ろうとする時は必ず手前で車が停まって渡り切るのを待ってくれた。時おり見かける就学前の子供らも品が良く擦れていない感じで、なんだか小さい時に会った裕福な親戚の子供たちを思い出す。戯れていた姉弟に「Hi!」と声を掛けると、弟はあどけない笑顔で「Hi!」と返し、お姉ちゃんはその無邪気な弟を守る為にせいいっぱい警戒した顔で僕の顔を見つめた。丘の上の方までくると更に傾斜がきつくなり、体勢をくずすと思わずコロコロとアスファルトの上を転がってしまいそうな感じになる。そんな感じで最後には息をハアハア喘がせながら丘の上にまで辿り着く。しかしその向こう側に更に大きな丘(というより山に近い)が見えて来て、ここがそれほど大きい丘ではなかったことにガックリする。その大きな丘の頂上付近はそこだけぽっかりと森林が残されており、そのてっぺんあたりに白く大きな十字架のような建造物が見えた。

丁度その丘のふもとまで真っ直ぐにアスファルトが続いていたので、とりあえずそこまで降りて、ぐるりとこの丘のふもとを回って駅に戻ろう、と考える。とても疲れて、横になってそのままその道をゴロゴロと転がって下まで降りて行きたい気持ちになったが、想像してみるだけにしておとなしくその道を降りて行った。
2つの丘に挟まれたふもとの道路は少し賑やかで喫茶店や飲食店お土産屋のようなところもある。(あとで色々ネットでこの丘のことを調べてみたが全然見当たらなかった。多分ものすごくマイナーな観光地なのかも)
その道路から大きな丘を見上げるとくねくね曲がった道にパステルカラーのおもちゃのような家々が建ち並んでいる。こっちはさっきの住宅地よりも更に裕福そうな家が建っている。さっき見た大きな十字架のオブジェは、最近のミニマルな現代建築か何かだろうか?と首をひねりながらその曲がりくねった道をちょっと登ってみる。なんだかよく見えないなあ、と目をこらしつつ1歩また1歩と歩いて行くといつの間にかふもとの景色が小さくなってしまっていたので「いいや、こうなったら上まで登ってしまえ」と覚悟を決めてその丘を登ることにする。結構上まで登ってきて、もうすぐ頂き近くの森林に辿り着くかな?という所、1軒の家の玄関で椅子に座っていた白いひげをはやしたおじいさんが「Hello」と声をかけてくれる。なんだかサンタクロースのような恰幅のその人を見て「あ、今日はクリスマスイブだったんだ」と思い出しハァハァ肩で息をしながら「Merry Christmas!」と返すと「Merry Christmas」と楽しそうに笑って言ってくれた。1組の老夫婦がバスの停留所で降りてそこから上に登って行く。おじいさんのほうは足もおぼつかなくて上まで登り着くことができるだろうか?と少し心配になる。でも僕がおぶって行くわけにもいかないし多分そこから自分の足で歩いて行きたかったんだろうと自分に納得させて1人スタスタと後ろめたい気持ちで先に歩く。森の近くまで来ると、もうさっきの十字架は木々や家々に隠れて見えなくなってしまった。住宅の間の細い道をくぐって森林の入口にまでやっと辿り着く。そこは軽い散策道のようになっていて、そこから上は自然のまま保護しているようだ。入口は丁度バス停になっている。さっきの老夫婦もここで降りた方が良かったのに。と1人頭の中で余計な心配をしながら森林の中に入る。しかしそこから頂上までは思ったより長い距離ではなかったので難なく上に着くことができた。木々から出るイオン効果か、少し険しい道を気にしなければアスファルトを登るよりも軽い足取でてっぺんまで登ることができた。

何となく予感はしていたのだが、果たしてあの十字架はまぎれもない巨大な十字架だった。10m以上あるだろうか。その白い十字架の下では花束を捧げた年配の白人の女性が頭を垂れてお祈りを続けていた。

十字架の周りにはコの字型に背の高い森林が取り巻いている(それでもその十字架は周りの木々も問題にならない程高くそびえ立っていたが)。コの字型の空いた口の方には森が切り開かれただけの簡素のな展望場所があって、眼下にDaly Cityとその周辺の街並を眺めることが出来た。遠くの海には空気遠近法のように薄くかすんだ1隻の大きな大型タンカーが、ゆっくりゆっくりと港へ向かっていた。そんな景色と大きな十字架を写真に収めてから、感謝の意を込めて十字をきって軽くおじぎをすると僕は森の入口にあるバスの停留所まで戻ることにした。

