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映画『福田村事件』と大江健三郎の示した「希望」を繋げて

封切りから2か月以上も過ぎてようやく観ることができました。
が、観終わってまず思ったのは、私にとっては今観るのがベストなタイミングだったのだなあということだったのです。

映画の前半、次々に描かれる不道徳な男女の性愛場面…(描写は抑制的です)
事前に、「これは必要なのか?」と指摘するレビューを多く見掛けました。
後半を観れば必要なのがわかるでしょ!
と、言いたくなったので、ネタバレしつつ説明します。

虐殺行為を扇動したのは数人でした。
彼らはそれぞれに、抱えるに耐え難い感情のコンプレックス(引っ掛かり)を持っていました。
そんなの誰だって抱えているものなのですが…彼らには耐え難かったのです。
その「弱さ」は、「重さ」とも言える。
重いエネルギーに、多くの人々が巻き込まれてしまった悲劇だったのだと思います。

虐殺に加わらなかった、止めようとした人たちもいました。
それはどういう人たちだったのか?
映画ではわかり易く描かれていました。
普段、変わり者扱いされ、陰口を言われている少数派です。
その中に不道徳と非難されている者たちが入っていたわけです。

少数派に身を置いていれば、多数派に属する安心感を得られない心許なさに耐えざるを得ない日々を送るしかありません。
孤独を知る者は、あんな弱い者の重いエネルギーに引っ張られないということなのだと思います。
だから、不道徳に走った者たちの罪は許されるべき?
と、ここで私にとって結びついたのが、先日放送されたNHKの番組、
ETV特集・「個人的な大江健三郎」でした。

高校生のとき、初めて読んだのがこの本でした。

何が衝撃的だったかって、暗く重いストーリー、結末なのに、
「何なんだ?このスッキリした読後感は??」
だったのです。
わけがわからず、気になって次々に大江作品を読んだのですが、
まあ~、残酷だったり、卑猥だったり、見苦しい登場人物の言動をさんざん突きつけられた挙句に、決まって、
「何なんだ?このスッキリした読後感は??」
ばかりでした。
もう好きな作家と言わざるを得ませんでした。
何が良いんだか言語化もできないままに。
それでも、やがてぼんやりとわかっていきました。
番組でもどなたかが言われていたことです。
読む度に、「希望」を受け取っていたのです。
わかり易いハッピーエンドじゃないどころか、不道徳が溢れているのにもかかわらず。
そう!
不道徳なんです…日常の中の不道徳のドラマには希望がある!

不道徳の極みが殺人や破壊なのでしょう。
許されないことと誰もが知っています。
では、道徳の極みなら良いのでしょうか?
聖人になるから?
いえ、凡人は聖人にはなれませんから現実的ではありません。
不道徳の極みだけが恐ろしい悪なのではなく、道徳の極みに行こうとすることも危険なのだと思います。
徹底して不道徳を嫌い戒め、正しくあろうとすれば、すべての人の心の奥に必ず存在する邪悪なイメージが何かの折に活性化してしまうからです。
全ての人の心の奥に必ず存在する邪悪なイメージを、つまり、現実を大江健三郎は描き示してくれました。
現実を認識する強さにこそ希望があるのです。

漫画家のこうの史代さんが、『ヒロシマノート』を読んで原爆のことを描こうと思ったという話をしておられました。
お話の中でこんな内容のことを言われていたのです。
「悲惨な状況にあっても、
 悲観でもなく楽観でもなく、
 冷静に現実を見て、希望を捨てない」

悲惨な状況…不倫劇に悩む当事者家族だって、人生の悲惨に打ちひしがれています。
けれど、周囲の者たちは違います。
当事者ではないからこそ、できる役割がある。
「冷静に現実を見て、希望を捨てない」こと。

本来なら、扇動者を客観視できる立場の人が大勢いたんです。
しかし、普段の彼らがどうであったか…。

悲惨を突きつけられた衝撃に耐えて記事を書こうとする新聞記者の有り様が唯一の希望?
いえ、今は漂って生き抜こうとする2人の姿にも希望はあると思います。

こうのさんが微笑ましいエピソードを漫画にしてくれてました。
突然、道端にしゃがんだ大江さん…
ヒメツルソバの花、よく見ると可愛いのですが、一般的には繁殖力の強すぎる嫌われ者の雑草です。

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