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 カノンがレジデンツを抜け出し、旧教会の礼拝堂に居た。 石を組んだ曲線とステンドグラスの聖堂、カノンの教団のマントラを書いた樫の板、その前に魔方陣と祭壇、祭壇に横たわるアキュラの遺体、胸の前に手を組んでいる。

 寒さのためか腐敗は進んでいない、ルーティーンの黒蝋燭の交換、炎に照らされるアキュラのデスマスクは穏やかだ。蝋燭を交換しながらカノンが涙を零した

「アキュラ、私はまた寄る辺が無くなりました」

ぽろんっ♪と弦楽器が鳴った。
「トミイ!!」

礼拝席にトミイが居た。
「カノン、どうしました、泣いているようでしたが」

「上手く行かないのです、魔法をかけた直後に大王に妻にと望まれ、望外の喜びに震えました」
「よかったですね」

「でも、大王はロッソに殺されてしまったのです」
「見ていました、あれは赤毛ではありませんよ」

「えっ?」
「貴女が魔法をかけて、かけっぱなしにするから魔法が暴走したのです」

「はい?あたしのせいなのですか?」
「せいかどうかはわかりませんが、魔法と言うエナジーに乗せた思いを走らせたら、後始末をしないと、あのように暴走して誰かにぶつかるのです、生来のやりっぱなしの性格がここにきて婀娜になりましたね」

「そんな、でも竜は紅かったわ」
「竜の色はそのときの思いとエナジーの強さで変わるのですよ、アキュラの思いは強いと言ったでしょう、それを貴女の魔法でブーストしているから赤竜になったのです、そして、あれは生きている人の思いが造ったアストラル体が結晶した形ですが、気の強さで人を殺せるくらい実体化します。 ちなみにオーラってやつは、その時に発している気で色が変わる、気の持つエナジーは本物ですけどね」

「あたし?あたしの魔法が大王を殺したの?」
「カノンの魔法とアキュラの思いが絡まったエラーですね」

「アキュラの思い?」
「アキュラには女として応えてあげていないのでしょう、そのアキュラのエナジーを利用して魔法をかけたわけですから、対象がちゃんとしていればそちらへ行ったのですが」

「どうして大王を?」
「好きな女が他の男と同衾しているのを見たら、男なら そうしますって、同じ想いを持った男にエナジーが乗った、誰か他にも大王を、あのような思いで居るものが有ったのでしょう。あぁ、アキュラはバイですが、そのときは男になったんですね、よかった」

「よくないわ、どうしてよってたかってあたしの幸せをぶち壊すの?」
「ですから、誰もぶち壊していませんよ」

「だけど・・・」
「前に申し上げたように、貴女の選択に結果が出ただけです」

「あたしの選択?」
「自分が幸せになるためなら手段を選ばない、人のものでも盗りに行く」

「女の戦いだわ、当然でしょ」
 カノンは抗うように叫ぶ。

「当然という思いが貴女を造っているのですよ、そして、人を振り回す、酷いことに無意識に、アキュラなんて一番の被害者かもしれませんね。そして貴女のエナジーが半端じゃないから、絡むと、皆滅ぶのですよ、お師匠を御覧なさい、人間棍棒にされて亡くなられて、更にご遺体を竜にされて」

 トミィは淡々と諭すように言う。

「あたしは悪くない」
カノンが更に叫んだ、高い天井に甲高い声がこだまする。

「悪くないですよ、選択に良いも悪いも無いのです、選択は選択、必ず結果が伴うだけ」
「嫌よ、責任を取りたくない、あたしは幸せを選んでいるだけ」

「カノン、生きているものは皆自由なのです、自由に選ぶ事ができます、ただ、他を貶めたり傷つける選択をすれば結果が顕れるだけです」
 トミィはにこにこしている。

「あたしは、あたしは・・・」
「そして他というのもないのです、全てが自分。一つから分かれて、一つではないふりをしているだけですから」

「一つではない振り?」
「だから、他に為すことは己に為すことだと、聖典にもあるでしょう、そういう意味なのですよ」

「あたし、あたしが大王を殺した?」
「いえ貴女だけではありません、あれは大王の選んできた事の結果、首のピラミッドを築き、魔法に傾倒し、八つ裂きを好み、人の死を楽しんできたから、圧倒的な力に長い爪が、 鎖骨の下に食い込み、自分の肋骨がばりばりと折れる音を聞き、髄が流れ出し、肉が裂けるのを感じ、心臓が引き裂かれる痛みにのたうち亡くなったのです」