停留所でバスを待っていると、さっき十字架の下で花を捧げて祈っていた年配の女性が降りて来た。僕は十字架を撮るときその女性も一緒にフレームの中に入れてしまっていたので何か怒られるんじゃないかと思って少し心配になったがそんなことはなかった。「Merry christmas」僕がしらばっくれて言うと「いいクリスマスね。あなたはクリスチャン?」「え?あ、いやクリスチャンではないけど…」僕はふもとまで降りるバスの中でキリスト教徒ではないけれど色んな宗教には敬意を示していると、いうことを話した。その昔キリスト系の幼稚園に通っていて子供の頃は何も考えずに神様がいるものと思っていたことや、下の毛が生えてきて自分でモソモソとナニを弄くり始める頃から自分が汚いものに思えてしまって、宗教のアラを見つけては自分の正当化をしてきたことや、しかしそうやって引いた所から眺めた宗教というものは、そんな下らない正当化の理由を差し引いてみても幾つもの問題点を抱えていることを知ってしまったことなど、まあ、僕の英語力では話せるワケもなく話す気もなかったが、彼女は僕を責めるつもりもなく、muniの安いフリーパスの使い方などを親切に教えてくれたのだった。NYからグレイハウンドバスに乗って来たことを知ると「NYは好き?」と聞くので「うん。僕はNY好きです」と素直に答える。すると彼女は少し戸惑った表情をして(最近の人たちは「NYは嫌いだ」と答えるようにでもしているのだろうか?)「そう、じゃああなたダウンタウンへ行くんでしょ」「あ、丁度今からそこにホステルを探しに行こうと思っていたんです」そうか、ダウンタウンはNYみたいに結構栄えているんだ。と思いつつ(恥ずかしながら自分は、この時までダウンタウンはただ単に下の方の街を指しているんだと思っていて、ダウンタウン=街の中心部だとは知らなかった)彼女にダウンタウンまでの行き方を教えてもらう。バスを降りると彼女は僕に「あっちの駅で待ってるのよ」と指さしで教えてくれる。僕は礼を言って100m位離れたそのバス停に行く。そこのバス停で待っていると彼女が道の向こうのバス停から手を大きく交差させて、それから僕の後ろの方を指さしている。ふと後ろを振り返るとそこにmuniのこぢんまりとした地下鉄駅があって、それに乗ってダウンタウンに行くんだと言っているのだと気付く。ぼくはありがとうの意味を込めて手を振って、ドアに頭をぶつけそうになりつつその駅に入っ行った。
Powell駅で降りてダウンタウンのEllis.stにある比較的安い最もベーシックな感じの信頼性のあるホステルのドミトリーで1泊のチェックインを済ませる。すぐにシャワーを浴びてここ2日間の汗を流してからベッドで小1時間眠って外に出かける。駅に着いた時は夕闇が降り始めていた頃だったが、もうすっかり夜になってクリスマスということもあり、街は夜の賑わいで色々な声が飛び交い、美しい人工的な明かりに彩られていた。Macy'sという有名な高級デパートの中の吹き抜けには大きなクリスマスツリーが飾られていてその横の建物の壁面にもクリスマスリースをイメージしたポップな電飾が1面に飾られていた。その前の大きな広場には公共の広場があてここにはいちだんと大きなクリスマスツリーが立てられており、そこに世界各地から来た観光客などが集まって記念写真を撮ったり、とりあえずそこにたむろってクリスマスの気分を満喫したりしていた。しかし残念なことに途中から小雨がぽつぽつと降り出して来て少し肌寒くなってくる。僕はとりあえず記念なので、とセルフタイマーでツリーの前での記念写真を撮って、それからブラブラと再び街中を歩いていた。ホームレスはこの時期がかき入れ時なのだろう。様々な工夫をこらして「Chage change…」と言ってクォーターをねだっていた。しかし僕は多分同業者かそれに近い存在だと認識されたのだろう。ほとんど言いよってくる人はいなかった。僕はBurger Kingでハンバーガーセットを食べながら日記を少し書いた。そしてホステルに戻って新しいシーツの上、ぐっすりと何時間も眠った。



25.Dec.2005(Sun)

4時頃起きてラウンジで日記を書き始める。朝の9:10にはグレイハウンドバスが出発するので遅れないように朝まで起きていなくてはならない。途中、腹が減ったので外へ出てみるがほとんどの店が閉まっているらしく何も買えずにまたホステルのラウンジに戻る。ラウンジの壁に貼ってある横4m近くある巨大な世界地図の前のテーブルで仕方なく朝まで23日の日記の続きを書くことにする。グレイハウンドでは朝に出発してだいたいPM5時頃に向こうに到着する。そしてそのままそのL.AのバスステーションからNYまでだいたい3日間かけて28日に到着し、その次の朝にはJFKから日本へ帰る予定だ。帰りの航空券は格安のFIXチケットで出発場所も出発時刻も出発日も変えることはできない。だから万が一、半日くらい予定がずれるだけでも日本への帰国が怪しくなってしまうので、慎重にならざるを得なかった。(でもまあ、そんときはそんときでアメリカにいるのも悪くはないかなという気持ちもなきにしもあらずだったが…)
7:00頃にホステルをチェックアウトしてPowell駅に向かう駅前のハンバーガーショップで朝食を摂り地下の駅へと続く駅前広場に階段を下りて行くが駅のシャッターは8:00にならないと開けてもらえないらしく、しょうがなく辺りをウロウロとする。昨日の小雨はまだやんでいなくてちょっと肌寒い。こんなことなら時間ギリギリまでバーガーショップにいれば良かったと考える。しかし8:00に駅が開くとしてだいたい10分くらい電車を待つとする。12th駅からグレイハウンドまで歩いて10分くらいかかったから正味40分以内で12th駅には着かないといけない。電車を乗り間違えたら一巻の終わりだなと思いつつやっと開いた駅で電車を待ってPittsburg行きの電車に乗る。「よし、この電車で大丈夫だな」と何度も路線図を確認して安心してウツラウツラしていたら、駅を2つ分乗り過ぎてしまう。降りたMacArthur駅で12th駅へ戻る電車の発着時刻を見ると8:50発となっている。どうにもならないのだが、電車の中でかなりあせりながら12th駅を降りるともう9:00になっていて、慌ててバスステーションまで走って行く。そしてなんとかぎりぎり9:10前にバスステーションに着くが、よくよく考えてみればいつも毎度のように2.30分遅れて出発するバスのことを思い出して、ああ、バカみたいに走ったりなんかするんじゃなかったと脱力してしまうのだった。そうして無事バスに乗ることが出来、L.Aに着くまで何事もなく(しかし、その間だいたい眠っていて、この間の記憶がほとんど抜け落ちている)到着したのであった。


26.Dec.2005(Mon)

