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障害者というマイノリティを攻撃する社会

相模原やまゆり園事件の裁判で、裁判員は植松被告に死刑を求刑した。

無抵抗な19名を何度も刺して殺害し、27人を負傷させた前代未聞の凶悪犯罪だけに、当然の求刑だろう。

しかし、植松被告のあまりにも破たんしている論理を伝え聞くにつれ、被告自身に、やはり障害があって、事実大麻性精神障害とも言われているが、それゆえの犯行であるとして、減刑、または無罪という線も残されている。

植松被告は万が一無罪になったら、また障害者を殺しに行くだろう。

そもそも無抵抗な相手とはいえ、50人以上を刺し、うち半数近くを絶命させるなど、よほど強い意志がないとできない。

彼の論理では、日本国家が財政の危機であり、生産性のない人たちを保護することは不幸しか生まない。だから抹殺するというのだ。

しかしここですでに論理が破たんしている。

国庫の危機と言うのならば、209万人にものぼる生活保護受給者を抹殺したほうが出費は抑えられる。生活保護費は、3.8兆円ものとてつもない経費がかかっているのだ。

しかし、植松被告は自身も生活保護を受けていた期間があり、そのことについては言及していない。

なんなら相対的に貧困層といわれる、年収200万円を下回る層、貯蓄がゼロの世帯も抹殺すべしという方向に行ってもおかしくないはずだが、その話も出てこない。

国庫の負担になっているのは、あくまで「障害者」に限定されているのだ。

ようするに、障害者が国庫の負担になっているというのは後付けの理由であり、被告がやまゆり園で働いていた時に見聞きしたことが、事件の動機のひとつであろう。

また彼は野球選手か歌手になっていれば、事件を起こさなかったといっているようだが、話が突飛すぎて意味が分からない。ここが被告が精神障害を患っているかもしれないと思われるところだが、つまり、承認欲求を満たしてくれるくらいのスターになっていれば、大量殺人はしなかったということだろうか。

障害者殺しは、承認欲求を得る格好の材料だったのだろうか?

事実、被告は裁判で、「役に立つ人間になれたと思う」と言ったらしい。


6歳の私の娘は、中度の知的障害を伴う自閉スペクトラム障害である。

先日、ショッピングモール内にある100円ショップで買い物をしていたところ、いつも持っているお気に入りの絵を落としてしまい、パニックを起こした。

失った1枚を探して、袋に入れて持ち歩いていた絵が描かれた大量の紙を床にまき散らし、通路の真ん中で大声で泣きわめいていた。私はとにかく床に散らばった絵を拾い集め、娘を抱いて落とした絵を探しに行きたかったが、パニックに陥っている娘は集めた絵を次々に周囲にまき散らしていくので、なかなか集められない。

この騒ぎに、大抵の人は、何事もなかったかのようにすっ…と避けて行った。これが自然な反応だ。深入りしない。干渉しない。一人、中年女性が一緒に紙を拾い集めてくれて、娘に「ごきげんななめねー」と言って笑ってくれた。ありがたい。これはレアケースで、彼女はヒーローのような勇気と行動力の持ち主だ。

そして、一人は、「チッ」と聞こえるように舌打ちし、「…ってんだよ」とつぶやきながら、その場を離れるでもなく、近くで腕を組んでにらんでいた。

彼が、いわば植松被告候補である。危害こそ加えてこなかったものの、自閉症児がパニックを起こしているのが許せないのだろう。公共の場で紙を散らかして、寝転んで泣きわめいている6歳児が許せないのだろう。

迷惑をかけている者は、抹殺していい。というのが、日本人の風潮である。彼は私とパニックを起こしている娘を非難することで、承認欲求を満たしているのだ。「公共の場で迷惑かけて許せない者を罰した」と。

いや、迷惑をかける人など他にもいくらでもいるが、弱く、体も小さい女児、あたふたと這いつくばって紙を集めている父親。つまり、攻撃しても反撃がなさそうだ。そう判断したからの露骨な非難である。

もちろん、危害を加えてきたら、倍返しにしてやるが、彼らの論理であれば、同じように国庫の負担になっていても、貧困層に比べると、障害児は弱く、マイノリティだ。

わかりやすく迷惑をかける。

貧困層を弾圧せよなどというと、人でなしと、ものすごいバッシングを浴びることは間違いない。何しろ、今の時代、自分もいつ貧困層に転落するか分からないので、貧困を悪とはしないのだ。

その代わり、生まれつきの障害者であれば極めてマイノリティであるし、人が途中から自閉症児になることはない。

迷惑をかけていると、大手をふって非難してよい対象になるのだ。

パニックを起こしている自閉症児とその親を、「正義の面」をして非難、攻撃することは、承認欲求を満たし、さぞ気持ちいいだろう。

これの行きついた先が、相模原やまゆり園の大量殺人である。

野球選手か歌手になっていたら、やらなかったという被告のことばは、障害者への殺人は、メジャーリーガーや大ヒットシンガーであるほどの承認欲求が満たされる価値があったらしい。

やまゆり園事件の1年後くらいに、NHKが障害者についての番組を作り、そこに視聴者からの意見を募集した。

「障害者はいなくなって欲しい」「迷惑」といった、公共の電波で流していいのだろうかというコメントが読み上げられた。

知的障害者や自閉症児は、「迷惑」防止という大義名分があるから叩いてもいい。

その気持ちが人々の根底にある限り、第二第三の植松は現れる。

彼一人を死刑にしても何も終わらない。



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