「大王は今どこに?」
 カノンの声がやっと落ち着いた。

「霧の国で、まだ死んだことを知らずに、のた打ち回っていますよ」
「それが神の罰?」

「神は罰を与えません、大王の苦しみは自分を赦せば終わるのです当分気づかないでしょうけれどね、あぁ、気づかないことを地獄というのですよ」
「なんて恐ろしい」

 カノンの顔色が白くなった。

「貴女は大丈夫でしょう、人には優しく、未来を教えて差し上げて人の幸せを願って生きてきたのですから、僕と同じように」
 トミィの声に皮肉が混じった。

「そうよ、あたしは人に幸せを分かつために、巫女になったの」
「先日と話が違うようですが良いでしょう」

「でも、どうしてアキュラが心臓を、私はロッソの心をと祈って魔法をかけたのに」
「あの呪文はゲルマニア語なのですよ、アキュラさんアカデミアでゲルマニア語は勉強なさったのでしょう?教養課程の必修ですからね」

「知らないわ」
「Herzには心と心臓、両方の意味があるのですが、ちゃんと勉強していたら前後の構文でわかるのです、訳すときに取り違えちゃったんですね、カノンは、ちゃんと発音しましたか?」

トミイがぽろんぽろん♪と弦楽器を鳴らす。いつもと変わらぬ、さわやかな笑顔を浮かべている。

「トミイ」
「死神に怒ってもだめですよ、僕たちには実態が無いのですから 特別な波動体なのです、魔法みたいなものですかね」

「あたしの幸せを邪魔したのはあなた?」
「まだ、判らないのですか?僕は貴女なのですよ、だから、いつも幸せでありますようにと歌っている、癒してあげているじゃ有りませんか」

「あなたの優しい歌声に、いつも癒されているわ」
 カノンは独り言のように言った。

「そうでしょう、癒されてほっとして、何もする気がなくなる、そこが落とし穴なのですよ、本当は癒しと言うのは次へ行くための一休みなのだけど、一休みされて力を回復されると、ちょっと都合が悪いのです、そこから頑張られてしまうと、死神としては面白くないんだな。だから頑張るはやめましょう、顔晴りましょうなんて、甘やかして、心の力を落としてあげるのですよ、そうすると身体も死に易くなりますから、豚の安穏を・・・」
「なんて腹黒い奴なの?」

「気づかずにやっている貴女ほどでは有りませんよ」
「トミイ!!」

ぽろんっと弦楽器が鳴った、さわやかな歌声が暗い礼拝堂に響く

「幸せでありますように♪」
さわやかな笑顔の死神がすぅっと消えた。

残されてカノンは我に返った。
「魔法を解かなくちゃ」


礼拝堂を出て、教会の書庫へ神皇教会の魔法書を探しに行った。教会の書庫で神皇魔法の本を見つけ、魔方陣の前で呪文を唱えた。祭壇に横たわるアキュラの遺体から蒼白い気が全体から立ち上り、中空で集約し、そのまま魔方陣の中に消えた。

これで魔法は解けたはずだ、カノンは組んでいた腕を解くとひんやりした礼拝堂を出た、教会の自分の部屋に戻る。


大王が亡くなった今、レジデンツの貴賓室に居るのも嫌だし布団や敷物を新品にしても、あれだけ、むごたらしい死体があったベッドに寝るのは恐ろしい。

侍女が来客を告げた、名を聞き部屋へ案内するように言った、ゾイテルだった。

「ゾイテル殿、如何なされました?」
「大王妃さま、シヴァ王の魔手が及ばぬかと案じてまいりました」

「まぁ、それは温かいお心遣い痛み入ります、どうぞ、お入りください」
カノンは身体を避けて、ゾイテルを部屋に招きいれた。ゾイテルは部屋を見回す、そんなに広くは無いが天井が高く、カノンの香りの籠もった部屋、フローラルの香りは香とカノン自身の匂いか

「女だけの所帯ゆえ心細い思いをしておりました」
カノンの小さな手が服の胸のところをつかみ、美しい顔がゾイテルを見上げていた、儚げな表情、守ってやらなくてはとゾイテルは思った。

 気づくと一見細く見える豊かな体を抱きしめていた。ルージュを引かれた唇が濡れている、見つめたままカノンが首を左に倒した。ゾイテルが可愛いと思ったら、首を右に傾げ唇を重ねていた。