SFからL.Aに戻るとそのままグレイハウンドのカウンターに行ってNY行きのチケットの出発日を変更してもらいに行く。カウンターでは「NYに行くの?14番」と何の手続きもせずにただ並ぶレーンのナンバーを言われただけだったので、ふ~ん、そんなものかという感じで余裕をカマして列に並ばずに座って待っていたら、みるみるうちに列に並ぶ人の数が増えてそのままAmarilloコースのバスに(※定員割れで)乗り損ねてしまった。後ろに並んであぶれていた人が平然と待ち構えていたので前のバスが行っても変わりのバスが来てくれるんだろうくらいに思っていたのが間違いだった。どうやらL.A~NY間をバスで行き来する人はそう多くないようで、旅慣れのせいであまりにも楽観的観測をしすぎていたらしい。チケットチェックをしていたバスの運転手に早口で何か言われ、何を言われているのかわからなかったので、お決まりの「私、英語うまく話せないんですみません」と、言うと「スパニッシュはどこ?誰か通訳して」と言っている。「I'm not Spanish! What? Another bus!?」とこちらから言うと、近場にいた手の空いたグレイハウンドのスタッフを呼んで、僕を引き渡す。僕は何のことだかわからずどぎまぎしながらその人にチケットカウンターまで連れて行かれる。スパニッシュのその人は、また同じくスパニッシュのカウンターのきれいな女の子と談笑しながらチケットの再発行の手続きをしてくれた。(※バスの経由地を変更しなくてはならなくなったから再発行手続きが必要になってしまった)しかし、俺はスパニッシュじゃないのになあ…。最近伸びきったままの髭と髪で、西海岸に来てから少し日焼けした肌に結構濃い顔。それに加えてスパニッシュにも色んな顔の人がいるが、ある種の人たちは僕から見ても日本人と間違えてしまうことがある。そしてキャップを被っている人もなぜだか多いような気がする。所沢のリサイクルショップで買ったstussyのキャップも間違われる要因かもしれない。そんなことから僕は最近スパニッシュにスペイン語で突然話しかけられ、キョトン、としてしまう時が度々ある。英語もまだダメダメなのに、スパニッシュも覚えなきゃならないのかなあ。
そんなこんなでチケット再発行してもらった僕は、良かったこと(来たときと違う景色を楽しめる)悪かったこと(また乗り換えにどぎまぎする)両面を感じながら夜の6:30頃バスに乗ってL.Aを出発したのであった。
バスの乗客の大半はスパニッシュで、その中にポツポツと白人黒人が混じっている。Asianは自分の他にいないようだ。Phoenixで全員いったんバスを降り、(バスの軽い清掃をしているようだ)バスステーション内で再びレーンに並んで、L.Aから乗る前に渡されたReboadingCheckカードのナンバーを運転手に見せて再び同じバスに乗る。夜が明けて、Loadsburgで休憩。マクドナルドで朝食を摂る。バスの中にはテキサスの食肉業者が乗っているようだった。時々Japaneseという言葉が出て来てBullshitとかFuckという言葉が飛び出す。オーストラリアのチキンやアルゼンチン(から日本への肉の輸出の話?)もしている。テキサスの人というのはだいたい汚い口調なんだろうか?(偏見かも)しかし、今の日米間の食肉貿易の状況には相当業を煮やされている様子。やり場のない感じが口調から伝わってくる。彼の隣の聞き上手の年配の黒人のおじいさんは怒気を含む彼の話に、時々穏やかなしわがれ声で相槌を打って彼のヒートアップしそうになる心に別の視点を与え適度に水を差す。食肉関係の彼はただテキサスで代々受け継いで来た大事な土地を守りたいだけなのかもしれない。僕はこういう人は嫌いではない。しかし、余り喋り過ぎたのだろうか。次に停車したどこかの小さな停車場で幾人かの人がバスを降りた時、聞き相手だった年配の人のスパニッシュの奥さんが「こっちへいらっしゃい」と言って、話相手をしていた旦那を、そこから離れた自分の隣の席へと呼び寄せた。旦那の横顔は少しホッとした表情に見えた。やはり相当ひどいことを言っていたのだろうか。英語がわからなくてこの時ばかりは良かったのかもしれないと思う。ElPasoでバスを乗り換え人の構成が少し変わる。途中国境警備の検問所みたいな所でバスが停められる。「ここは国境の近く?」と隣りのスパニッシュのおばさんにたずねるが、英語をあまり理解できないらしく、スペイン語で何か言って首を振る。警備隊の人が2人バスに乗り込んで1人がバスの狭い通路をゆっくりと進みながら1人ずつ身分証を確認してゆく。そして後ろの席にいたスパニッシュの若者が外に連れて行かれる。外で何か指示されながらバスの下部の荷物格納室から自分の荷物を取り出しているその年若い青年を見て、隣のおばさんは信じられない。という顔で窓の外の青年を見つめている。後ろのシートの男性とスペイン語で何か話している。L.Aでどうしたこうした…。多分L.Aのバスステーションでこの青年に親切にしてもらったのだろう。その青年も「何でオレが?」という顔をしていた。

VanHornで休憩の時間。ウェンディーズの横の売店でビーフジャーキーとジュースを$50のTC(トラベラーズチェック)で買う。テキサスの人は恐いという先入観から少しビクビクしてTCが使えるかどうかをたずねたが(客が並んだりしているときなどにTCを差し出すと「マジかよ?」という顔をされて結構いやがられることが多い(※ちなみに僕はcredit=信用がないのでクレジットカードを持っていない))レジの白人のお姉さんは顔色ひとつ変えず「何、当たり前のこと聞いてんのよ」という感じで会計してくれた。(バスの休憩所の売店ではみんなTCが使えるようになっているのだろうか)財布の中にTC以外は現金が残り$1といくつかの小銭しかなかったのでこれで一安心。バスに戻ると僕のシートにはかわいいスパニッシュの男の子が座っていた。何やらさっきまでこの子が座っていたシートの隣に座っていた黒人のおじさんが結構やさぐれた感じで、恐いのでシートを僕に変わってほしいようだ。しかしこのおじさん、どうやら僕が気に入らないらしく、席に座ろうとすると怒り出す。(※僕がL.Aでバスに乗る時に「英語がうまくしゃべれない」と言っていたのを耳にして、それが気に入らなかったようだ)「俺は英語もスペイン語もイタリア語も話せない!俺はギリシャ人だ!」と流暢な英語でわけのわからないことを話す。「じゃあ、俺はここで立ってるの?」と聞くとだんまりを決め込む。仕様がないと判断したのか近くのシートのスパニッシュの女性がさっきの男の子に「こっちへいらっしゃい」と手招きしてさっきまで体の大きい白人の青年が座っていた席に少年を座らせた。僕はさっきのシートに戻り、その体の大きな米国青年が外からバスに戻るとさっきの少年が彼に英語で事情を説明した。米国青年は状況を理解して先程の気難しいおじさんの横に立って、何も言わず横を向いているおじさんの顔をジーッと見つめた。30秒位緊張した時間が続くと、おじさんが根負けして、隣りの席の上に置いていた自分の服をどけてくれたのだった。
この青年はとても優しい人で、隣でときどきむずがっている乳児を抱いている女性に軽く話しかけながら、その乳児の膝やひじなどを軽く指で突っついてはその女の子を笑わせながらあやして、その女の子が彼を信用しきったところで彼女を自分で抱っこして、その間、今まで落ち着いて休むことの出来なかった彼女のお母さんをぐっすりと休ませてあげていた。さっきの気難しいおじさんもそんな彼に打ち解けて、おじさん自身から身の上話を話し始める始末だった。彼を見ていると見ているこっちまで優しい気持ちになてっくるのだった。本当、世の中には色々な人がいてオモシロイ……。
その後LittleSpringで休憩したりする。外の景色は夜に変わり、バスは何故だか遅いスピードでちょこまかと小さい休憩所で停車しながら走っている。どこかの席から漏れ聴こえるヘッドフォンの音楽の音をちとうるさく感じる。

