明日、もしかしたら

二十代の時に結婚してもいいくらい好きな人がいた。実家住まいだったため二人して親に嘘をつきまくって軽井沢を旅行し、塩沢湖でボートから小島に移ろうとした瞬間に、私はバランスを崩してマンガみたいに思いっきり湖に落ちた。

彼は怒りもあきれもせずに、「おまえ、やっぱりおもしろいヤツだなぁ」と爆笑しながら、ずぶぬれの私を背負って近くの温泉に連れて行ってくれた。その時にこの人となら何でも笑って乗り越えて行けるかもしれないと、自分の運動神経の悪さとマヌケさを省みもせずに自分に都合よく漠然と意識し始めた。

そんな彼のお母さんが教育ママっぽい要素満載なことには気づいていて、それを何となく母に話したところ「苦労するのが目に見えている」と反対された。それでも負けじと「結婚するにはどれくらいお金がかかるのか」と彼と私の双方の親に聞いてみたところ、彼の公務員のお父さんは「200万円」という至極まっとうな現実価格をたたき出してきた。

一方、駆け落ち同然で結婚した私の母は「結婚はタダでもできるし、相手さえいれば明日でもできる」というこれまた正論な返答で、結婚に対する考えが根本的に違うことが露呈し、結局彼との溝が埋まらないまま、時は流れて別れを迎えてしまった。何も見ずにドラを切った後悔に、少し似ている。

ある日パスポートが切れてしまった私は、本籍がある函館の叔母に代理で証明書をもらってほしいと母に願い出た。市役所まで距離があって叔母の手をわずらわせることになるので頼みづらいと濁された。
「明日、もしかしたら私が道ばたで外国人と出会って求婚されて、国の両親にぜひ紹介したいと言われたら本気で困るから、パスポートが絶対にほしい」とダメ元で頼んだところ、母は「そうだね」と爆笑し、それを伝え聞いた叔母は「これでいつステキな人と出会っても大丈夫だね」と笑って証明書を取ってきてくれた。

「ありもしないことを」と笑うことはカンタンだ。
なんてことのない明日も、もしかしたらという想像をしてみる。
明日、もしかしたらただの友達が、世界一大事な人になるかもしれない。
明日、もしかしたら親になるかもしれない。
明日、もしかしたら高額な宝くじがあたるかもしれない。
明日、もしかしたら自分が勇者の末裔だと知って、悪に立ち向かうために旅立つかもしれない。

「明日私はこうなる」って思いを個々がもっと強く持ってもいい。
希望を持つことはそれこそタダで、消費税もかからない。

「無様な塗り絵のような人生」とキリンジは歌っていて、私はそのフレーズがいたく気に入り、自分の人生もずっとグレーがかっていてそんなものだと思ってきたけれど、もっともっときれいな塗り絵を目指したっていいんだと思えるようになってきた。

こんなによどみきった混沌とした世界で退屈でつらくて先が見えない暗黒な毎日だけど、それでもわずかな光を見つけて笑って生きたい。
ありきたりの言葉だけど、明日のことなんて誰にもわからないのだから。

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