舌を激しく絡ませる、なんと甘い口づけかその身体から立ち上る香りが、男をいきり立たせる。

女の腕が背中に回りしがみついてくる、唇を重ねながら震える背中を撫でると、カノンの吐息が甘くなってくる。

ふぅわりと熱い女の身体ゾイテルに我慢が出来るはずが無かった。

寝台まであわただしく運び、押し倒すと濡れた目がこちらを見ている、すそを広げ腰を割り込ませる、ゾイテルはももひきをベッドの外へ放り、身体を重ねていった。

慣れない女体に門口でうろうろしていると柔らかな手に包まれて入り口へ誘われた。

カノンの身体の上で動きながら、ゾイテルの目が赤く光る。 責めるたびに美しい声で鳴く巫女、延々と時が過ぎる。


 大王の遺体はエンバーミングが終わった、肋骨の破砕された部分を繋ぎ身体の歪みも独特の牽引技術で矯正された。

 綺麗に清拭され、大王らしい服に着替えさせ立派な棺に収められた。棺はレジデンツの広間に安置され氷室から出した花に埋め尽くされている。皆がお別れをする、下手人はまだわからない。

 アッチラス兵1万のうち1千人が大王の遺体を迎えるため、ダルヘンから引き返して来た。大王を引き取って明日の早朝ダルヘンの港へ向かい、そこから船で大陸ガリアの港へ渡り陸路エイジアのアッチラスへ帰る。

 神皇区の城塞の門から3千のイノシシ武者が並んだ、白い雪の中、黒の兵装、冑も黒だ、その先頭にルナとロッソが並んでいる。

 ルナは赤い羽根の着いたヴァルキューレの冑、ロッソは冑を被らず、裏地の紅いマントをつけている。

 その反対側にセージグリーンのクロノス家の兵2千、諸侯、王族も街道に並び、楽隊が葬送の曲を演奏する中、4頭の馬が引くそりに乗った大王の遺体を見送った。

 見送りの一行にカノンが居た、大王の葬列の先頭はラハブとそれをサポートするゾイテル、イシュタルと夫グンターが続く。その後ろにハーゲン。

 ゾイテルとカノンの視線が絡んだのをイシュタルは見逃さなかった。

 葬送の列が見えなくなると、皆は城壁の中に引き上げた。ルナとロッソは一度シヴァに戻る支度をして、葬儀に列席の為にアッチラスへ出かけなくてはいけない。

 だが、諸侯たちが帰るのを見送る仕事が残っているので、ルナは支度をベルに頼んだ、ベルはそりでシヴァへ先行した。

 ロッソは諸侯、王族に事件が起きたことを詫びて歩き葬儀への弔意や弔文を言付かっている。

 ルナは諸侯、王族の婦人方と別れの挨拶をし春にはパーティをする提案が誰からとも無くなされ、シヴァの城に花を敷き詰め行うことになった。

 日が沈むまでに、諸侯たちも帰路に着き、クロノスとシヴァの兵も通常警護の100名ほどを残し、本国へ引き上げた。

 ミハイル・ハドリアヌス帝とガリア王の一行がまだ残っている、明朝、ルナ達が帰国するときに一緒に出発する予定になっていた

 シヴァ・クロノスとダルヘンの中間地点ロッソが最初の緑の竜と争ったあたりにイシュタルたちは居た。

 遊牧民特有のゲルで野営する、ダルヘンから残り9千名の騎馬兵も来ていた。本営に居るのは、ゾイテル、ラハブ、グンターとハーゲン

 千人隊の隊長が十人誰も彼も大王、子飼いで、大王の命令には絶対服従だった者達だ。

 ゲルの中は思いのほか暖かい、テーブルに地図が広げられている
「この雪景色では地図が役に立たんな」

 ゾイテルがひとりごちた。イシュタルも地図を見つめる、シヴァの街、たとえ雪化粧をしていようとイシュタルには判る。城門を閉められ、飛び道具が出てきたら苦戦するだろう、イノシシ武者は強兵だ、アッチラスの兵と優るとも劣らない、それに城と飛び道具が加味されると侮りがたい敵になる。

 更に先ごろのクロイツェラーを防ぐために出丸や砦が築かれ攻め寄せた軍勢を効率よく殲滅するように考えられている。ロッソの軍事センスは天才的だ。

 グンターとハーゲンは新しい出丸や砦の内部を多少知っているがイシュタルは野戦に出向いていたから殆ど知らない。

 勝機は門を閉じられる前に少なくても、1000人以上のアッチラスを城壁の中に突入させること、それしかない。

帝国の端、フンガリアの国で生まれたイシュタルは、父、大王の血を一番濃く継ぎ、容姿は母に似て驚くほど美形に産まれついたのに関わらず、子供の頃から男勝りで、剣の立会いで居並ぶ勇者に遅れを取ったことが無かった。