LosAngeles→SanBernardi→Blythe→Phoenix→Landsburg→
ElPaso→VanHorn→LittleSpring→Dallas


27.Dec.2005(Tue)

LittleSpringあたりからドライバーが迷走し始め、ちょこちょことわけのわからない小さな停車場で停車。そして、途中からスペイン語もペラペラのテキサスの人っぽいテキパキとした白人の若い男性ドライバーに変わり、今まで運転していたおっとりした感じのアフリカ系の壮年ドライバーは1番前の客用シートに退散。それからは停車も迷走もすることなく真っ直ぐダラスへと走り到着する。やっぱり道に迷っていたんだろうか。ダラスではバスステーションのインフォメーションが勘違いしたのか、それとも勘違いしたと勘違いしたのか、ともかくメンフィス方面行きの乗客を少し混乱させるインフォメーションを流してしまったようだた。それをさっきの運転手とは真反対な感じの(※また別の)壮年アフリカ系黒人ドライバーが、ひとりひとりのチケットを確認しながら「君はあっちのバス。君はこれに乗って」とテキパキ乗客を行き先別に振り分けてゆく。幸運なことに自分はそのドライバーのバスに乗ることができた。彼は経験豊かなドライバーらしくバスのことに関しては大抵のことを熟知しているといった風情で、自分の仕事にやりがいを持って仕事をして今一番脂が乗って楽しく仕事をしているのが伝わってきた。
Texakanaで菓子パンとバナナとスプライトという多少不健康な朝食を食べる。売店の外でバナナをカジっていると、ダラスでバスの行き先を教えてくれたスパニッシュの青年が「¢50くれないかな」と何気なく言うので「あ、いいよ」と¢50を渡す。自分は頭の回転が鈍いせいか、こういう時に察しがつかない。自販機も見当たらない普通の売店で¢50要り用だということは、もう手持ちの金は$1に満たない小銭しかないということだ。ホームレスでもないメキシコ系のスパニッシュがそういうことを頼むのは、プライドの高い人たちのことだから(偏見かもしれないが)、勇気の要ったことだったんだろうと思う。僕は何でその時気づいてもっとお金を渡さなかったんだろうと考えた。とりあえず目的地に着けば彼も何とかなるだろうと思い、Bentonに着いて彼がバスの外で小銭を見つめて考え事をしているのを見て、彼に用意していた$5紙幣を何も言わずに渡した。彼は「Thank you」と言って受け取ってくれた。しかしそんなことをしてから却って彼を傷つけやしなかっただろうかと考えてみた。しかし、$5って。日本円になおしてみると600円程度だもんな。やっぱ俺ってドケチ。何だかこの歳になって…ふがいない。
テキサスで買った、甥や姪のお土産にするつもりだったビーフジャーキーをほとんど食ってしまう、バスの中で。やっぱダメな叔父さん…。メンフィスで数枚写真を撮る。バスステーション周りのメンフィスでは、僕の想像していたような古き良きアメリカ的な風景を見ることはできなかった。唯一バスステーションの中にあるお土産屋のプレスリーの古い写真の絵葉書だけが、なんとなく自分で勝手に思い描いていたメンフィスの情景に重なった。

バスに再び乗りJacksonTenneseeに近づくとアメリカ南東部の古いちょっとした歴史を感じる家並みが見えてきた。その町でグレイハウンドバスは1938年に建てられた(移築されて来たものらしいが)というバスステーションに停車。10分の停車だったが、思わぬ所でグレイハウンドバスの歴史を垣間見ることが出来てとても良かったと思う。

Nashvill。だんだんとNYにちかづきつつある。今PM6:00だから、予定通りだとあと約2時間で到着する。正直言うと今はNYからL.Aに行くときのワクワクした気持ちは半分もないのかもしれない。大抵のことにおいてそうだが、とりあえず一通り観終わってからの帰りの道行きというものは、経験によって得た安心感と引き換えに未知なるものへの期待感は失われてしまう。それも単なる怠慢だろうか。もちろん全然楽しくないか?といえばそうでもない。人に会って助けたり、助けられたり(圧倒的に後者の場面が多かったが)帰りのチケットが諸事情で再発行されてバスのコースも来た時とだいぶ違う道を来れたのが却ってラッキーで、南部寄りの風景が見れたりした。しかし適当な決まり文句も覚えてしまい、乗り換えの際にもそれほど苦労しなくなった分、人との関係もL.Aに向かっていた時よりも密なものにはならなくなってしまったようだ。そんな事を考えつつ、休憩後、Nashvillでバスに乗り込むと、隣にはカントリーな感じのジーンズの上下、長いウェーブのかかった白髪と白い口髭の老年の男性が座る。話してみると意外に優しい。カントリーミュージシャンのような風情で、こちらから何か質問すると「なになに?」という感じで僕のヘタな英語もなんとか理解しようとしてくれる。スパニッシュの子供や赤ちゃんが消灯後も泣いたり騒いだりしている事を一番後ろのシートの野太い声の男がさかんに大声で抗議しているのを、一言ぼそっと「いいじゃないか、俺は子供の泣き声も騒ぐ声も好きだよ…」と隣で呟いていた。その後その人が一番後ろに設置してあるトイレに行って、再び戻ってくると、野太い男の声も赤ん坊や子供の声も急に静かになっていた。何があったんだろう?別に話し声も聞こえなかったし…じきに子供もまた騒ぎ出したが、男の大声は一言二言遠慮がちに言うくらいに収まった。カントリーミュージシャン風の男はMarkという名で「俺はNashvillから30分位のCookvilleで降りてしまうんで申し訳ないね」と僕に話した。彼はバスを降りる際に「Nice to meet you.君の残りの旅がいいものになる事を願うよ」と、大きな掌で固い握手をしてくれた。
その後Tシャツにジーンズに海兵隊用の迷彩キャップを被った青年が僕の隣に来る。彼は日本語がほんの少しだけできるらしく、僕に好奇心から話しかけたくてこっちのシートに移動して来たらしい。彼は自己紹介として自分の海兵隊の身分証を財布から見せ、僕が感心したように「お~っ」と言うと「You are welcome」って日本語で何て言うんだっけ?」と英語で聞くので2人で僕の電子辞書で探してみる。そして彼は頭をペコリと日本風に下げて「ドウイタシマシテ」とお辞儀をする。僕も今までの日記をバッグから引っぱり出して幾つかのスケッチを彼に見てもらった。彼は奥さんと一緒にバスに乗っている。彼の背丈は僕と同じ位。彼の奥さんもその位でかなりポッチャリ型の体に赤い服を着たとても明るい奥さんだった。彼と話しているとさっきまで彼と後ろのシートで話をしていた彼の話し相手が彼に「おい、奥さんが後ろのシートにいるんだから俺が席を変わるよ」というようなことを言って彼と席を交替した。僕は彼らなりの事情があってのことだと思い、別にあいさつもせずにそのまま黙って座っていた。彼はケータイで何か色々やりとりをしていたが、その内容はよく理解できなかった。彼はケータイでの話を終えると黙って前をみている。もう消灯しているので彼の表情がよく見えないのでかなり話しかけずらい。時々またケータイで話しては終え、また前を見ている。

