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「東京が近づいてくる」は良くて、「私に東京が近づいてくる」が変な理由は、?

こんにちは。べんとうです。

いい加減昼夜逆転生活が終わらないので、今日は無理やり起きています。

この後、企業説明会があるので、寝る訳にはいかん。

今日のトピックは題の通り。

「東京が近づいてくる」は変じゃないのに

「私に東京が近づいてくる」はちょっと奇妙に聞こえるのはなんで?

という話です。

後者の文に違和感を覚えない人は、以下の理由で容認度が低い文になっているということを納得してもらえればと思います。

参考文献は、本多 啓さんの「知覚と行為の認知言語学 『私』は自分の外にある」(開拓社)です。

ただし、終始僕の考察だけで、このブログは埋め尽くされます。気になる人は、本多さんの本を買いましょう。こんなタイトルですが、読みやすい。

まず、主語や目的語の省略という話から始めましょう。以下の例文をご覧ください。

・私はショートケーキが好きだ(A)

・ショートケーキが好きだ(B)

皆さんは、ぱっと見、この2つの文章が同じ意味を示していると思うでしょう。

しかし、ここには微妙な視点の違いがあるのです。

どちらかは、一人称視点、どちらかは三人称視点です。

言い方を変えると、一人称視点は自分の目と脳というレンズを通して見た世界、三人称視点は鳥のように上から俯瞰した世界と言えるでしょうか。

はい。文(A)は三人称視点ですね。一方、文(B)は一人称視点です。

僕は、様々な微弱なニュアンスと呼ばれるものは、視点の違いから生まれると思います。

そもそも、文の中に「私」と書かれている時点で、僕たちは「私」という人物を視野に入れるのです。

もちろん、言葉というのは古典的条件づけで言う所の条件刺激(CS)に過ぎませんから、明確なイメージは生まれません

しかし、脳の奥の方で、非常にあいまいでボンヤリと、影のようにもろく、「私」の存在が認められることは、どうか納得してください。

逆に、文(B)は「私」と書かれていないので、「ショートケーキを好きである」という感情を示すのみの文です。

このように、感情や主観、行動に代表される、いわゆる「反応」を示すような動詞構文を目の当たりにすると(今回の場合は「好き」という「感情=反応」を示します)、僕らはそれを、自己投影して理解しようとすると思うのです。

一応根拠はあります。

実際のところ、文の具体性は「可視性」と「身体運動性」から成ると言われています。

そうすると、結局のところ、僕らが文を読み、具体に落とし込む段階で、目に見えるようにする or 体で感じるようにするはずです。

今回の場合は、一人称の視点を通して、ショートケーキを目の前で心的に再現し、その対象物へ志向する感情を自分の中で作り出してみることでしょう。

少しズレましたが、要するに主語が省略されている場合、「その主語を補う」という認知処理よりも、一人称で感じるという認知処理が促されるのだろうと思います。

そのため、

・東京が近づいてくる

だと、新幹線に乗りながら、相対位置的に東京の風景が近づいてくる一人称視点が想像できます。

一方

・私に東京が近づいてくる

だと、鳥のように俯瞰した三人称視点を想像してしまいますから、どうしても絶対位置的な関係を考えてしまいます。

そのため、まるで静止している「私」に「東京」という場所や概念がウィーーンと動いてくるように感じてしまい、非常にキモい文になるわけですね。

しかし、ここで面白いのは、「え?別に後者でも違和感なくない?」という人が一定数存在することです。

僕も正直、感覚的にはそこまで納得していません。読書家の皆さんであれば、直感的に「いや、キモいだろ」とわかるのかもしれません。

つまるところ、「主語の有無による視点」は言語の発達に伴って分化していくものだと想定できます。

言語の習熟度が高くなると、脳の奥の方で、非常にあいまいでボンヤリと、影のようにもろい、「私」という存在が、いい塩梅に(前意識的に)認知されるようになります。

おそらく、この「私」という前意識的な影は、明瞭だとマズいのだと思います。明瞭に「私」が見えてしまうと、他の文の処理に支障をきたしてしまうからです。

そのため、あくまでも、いい塩梅に。低い解像度を保って。前意識的に。

このような条件が必要なのかと思います。

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