 戦場に同行し父の戦をつぶさに観察し、成人する頃には稀代の戦上手、更に戦略を立てられる頭脳を持ち合わせ、何故おまえは男ではないのだと大王を嘆かせた。

 そんな彼女に帝国の有る大陸の外れ、島国ブラバスのシヴァ国の赤毛の王子の噂が聞こえてきた。 賢く気高く強く、そして国民に愛されていると・・

 絵姿を見た、燃えるような紅い髪に意思的な蒼い瞳が印象的だった。 それまで男には興味がなく、求愛されても、自分より強いことと条件を出し近寄る男を悉く打ち伏せてきた。

 この男なら私より強いに違いない直感がそう語った。この王子に逢いたいと思った。

 父から任された兵で東に国境を接する、エイジアの国を平らげ宮廷に戻ると父に神皇帝国ブラバスへ行くことを願った。

 すぐに赦され出立した、父は娘が黄金の国といわれるシヴァに嫁げれば上々、そうでなくても内情を探れれば、シヴァを手に入れ神皇帝国を侵略する足がかりになると踏んだようだ。

 イシュタルはシヴァへ赴くと当時新しく出来た神皇の街に娼館を造り、戦で奴隷にとったさまざまな人種の女をはべらせた、裸になると男は口が軽くなる。更に娼婦と戯れるとき、口のすべりを良くする酒が入る。

 更にあちらこちらで手下を使い、噂を聞き集め、また自らもシヴァの民と話をした。

 ジークフリート王子は既に父が無く、戴冠するばかりになっている、いつも兵と共に剣術や馬術の稽古にいそしみ、シヴァの街中にある公衆浴場や、城にある大浴場で兵と共に入浴したり、時には一緒に娼館へ遊びに行ったりしていること。

 農作業のある時期には農民に混じり共に作業をする、気安く殿様と呼ばせ、農作業のときは下働き同然にこき使われている。

 剣術の稽古も馬責めも特定の場所でするのではなく、城塞を出て、兵と共に野山を駆け回っていたから、それが見渡せる場所で、それとなく観察した。 剣も馬も見事としか言いようが無い、ある意味淡々とそれでいて、全てに達人の切れを垣間見せる。

 立ち会ってみたい、イシュタルは思った。

 観察をしていて、ある事に気づいた、馬責めの後、必ず立ち寄るところがある、街道、シヴァとクロノスの追分にある菩提樹のある泉。

 そこへしばしば出向き、鹿毛の駿馬を休ませて佇んでいる。何をするわけでもない、或る日イシュタルは、その意味に気づいた。隣国の公爵令嬢、ルナが侍女を一人だけ連れて、薬草採りの帰りに泉で薬草を洗う、顔を合わせると、挨拶をし談笑しているのだが

 幼馴染らしく気安い物言いが言い争いになる、令嬢は気が強いらしく、大方ロッソが言い負かされて終わる。

 だが、2人は終始楽しそうだ、はたからみて、じゃれている感じがする。

 アッチラス家は元々オリエントの魔法、陰陽を良くする。幼い頃から魔法を通じて精神世界を学んだイシュタルには、2人が惹かれあっているのが見えた、惹かれあう2人からは丸い“気”が出て、一つに重なり合おうとする、重なり合うところで凹む、そして下点が尖る、つまりハート型になるのだ。

 それに気づくとイシュタルはなんとなく面白くなかった、むしゃくしゃしながら歩いていると、神皇区の街で傭兵くずれの3人に絡まれた。 憂さ晴らしに手ごろだと踏み自ら人の来ない裏へ誘い叩きのめした、そのときに一計を案じ、ルナが時折、侍女だけを連れて泉を訪れることを教えてやった。

 手下を使って見張っていると、傭兵たちはそれから毎日のように教えた時間に泉を覗きに行っていた。

 傭兵どもはルナと邂逅する、手篭めにした後人質にとり、身代金を取ろうと算段したようだ。

 ルナは蒼ざめたが、歯を食いしばり、悲鳴も上げず質素だが作りの良い短剣を構えた。ルナの侍女が悲鳴を上げる。 イシュタルはルナの気がロッソに助けを求めているのを見た。

 鹿毛のひづめの音、想いが届いた。 ロッソは稽古でもするように、あっさりと3人を斬り倒すとルナと侍女を連れて去った。

 その鮮やかさ、さわやかさ、イシュタルにはロッソの一挙手一動が他にないほど好もしく思えた。

 イシュタルはこの瞬間から本当に恋に落ちた、初めて罹る恋の病、赤毛を思うだけで鼓動が早くなり、街を歩くときに一目でも逢えぬかと、いつも探している、遠くに鹿毛に乗った赤毛を見るだけで、その日一日嬉しくて心が弾む。 
 これは、なんと楽しいが、なんと苦しいことなのだろう、一体私は何がしたいのだ?