Nashville→Cookvill→Knoxvill


28.Dec.2005(Wed)

時々こっちを見ている様な気がするのでパッと横に振り向くが、窓の外を見ているような、こっちを見ているような。暗くてよくわからない。仕方がないので暗い闇に浮かぶ窓外の景色を眺めたり、バスの向きが変わる度に少しずつ位置を変える星空を眺めたり、眠ってみようとする。しかし、どうも彼の視線がある様な気がしてどれにも集中できない。そんな、少しオフビートな、小津的な、ジャームッシュ的な状況のままKnoxvilleに着くと、休憩時間に僕より英語の話せないスパニッシュの男性が何となくという感じで隣のシートに座り、ケータイの彼は再び後方のシートに戻る。そこで新たに乗車してきた日本のことを知っているという学者っぽい話し方をする白人女性と何やら日本人について話している様子。その女性は1人日本人が乗っていることを知らず「日本人は…。日本人は…」と、良いこと悪いこと含めて多分に偏った変な日本人像をケータイの彼に教授していた。彼はそれでも余りにもその日本人像がさっきの日本人像とかけ離れていると感じると「でもそれは」と口をはさむが何となく彼女の話に丸みこまれてしまう。それがずっと続き、とうとうCharlottesviで奥が降りようと立ち上がると「あら、このバスに日本人いたの!」と、しまったという感じで小さく叫び「でも大丈夫よ。彼もうこのバス降りるみたい」と彼に言っているのが聞こえた。何がなんだか…。(※おそらくケータイの彼は彼女をからかっていたのだろう)
Charlettesviから乗り換えたWashingtonD.C行きのバスでは色々な人種の人が乗っていて白人の割合が少しだけ高いようだ。その大半が学生風の若者で、本を読んだり雑誌を読んだり和気あいあいと仲間と話したりしていた。Charlottesviの景色はグランマモーゼスの絵に出てきそうなかわいらしい雰囲気の家々が、小ぎれいな柵で囲まれた牛馬用のプライベートの放牧地(※庭というにはとても広いが畜産用の牧場というには少し狭い気がするのでそう解釈した)の中にちょこんと建てられている。そんなかわいい景色のあるいくつもの丘々を通る曲がりくねった道を抜けて、だんだんと都会的に区画された近代的な建物がちらほら現れるようになり、とうとうWashingtonD.Cに着く。シートを立つ時に隣に座っていたアジア系の若者が声をかけてきた。ネパールから着たアメリカの学生で名をムキヤという。ムキヤは仏教徒で、首には小さい釈迦座像のついたネックレスをかけていた。若いせいもあるのだろうがちょっとお人好しなところがある。到着場所から離れたところにある次のNY行きのバスステーションまで2人で行き、バスの発車時刻まで余裕があるので一緒に昼メシを食べている時のこと。僕が気まぐれで、隣に座っていたホームレスにピザを分けてあげたら、ムキヤも(※そういう習慣と思ったのか)自分の食べていたポテトを彼に分けてあげた。その後、彼が「これネパール製のタバコなんだ」と、僕にタバコをくれると、さっきのホームレスも俺にもくれと言い出し、クォーター硬貨もくれと言い出す始末。もちろん彼は律儀にもそれをあげてしまった。室内でタバコを吸っていて警備員に禁煙だと注意されてしまったので、外の入口前で2人でタバコを吸っていると、さっきのホームレスが言いふらしたのか3.4人のホームレスが寄って来て、みんなでタバコやクォーターをたかり出す。ムキヤが律儀に、更に一人一人にそれを渡そうとするので、慌てて「No no!」と言って手で制止すると、ムキヤは「何で?」という感じのキョトンとした顔をした。ムキヤは初めてNYに行くという。これから行くNYに行けばわかると思うのだが、街で「Change quarter」と言ってくる人に金を配って歩いていたら、あっという間に自分の方が文無しになってしまう。1クォーター渡すと、もう1枚くれとか$1くれとか言い出すのもざらにいる。本当にキリがない。僕はそこまで説明できる自身がなかったので、NYで泊めてくれると言っていた彼のイトコたちが説明してくれるのを期待した。(※結局その後バスの中で、そのことを彼に伝えることは何とか成功した)
でも、僕も初めNYに来た時は「Change… Change」と言うから何のことかわからずに、「それじゃ絵を描かしてもらう代わりに$1やるとか言って、その上時間も「15分だけだぞ」とか言われて、ついには$2払えとか言われて仕方なく$2渡したりしちゃったっけな。その絵は大失敗でスケッチブックからちぎっておいたらそのままどっかいっちゃたけど。ああ、馬鹿なことしたな…。知らないって本当オソロシイ。(※それが面白くもあるんだけど)
自分は今は、たまにあげるだけにしているけど、NYに住んでる人達ってどうしてるんだろうか。

Wytheville→Roanoke→Charlettesvi→WashingtonD.C→NewYork


29.Dec.2005(Thu)

