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5回目は『デーミアン』

情緒不安定気味になることの多かった十代。
自己嫌悪に陥ってばかりだった半面、直感の冴えることも結構あって、そのことが気持ちの支えになっていたように思う。
言葉では説明しにくい直感を無視できなくて、そのせいで対外的に辛くなることもあったけれど、それでも大切なものだというのはわかっていた。

高校1年生の夏に読んだヘッセの『デミアン』とは、ほぼ直感の世界での出会いだったと思う。
わけのわからない軽い興奮を感じながら読み進めていたことを覚えている。
読み終わったとき、「生涯、読み続ける本だ」とひらめきのように思って戸惑った。
内容をほとんど理解できていないのに何故?と。
当時、¥180( !!! )で購入したのはもちろん高橋健二訳の新潮文庫だった。
4回目に読んだのが2011年、すでに本はまっ茶色だったけれどいまだに持っている。
このとき、新たに線を引いたのがこの箇所だった。

ここで突然鋭い炎のように一つの悟りが私を焼いた。
各人にそれぞれ一つの役目が存在するが、だれにとっても、
自分で選んだり書き改めたり任意に管理してよい役目は存在しない、
ということを悟ったのだった。

各人にとってのほんとうの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。

『デミアン』ヘッセ/高橋健二訳(新潮文庫)

4回目にして、心に深く刻まれたことだった。
それは一番最初に読んだ高校生の頃の私には受け止められない概念だったのだと思う。
この本に書かれている何もかもがそうだったのだろうけど、最初に直感でわかったのだ。
先々受け止め、理解していく自分になっていくことを。
自分の人生に必要な、大切なプロセスであることを。

そして、今回、唐突に『デミアン』が閃いて、(5回目か…)と思いつつ、何気に検索してたら酒寄先生の訳本が出ていることを初めて知ったのだった。

2017年…知らなかった~。
酒寄先生と言えば、ラルフ・イーザウの本を次々に読んでいた時期があり、読み易い文章が大好きだったのだ。
早速、図書館から借りて読んだ。
…もちろん、間違いなかったのだけど、今回、やっと『デミアン』の神髄に向き合うことができたみたいだ…と、気づいて、なんかもう…呆れてしまった。自分に対して。
遅い!いつもいつも時間掛かり過ぎ~ !!

「神は善なるもので、気高く、父のような存在、美しくかつ崇高、感情に訴えるもの。
  たしかにそのとおりだ。でも世界は別のものからも成り立っている。

だけど、讃えるのなら、この世界まるごとを讃えるべきだ。すべてを神聖なものとみなさなくちゃ。意図的に一部を切り離して、公に認められた半分しか崇めないなんておかしいよ。」

『デーミアン』ヘッセ/酒寄進一(光文社古典新訳文庫)

2016年に受けた放送大学の『人格心理学 ' 15』の授業の中で『デミアン』が引用され、デミアンという名前がデーモン(悪魔)に似ていることの意味についての考察があることを初めて知り、衝撃を受けたことがある。
(※記事タイトル上の画像)
デミアンが悪魔的?
すぐに頭では理解した。
悪魔的な面もあって当然。
100%善なるものなら天使だし、100%悪なら悪魔になってしまうからこの世の者ではない。
両方あって人間なのだ、と。
しかし、8年掛かった。
無宗教でもある自分でさえ、「二元性の罠」に捕らわれてばかりいて、本当に腑に落ちるまで(感性が受け入れるまで)には時間が掛かってしまったのだ。

それでも、とにかく、今回5回目の『デミアン』、じゃなくて『デーミアン』で最も響いた個所。

「ぼくらの胸中には、すべてを知り、すべてを欲し、ぼくらよりもなんでもうまくやってのける存在がいる。それを知っておいても損はないぞ。」

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