 イシュタルは自分の心に聞いた。だが、答えは得られない。恐らく赤毛はルナとつがうのであろう、ならば、私が入る余地はないのか?恋に晩生なイシュタルにはいかんともしがたい。

 また、引き連れてきた手下の誰にも相談することが出来ない、オリエントの魔法で占ってみたが、自分の恋の行方は全く見えなかった、イシュタルには女のほうからアプローチするなど思いもよらぬ、思い余って、気持ちを満たすのにどうすれば良いか,娼婦に聞いた。

「そりゃ、好きな男に抱かれるのが一番でありんす、それに勝る幸せはありんせん」

 イシュタルはたびたびシヴァの国へ出かけ、ロッソが剣術の稽古をする場や馬責めをするヒースに出かけた。

その秋、小麦、葡萄、作物を作物倉に収め、収穫祭。 酔ったロッソが歌い踊り喚いた。

「嫁を貰うぞ!!」
 その場に居たものが大いに湧いた。クロノス公爵令嬢に申し込み、諾と答えを得たと言う、大騒ぎになった、ビールを掛け合い、命の水をがぶ飲みし、つかみあい、押し合いへしあい、皆がロッソの嫁とりを喜んでいた。ロッソもウィスキーを大量に飲んだ

「殿様、嫁貰うと、女遊びが出来なくなるぞ」
 ふいに、そう声がかかった、イシュタルは手下にそう言わせたのだ。そうだそうだ!!男衆が同調する。

 ロッソはビアカップにはいったウィスキーを高く掲げた

「女を買いに行く奴着いてこい、神皇区の娼館まで走れたら、俺が奢ってやる」

 カップを全部飲み乾すと、いきなり走り出す、ロッソが走り出すと100名近い若い衆が後に続く、ざっざっと足並みをそろえて街道を走る。シヴァの街から神皇区まで10kmの道のりを女を求めた男が走る。

 イシュタルは馬に飛び乗ると神皇区へ走った。

 当時、神皇区に娼館は2つ、ロッソがエデンの都のバサラ町の元締めに遣らせているものとイシュタルがアッチラスの資金を使って経営しているもの。

 ロッソはどちらを選ぶか、ロッソは、まずバサラの娼館に飛び込んだ、エントランスに立ち次々入ってくる仲間を迎える。

 イシュタルの娼館にジョナが来ていた、今、客のついている女と予約が入っている女を除いて貸切にしてくれと言う。 主人役の配下が承知すると、バサラを満杯にしたロッソがやってきて仲間を迎える。