昨日、ムキヤとマンハッタン34st8thAv.のバスターミナルで別れた後、僕は8thAv.のマクドナルドでビッグマックを無料で食べる。それから約1週間前まで宿泊していたChelsea in Hostelに向けて歩いた。グレイハンドバスに預けていたバックパックは、途中までバスの荷物室にあったが、El PasoかDallasあたりで行き別れになってしまってたので、おそらく先にNYに着いているか、最悪の場合、どこかテキサスあたりの荷物倉庫に置き忘れられているだろうと思っていた。だからNYの荷物預り所にバックパックがなかった時もそれ程慌てなかった。いづれにせよそのバックパックには安物の衣類と、レンズ周りのプラスチックにひびを入れてしまいセメダインで修復した売り物にならない28mmのNikonカメラレンズ、それに旅で増えたいくつかのレシートやフリーペーパーなどのガラクタが入っている位だった。1番高価なものといえばバックパックそのもので、それさえも知り合いの山村さんが「なくなっちゃったらそれはそれでいいから」と言って貸してくれたものだった。と、いうことでBaggage Centerの受付をしていた黒人のお兄ちゃんが「今日もう1度夜に来て、そん時なかったらここに電話してよ」と言って電話番号の入った小さな紙カードを渡してくれた時、素直にそれに従うことにした。しかし大抵の客は荷物がないとグチャグチャと文句を言い立てるのか、言われるままにアドレスカードに名前など記入し「ハイ、ハイ」と何も言い返さずに帰って行く僕に「Cool」と一言いって「Bye、今夜忘れずにちゃんと来るんだよ」と一言注意して見送ってくれた。僕は「彼は僕が英語ベタだから必要なことしか言わなかったと知ったらガッカリするかな?でも、ま、いっか」と開き直って地下1階の荷物預り所を上がり、バスセンターを出て見覚えのある8thAv.をホステルに向けて歩いた。
小腹が空いたのでその通りのマクドナルドを探すが、まだ5.6:00位だとマジソンスクエア周辺のマクドも混雑していたので、そこから1.2ブロックぐらい歩いたところの小さめのマクドナルドに入ることにした。カウンターには3.4人の列が3列並んでいて、これならすぐ済むな、と思いつつ真ん中の列に並ぶ。しかし、何故かカウンター奥の様子がおかしい。どうも僕の並んだ列のレジ係がレジの周りでヘラヘラと引きつった笑いを浮かべながらウロウロしている。別に「ヘラヘラ」という言葉で彼を悪く言うつもりはないのだが、彼の笑顔は「本当にやってられないよ」とか「一体オレはどうすりゃいいっていうんだい」という感じの、何だかもう仕事を放棄したいという気持ちが滲み出ているような、なんだかせつない、本当に「ヘラヘラ」と言う形容が一番ぴったりくる様な笑顔を浮かべていた。(※多分彼は新人なのだろう)両側のレジ係は仕事に慣れた女の子で、3人ともアフリカ系の若い子だった。こんなこと言っても誰にも分からないが、彼は僕が以前、銀座のカリフォルニアレストランで一緒に皿洗いのバイトをしていたアフリカ人に(※背はマクドの彼よりだいぶ高かったが)すごくよく似ていた。なんだか少しお調子者っぽい所とか本当に良く似ていて、思わず軽い親近感を持って彼のヘラヘラとした働きぶりを見守りたいような気持ちになり、その列でずっと待つことにした。両サイドの女の子は、ポテトフライやバーガーや飲み物を取りに移動する際、真ん中でウロウロする彼を「邪魔よ!」とばかりに邪見に扱いながら二の腕で彼を押しのけつつ彼を更にヨロメかせた。彼は「だってアイツらがチーズバーガーが出来ないって言うからどうしようもないんだよ」と、既にレジの前でそのチーズバーガーのせいで10分以上も待たされているヒップホップ系の服を着たアフリカ系の2人組の客への言い訳を、両脇のレジの女の子に聞かせるともなく独り言の様に泣きそうな笑い顔で話していた。チーズバーガーの作り置きが残りわずかなのは本当だったようだが、会計でも客に何度も間違いを訂正され、その間にも「ちょっとアナタ、このチーズバーガーまだ中まで火が通ってないわよ!」と、ツッコまれ「だってアイツらがチーズバーガーを…」と上を仰ぎ見つつ両手の平を天に向けて「どうしようもないんだよ」という表情を誰ともなしに見せながら尚往生際の悪い言い訳を両サイドのレジ係に言い続けていた。15分以上、もしかしたら20分は待ったかもしれない。僕は、来た時は一番安いチーズバーガーセットを頼もうとしたが、チーズバーガーがないのならと、次に安かったビッグマックセットを頼んでみる。しかし、「…with orange juice medium」という言葉の「medium」が日本語発音になってしまったせいで伝わらず「SizeM」とか「メ…メディウム?」とか言ってみたものの「メディウム?…何だよそれ?」と言って請け合わない。奥からちょっと顔を出した年配の黒人女性が「Medium orange juice」と「わかるでしょ」とばかりに彼に言うが、彼は一向に聞いていない様子。仕方がないのでsmallを頼むと彼は「Ok.Small orange juice」とやっと理解してくれたみたいで一安心。ところがお金を払う時、彼に「Five fifty」と言われてそのままの金額を出すと、彼は「No no.Five ninty seven」と言う。あれ?聞き間違えたかな?と思い財布をのぞいてみると小銭が足りなくて、あとはもう$20出すしかなくなってしまった。それで「Sorry.I have only $20」と言って$20札を出すと、彼は更にヘラヘラした笑い泣きの表情を大きくして「Ok、わかった。持っていっていいよ」と言いつつ「どうぞ持っていって」というジェスチャーをする。僕が何のことか理解できずに「But…」と言葉に詰まっていると「いいから、いいから」という感じで笑いながら同じジェスチャーを繰り返す。「Really?」僕は念を押して聞いてみる。彼はにこやかに笑って「どうぞどうぞ」と、両手を前に差し出す。僕は少し腑に落ちなかったが、ともかく得をしたようなので「Thank you!」とにこやかに言って、彼の考えが変わらないうちに、そそくさと2Fに言って数日ぶりのまともな食事を摂ることにした。袋を開けてビッグマックを食べていると、ふと、オレンジジュースのサイズがMediumなのに気がついた。僕は色んな意味で、本当にNYに戻って来れて良かったと思った。
バーガーを食べ終えるとそのまま8thAv.を歩いて20.stのChelsea in Hostelに着く。基本的に最長2週間までが滞在可能期限で、1週間前には既に2週間分泊まっていたのでまた泊めてもらえるかどうかわからなかったが、とりあえず無理を承知で1晩だけ泊めてもらえるかどうか聞いてみることにした。チェックインの受付は、僕がこのホステルに来た時に受付してくれた女の子で、若い頃のグロリア・エステファンをほんの少しポッチャリさせたような可愛い女の子だった。この子はテキパキと受付の大部分の仕事を1人でまかされて、そのせいか忙しい時などは大抵無表情のまま、次々とチェックインチェックアウトをこなしていた。ただ、1週間前に僕がここをチェックアウトする時に「ここに泊まって良かったよ」というようなことをカタコトで言ったら、それまで事務的だった表情が本当に嬉しそうに笑顔に変わったのが印象的だった。そして、この日再びチェックインの手続きをしてくれたのが彼女だった。ブツ切れの英語で「1週間前までこのホステルに2週間滞在していたんだけど、1晩だけ泊めてもらえる?」と聞くと、少し考え宿帳を見つつ「いいわよ、1晩だけね」と事務的な表情でOKしてくれた。僕は「Thank you」とひとこと言って立ち去ろうする間際少し彼女を見て「Do you remember me?」と言うと、彼女はまたあの時のようにほころぶ笑顔を見せて大きくうなずいてみせてくれた。
部屋でシャワーを浴びて一息ついてからラウンジに入る。思いがけずピザの日に当たり、みんなで無料のピザを食べつつ以前と変わらず盛り上がっていた。もちろん知っているメンツがいるわけもなく、自分が多少その場から浮いてるような気もしたけど、テーブルについてさっき買って来た爪切りでここ1月伸びっぱなしだった爪を切っているうちに、何となく自分の心が落ち着いて来る様な感じがした。それから僕は少し心掛かりだったミサキのことを知っている人がいないか日本人に聞いてみることにした。ラウンジの外のベンチで1人で座っていた日系の女の子は、日本語がほとんど話せなくてあまり日本人と話をしなさそうな感じで、もちろんミサキのことも知らないと言っていた。ラウンジの中で一人黙々とエアメールを書いていた、長いウェーブの髪を赤く染めた女の子は、日本人と思って話しかけてみたが台湾の子だった。