「これで全部かな」
 ロッソは呟くと主人に向いた。

「よろしく頼む、代金は後ほどバトラーが届ける故」
「かしこまりましてございます、時に殿様」

「なんだい?」
「殿様は遊ばれませぬのか?」

「嫁を貰う前に遊び納めをしようと思ってやってきたのだが」
「如何なされました?」

「これだけ客が多いと、おなごが疲れるであろう、気の毒ゆえ遠慮いたす」
「お茶を挽いている子がいるのですが」

「はて、面妖なこちらの店は美人ぞろい。いつも繁盛していると聞いているが」
「実はえり好みの激しい女で・・・」

「あはは、では上げて貰うとするか」
ロッソは廓に上がった。

最上階の一番広い部屋、窓は全てカーテンを垂らし、光が入らぬようにした、紅い蝋燭を一本だけ。

 イシュタルは素肌に薄衣だけをつけ、砂漠の民のチャドルを被った。明るければ全裸と変わらぬだろう、娼婦に手伝わせ、いつもはせぬ化粧をし、紅もひいている。

 初めて胸をときめかし、長いすに座って待っていた。大勢の男が走ってくる規則正しい足音が聞こえる、ロッソの声、店に入ったようだ。イシュタルは少し緊張した。

 暫くしてドアがノックされ、娼館の主人が、おとないを入れたドアが開きロッソだけが入ってきた。

「こんばんは」

 普通で気さくな声、ロッソも湯浴みの後、着替えたか薄衣だけ着けている、あれだけ飲んだのに酔った様子は全く無く、大またで長いすのイシュタルの前に立った。

 互いに表情の読めぬほどの明かり、2人きりになったことに乳房の奥の心臓が早鐘のように鳴り出した。

「隣に座ってもよいか?」

 こくりと頷くと、そっと左側に座った、湯上りの男の肌の香り。

「初めましてだな」

 朗らかな声だが意外に低い、それすらイシュタルには好もしい、下で湯を浴びた際に香を焚かれたのか、ふわりと香った。

「暗い部屋だな、暗いのが好きか?」

 部屋を見回して言う、イシュタルは頷く。

「本当に肝心なことしか見えないではないか」
 それは?とイシュタルは鳶色の瞳でたずねた。

「そなたがとびきり美しいということさ」
 こいつ、心で呟いた、父以上の女垂らしか、それでも頬が熱い、私は褒められて嬉しいのだ。

「祭りの夜なのに客をえり好みしているそうだな、大層な身分だ、俺は追い出されなくて済みそうか?」
 もちろんだと思いながら、我ながら可愛らしく頷いた。

「無口だな、おぼこのように態度も硬い」 
 ぎくりとした、とりあえずロッソの右胸に頭を預けてみる。ロッソは微笑んでいる、見なくても判る、優しい波動をしている、自慢の黒髪を撫でてくれた、今まで男に触れられることも嫌だったのに、今、こうしている。身体を接し安心している。

 いったいこれは何だろう。左頬にあたたかな手があたった包むようにされて、唇が近づいてくる、おもわず目を閉じた。

 男の唇に下唇を挟まれて唇を重ねられた、舌がそこへ入ってくる、閉じた歯をそっと舐められ、舌先で穿つようにされて歯を開く、太い腕に身体を抱きしめられて、頬を包んでいた暖かい手が背中を撫でている、あぁ、暖かいと思ったら、力が抜けた。

 舌と舌が遊ぶ、ロッソにリードされて舌が口の中を可愛がっている。うっとりと委ねているだけで心地よさにたゆたう。

 そっと抱き上げられた、寝台に運ばれる、イシュタルは気を飛ばして蝋燭を消す。鼻をつままれても判らない闇、ロッソは驚かずに笑っているのが気配でわかる。

「そなたが嫌なら、添い寝するだけでよいぞ」
 イシュタルの気を感じたのか低い優しい声、首を左右に振った。広い額を暖かな手が撫でる。ロッソは目で見ていない、心で見ている、心の中にある想いを広げ見ている。私と同じで、額に心の目があるのか?

 ロッソの唇が鼻の頭に乗った、次に頬に押し付けられた、慈しまれている、うたかたの恋なのに、なんて優しい。

 たまらずイシュタルは腕を伸ばすと太い首に巻いた。

 頬に手を置かれる、耳を指で挟まれる、首筋に指の腹がすぅっと通る。鎖骨にたなごころ、薄衣の上から身体を撫でられる、王族にしては農夫のようなごつい手だ。

 イシュタルを毀さないように気遣い、可愛がるようにそっと。そうされていると興奮するのに落ち着く、ときめく妙な気分。

 乳房が張ってきた、乳首が立っている、荒くなってきた自分の吐息が闇に聞こえる。

 薄衣が捲くられた、チャドルもはずされる、寝台の外へ投げられたようだ。素肌に手が直接触れる、たくましく暖かい。

手のぬくもりが身体の芯に沁みてくるようだ、頬が熱い。身体も熱い腰が充血している、脚の間がぬらりと、太ももまで濡れた。

 キスをされた、舌がイシュタルの口の中で遊び、手が体中をまさぐっている、肌を撫でる指の腹が嬉しい、それが少しも嫌ではなく、心地よくて、いつまでも続けられたい、乳首に唇が被さった、舌先がころがすように動く、乳首の芯から子宮へ何かが走り、ずんっと響いた、歯を食いしばって声を堪える。

 愛しげに交互に乳首を吸われる、細い指で見えない赤毛を撫でる、髪の匂いがした、かすかに男の汗、

 弟以外の男をこんなに愛しいと思ったのは初めてだ、乳房の谷間に舌が走り、ぞくっとした。 乳房を両手で包まれながら、臍に舌。くすぐったくて身をよじったら、今度は腰骨を舐められた。アマ噛みをされると太腿まで痺れて、脚の間から恥ずかしいくらい蜜がこぼれた。