康鈴という名のその台湾の女の子は、何か夢を持ってNYにやって来ているそうだ。ビルボードがなんとかと言っていたから歌手か何かそういった関係の仕事で成功したいようだ。彼女には世界の何カ所にも友人がいてその友達宛にエアメールを書いている所だった。僕は1月前にNYに来てそれから2週間このホステルにいたこと、L.AとSFにグレイハウンドバスで行ってきて今日NYに戻って来たこと、そして明日にはもう帰らなければならないことを彼女に話した。そして僕は、日本でパートタイマーをしながら現代美術(と言っていいものかどうかわからなかったが、とりあえず簡単に自分の作品を説明するのにこの単語しか思い浮かばなかった)の作品をいくつか作っていること、今回の旅行で日記をつけていてスケッチをしたり写真を撮ったりしていることなどを話した。僕は今までの日記を見せ、ミサキのポートレートのあるページを指さして、彼はブラックミュージック好きでよくブルックリンあたりを歩いたりしていたが、今どこにいるかわからないんだ。と言うと、彼女は「そういえば3.4日前にこんな人を見た気がするわ」と言って「こんな特徴ある髪型の人はそういないから多分そうだと思うんだけど」と言った。僕はホッとして「そうか、彼を見たんだ!彼はまだ生きてるんだ。よかったよかった」と言って、胸をなで下ろすジェスチャーをした。そして彼女に「君の絵を描いていい?」と頼むと「うれしい。私を描いてくれるの?」と言って「私はあなたを見ればいいの?それとも他を見てた方がいい?」と聞くので僕は「えっ?僕を見てるの?」と、彼女がずっと僕のことを見つめている想像をして少しドギマギしながら「あっ、いや。他を見てて…日本人はシャイだから」と、妙な気持ちになるのを慌てて頭の中でかき消しながら彼女に答えた。彼女は手紙を書くポーズをとってなるべく動かないようにそのままさっきの手紙の続きを描き始めた。最近寒い戸外でスケッチをしたり、揺れるバスの中でスケッチをしたりしていたので久しぶりに温かい落ち着いた部屋でスケッチしていると幸福な気持ちになった。そのスケッチが出来上がると、僕は彼女にそれをあげることにした。彼女は明日ここをチェックアウトして、それから友人の家に泊めてもらう予定になっていると言っていた。「うれしい。この絵はこのホステルでの最後のいい思い出になったわ。ねえねえ、この絵はあなたの作品の中でうまくいってる方じゃないの?それともうまくいってない方?」と、とても嬉しそうに聞いてきたのでもちろん「Good!」と答えてあげた。実際自分の描いたものを見る時、うまくいっている部分もあればそうでない部分も見えてきたり、しばらく経ってから他のものと比べて「う~ん」と考えながら「もしかするとこれは案外いいのかも…」などど判断するしかないのだが、彼女もああやって喜んでくれたのでいい出来だったのと思いたい。そうして彼女は「あなたの様に日記を書いたり絵を描いたり写真を撮ったりしていると沢山の思い出が出来ていいなあ」と言った。でも彼女は少し思い直して「でも私も写真を撮ったり、好きなアベニューやストリートを思い出して、そこから色々な大切な思い出を思い出すようにしているの。だから、ちゃんと思い出は心の中に記憶してあるわ」と少し自慢するように言った。そう自慢げに言われると、僕もそんな前向きな年下の彼女を少しうらやましく思ってしまうのだった。
その話が終わるともうPM10:00頃になっていて、彼女は自分の部屋に戻り、僕はバックパックが到着しているかどうか確認しに再び34st8thAv.のバスセンターに歩いて行かなくてはならない。真夜中のマンハッタンの最後の散歩だ。しかし、大体の道は把握できていたと思っていたのだが、どうしてもストリートのナンバーが思い出せないのと9thAv.と8thAv.の間にあるバスセンターを何故か7thAv.と8thAv.の間にあるものだという完全な思い込み違いをしていたのとで、結局42stまで歩いてしまった。仕方ないので40stで夜のマンハッタンの見回りをしていたアフリカ系警官に道を聞くと「Straight down 32st」と指を真っ直ぐさして簡単に答えてくれた。ようやくバスセンターに着きB1Fのグレイハウンドの荷物預り所に行くと数時間前応対してくれたお兄ちゃんがもうひとりの受け付けのブラザーと楽しげに冗談を言い合っている。僕が彼らに「This baggage arrived this center?」と荷物ナンバーを書いたカードを見せながら言うと、何か変な英語だった為か「Arraign」「Arraign」(※と言っていたんだと思う)と2人で顔を見合わせながら言い合い、大声で笑い合った。僕は何のことかわからずにキョトンとしていると「He is confused!」と更に2人でゲラゲラ笑い合っている。そして「Ok!!今調べてくるから」と言って荷物置き場に行くと、しばらくしてから「これか?」と言って僕が預けていたグリーンのバックパックをヒョイと持ち上げて向こうの部屋からのぞかせて、僕が「Right!」と言うとニコニコしながらそれを持って来てくれた。彼は改めてタグカードのナンバーや名前などをチェックすると、カウンター下の開き窓からそれを僕に渡した。彼は再び同僚と顔を見合わせて「$20はするよな。これは」「ああ$20だ」と言う。僕は素直に料金かチップが要るものかと思い「ちょっと待って…」と言って財布に手をかけると「本気にしたぜ!」「本当に払おうとしてる!」と言ってまたゲタゲタ大笑いする。僕は苦笑いしながら「Hey,I am poor asian」と言ってみたが自分でも何が言いたいのかよくわからない。2人は尚も笑いつつ「じゃ$5、いや$10」と言っている。僕はこういう時はチップが必要なのかと思いつつ、でも全部冗談のような気もするし、と考えながら「じゃちょっとだけ」と言って$2を彼に渡した。僕は本当に混乱して何だかよくわからず「Happy new year!」と去り際に言いながら後ろ向きで手を振ってその場を立ち去った。しかし、10m位進んで少し後ろを振り返ると、荷物預り所の少し暗めの明かりの下、$2紙幣を両手でツマんで呆然としている彼の姿がチラリと見えた。僕は心の中で「ああ、しまった。また何かやらかしてしまった」と少しあせりながらそそくさと身を隠すようにその場を立ち去った。チップが少なすぎたのか、それとも本当にお金を渡したことが変な事だったのか、はたまた去り際に「Happy new year!」と言ったのがおかしなことだったのか、今だよくわかっていない。僕は8thAv.を帰りながら口を押さえて「やば、何かやっちゃった?オレ?」と1人小声でつぶやきながらチェルシーのホステルへと戻ったのだった。
そして今朝、僕はホステルをチェックアウトして、そして今、日本行きの飛行機に乗っている。朝、近くのスーパーで買って来たベーグル(クリームチーズを塗って食べた)とアップルジュースの朝食をホステルのラウンジで食べ終えてボーッとしていると、このホステルをチェックアウトする数日前に出会ったトモミさんに会うことができた。彼女も今日このホステルをチェックアウトするそうで、今日から友人の家に泊まることにすると言っていた。それから彼女はミサキが無事日本に帰っていることを僕に教えてくれた。ミサキは既に日本に帰っていた。生活資金もギリギリになって、とうとうトモミさんが帰りの旅費を用立てようか?と提案したが「いや、ここで頑張らないと何の為に来たのかわからないから」と言って断って、キャバクラでの呼び込みのような仕事などの面接も受けたもののどれも(※ビザがない為か)落とされてしまい、とうとう窮地に立たされた彼は知り合いに国際電話代を用立ててもらって、もう何年も帰っていない実家の両親に電話を掛けて帰りの渡航代をお願いし、なんとか帰国できたそうだ。こう書いてしまうと物語的に面白くないと思う人もいるかもしれないが、僕は別にハリウッド的サクセスストーリーを見たい訳でもないし、そういう人だけを特別視するような人間的素養もないので、却って「やっぱ日本人でもだますしかこの国で生き残る方法はないんですかね?」とか「やっぱこうなったらヤクの売人にでもなるしかないかもしれない」とか言いつつも、結局そんな風に大きく人を傷つけてしまうようなことに手を染めず、会う人会う人すべてにちゃんと筋を通してきたことで、いつも周りの人に愛されて、そして帰国する際にも色々な人から助けてもらって無事帰国できた彼の、実は意外と生真面目で優しいカタチをした現実味のあるバイタリティに、なんともいえない魅力を見てしまうのであった。
それに何といっても彼は19歳なのだ。
トモミさんは、TCをなくしてしまい再発行を受けたり、調子に乗ってホステルで知り合った日本人の若者たちに連日ビールをおごったりしてるうちに予算が危うくなってしまってクレジットカードの限度額を上げて貰ったりと、何か色々あるみたいだが結局自分で何事も解決してしまっている。旦那さんの会社が破産して裁判を起こしてドロドロになってしまい結局彼女も体調を崩して離婚したり、アメリカに来ても、何やら危ないブラックファミリーに気に入られ長~いリムジンに乗せられそうになったり、何だか色々あるみたいだが、いずれにしても何とか切り抜けていけるようだ。