 ロッソの身体がずれていく、両足を持ち上げられ開かされたと思ったら、ロッソの肩に太腿の裏側が乗った。 うすぼんやりと足の間に顔がある、恥毛のうえに鼻が乗っているのだろう、呼吸を感じる。尻の穴と性器の間に尖った舌が、こそこそとくすぐるように蠢いた。

「あっ」
 初めて声が出た、胸には大きな手がのり、さするように優しく愛撫している、乳首がこれ以上無いほど勃って硬くなる。

 肌から汗が出ている、誰にも許したことのない大切なところにキスをされて、舌が入ってくる、そのまま持ち上がり、舌先で皮を押しやり、敏感な肉芽をそっと押すように。

「あっあっああっ」

 ロッソの肩に乗った腰が不随意に踊る、無我夢中なのに恥ずかしさを感じる、男と交わるとは、こんなに心地よいものか、恥ずかしいさも嬉しさに変わっていく。

 明かりが点いていたら尻穴まで曝す事になる、それは耐えられぬ、嫌、いやだけれど、ロッソには見えているかもしれない。嫌。

 あぁ、でも続けて欲しい、思いが届いたように舌先でクリトリスをそっと押される。
「んっんっんっあぁああああああっ」

 シーツを思いっきりつかみ、腹筋にぐいっと力が入った、ロッソの顔を思い切り太腿で締め上げていた、足がまっすぐにぴぃんと伸びきる。

 頭が真っ白になった。気がつくとロッソは左肘で枕をして、イシュタルの髪を撫でていた。

 腕を伸ばして首を巻く、ロッソの掌が肌をそっと撫でる。イシュタルの身体は気を遣る前より敏感になっている。くすぐったさが後退し快感が高まってくる。

「そなた、おぼこであろう初上げが私で良いのか?」
 ロッソが唐突に聞いた。イシュタルは驚いたが、懸命に頷いた、貴方にこそ抱かれたい

 良い噂に心を惹かれ絵姿を一目見たときに既に恋に落ちていたのだと気づいた、きっとこんなことになるのを予め知っていて、情報を集めるのに娼館を造ったのだ。

 どんな形でも良い女として抱かれたい、それは強い思いだった。ロッソが頷いたように思った。体を換え、イシュタルの上に来た、左の足を右腕でそっと抱えて開かせるとその間にロッソが腰を入れる、ゆっくりと押し当ててきた。

来る・・・思った。

 次の瞬間ぬらりと受け入れていた、気をやっているので、とても感じた。恥骨と恥骨が押し合う、受け入れている、私の中に男が入っている。

 体重をかけないように突いた腕を、イシュタルの身体に廻し抱きしめてきた、かすかにかかる男の重さが嬉しかった。

 ロッソの腰がゆっくりと動く、それだけでイシュタルの身体の中から快感が炎のように立ち上がった、くちづけをされると、下腹部の快感が体中に廻る。
「んっんあっんっ」

 抑えても声が止まらない、気遣いながら労わるように慈しむように動いている、守るように抱かれている、女の悦楽の深さに驚く。

 男とはこうしたものか? 感じながら、刹那に全ての思いが言葉になって頭を廻る、やがて、それが立ち消え、白い光が上ってくる、幅の広い引き締まった背中を、しっかりと抱きしめしがみついていた。


 何度も何度も押し寄せる快感に絶頂を迎え、息が激しくなり、奥に押し当てられて何かが中で爆ぜたと思ったら、気を失っていた。

 まぶたに光を感じて目を開くと、ロッソが窓を開けて窓際に座っていた。身体を覆うように薄衣を掛けられていた。

ロッソはこちらを向いて微笑んでいるが、逆光で姿は見えない。 黄金色の月をバックにシルエットになっている隆とした男、寝台に戻ってきた。

 先ほどのように肘枕をしてキスをしてくれた。


「そなた、馬と剣をするか」
 笑っている、嘘をついても仕方が無いので頷いた。

「初めてでも痛くはなかったか、よかったな」
 こくりと頷く、また口付け、乗馬に使う腹筋をそっと撫でられた。

「アッチラスの国のものか?」
 ぎくりとした。

「お前が眠っている間見せてもらった、守り刀がジャポネスクスタイルであった、馬上で片手で振るのに使いやすそうな反りがついている、使った後に研ぎも入れてある、眼福した」