30.Dec.2005(Fri)

もう日付変更線を越えたから30日になっているのだろう。
僕は今、飛行機で日本の近くまで来てしまった。アナウンスで天気が良好なので早めに到着するとは言っていたがこれ程早いとは思わなかった。日本に到着するまでにこの日記を書き終えられるだろうか。

最後に自分のことを書いておこうと思う。
僕は本当に今、何も考えていない。もう36歳にもなっていい加減どうにもこうにもならない道を歩んできて、せめて30代のうちにはと少々あせりつつのアメリカ旅行。でも、アメリカにもグレイハウンドで会ったMarkのような何だか不思議な歳の取り方をした人もいっぱいいるようだし、このままのらりくらりと生きてゆくのもいいかなと思う。
僕はこの旅行で色々な人と出会って色々な風景を見てきた。
そしてこれからも色々な人々や風景を目にしながら生きてゆくのだと思う。

それで、いづれ死ぬ。

僕の生き方に意味があろうがなかろうが、それはそれで構わない。

僕は生きている。それは世界が存在していることと同質のものとして1つの模様を描いて、そして消えてゆく。
しかし、その1つの模様は、また新たなる模様を生み出す複雑な素地の1部となる。
それは、善い事でも悪い事でもなく、僕らはただ、世界の終わりまで反応し続けてゆく。

僕はとりあえず死のその時まで生きてみる。
それで何も変わりはしないが、
それでも、世界は依然として変わり続けてゆくだろう。

2005年12月30日 機上にて

山根 勇


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