 イシュタルはただロッソを見つめた。

「あの刀を真似て剣を造っても良いか?」
 ロッソはあくまでもにこにこしている。

「ありがとう」
 イシュタルが頷くと嬉しそうに礼を言った、その剣は今、イノシシ武者たちの腰にある

 先日のクロイツェラーと騎馬戦をするときから、実戦配備されたジャポネスクスタイルに習い、しなやかな刀身にカミソリのような刃、鍛え上げた鉄、熱鍛造の後に冷鍛造を重ね鍛えに鍛えてあり、砂漠に移ってしまった本家のアッチラスの刀を凌駕する。

アッチラス出自の東の島国での刀と遜色のない出来だ。

 イシュタルの記憶は続く、そのあと見かけたのは、確か結婚式の前日だった。ロッソは森で立会いをしていた。相手は槍の名手らしく鋭い突きを繰り出していた。
 槍の男は隻眼隻腕だった、ロッソが槍のけら首を切り落とし、勝負はついた。男は立ち去り、ロッソは男が残した穂先を持ち帰った。
 ロッソに顔を見せたのは1本の蝋燭と月明かりの中で僅かだし、一言も言葉を交わさなかったから、あのときの娼婦が私だと今も判っていないだろう。

 だから、結婚式のときに祝辞を述べても、はじめましてと言われた、その隣には初々しいルナが居た、私は何かを盗んだのだと思った。

 結婚式でクロノス公爵、グンターに見初められ公爵家に招かれた、なんとなく逗留しているうちに、何を思ったか、グンターからプロポーズをされ、何も考えずに受けた。

 グンターと結婚して式をあげ閨に入ったが、女に臆したグンターの様子に嫌気が差し身体に触れさせなかった。 あまりしつこく迫るときは縛り上げて柱の梁につるした、自分より弱い男に抱かれたいとは思わない。

 何か心に大きな穴が開いたのかもしれない、次の満月の夜、男が欲しくなりハーゲンに求められて身体を許した。
 気づいたグンターに閨に踏み込まれたが、ハーゲンを制しグンターに当身をあてて、また柱に縛り付けた。

 グンターの目の前でハーゲンに抱かれた、男に抱かれて身体は背徳の快感に上り詰めたが、心はどこか醒めたままだった。身体と心が乖離し、ぽっかり開いた心の穴が更に大きくなった。
 やがて、ハーゲンも拒んだ、巨大な体と腕力に物を言わせて力ずくで求められたがアッチラスの体術を使うと図体と力だけのでくの坊だった。

 ロッソが総大将でクロイツェラーに行くと聞いたので、参陣を申し入れた。 受け入れられ共に戦場を駆けた。内緒の参陣だったから、ロッソのテントで寝た、義姉であるイシュタルにロッソは指一本触れなかった。 同じテントで寝るだけで、イシュタルは女の証で脚の間を濡らしていたのに。
 完全に戦友として扱われ、戦略的な相談も受けた戦のことであっても、ロッソが自分を必要としていた、身体の火照りが収まり、血が騒いだ、嬉しかった。
 共に闘いひりひりするような生死の狭間を共にくぐった、それは閨の快感を遥かに上回る歓びだった。 ロッソの作戦と采配は見事だった、ずっと見つめていて、角笛やドラムスの使い方まで直ぐに覚えた。
 新兵器をつくりあげ、実戦毎に改良を加え威力を増し、味方の損害を最小限に防ごうとする姿勢も好ましく新しい。

 父のアッチラス大王は蛮勇と兵の強さだけを武器に突っ込み殺すことしかしない。 ガリア・ラテンあたりの騎士は槍で突っつきあい、遊びのような戦争しかしない、ロッソの戦い方はイシュタルと共通点が山ほどあった。

 今度はロッソがクロイツェラーの標的にされた、ロッソは少しも動じなかった、 予見していたが故の新兵器でありセイワーやカンムー本家を予め叩いていた。
 父に援兵を借りに行ったとき、三千の希望に一万連れて行くように言われた、そして、場合によってはシヴァ王を殺せと、ぼんくらなハドリアヌスに代わりシヴァ王が帝国の実権を握ったら、フンガリアはじめ、エイジアの国々まで危うくなる。
 それは父が自らの心根をロッソに投影したための恐れであった。ロッソは帝国全てを望まず、それどころかブラバス諸島の実権もマサカド・カンムーに譲った。

 シヴァの国でルナと楽しく過ごせればそれで良いと言う。 自分もロッソ、ルナの義姉で居て楽しく過ごす事が出来るか自問し、グンターと子を為すかと思い始めた矢先、父がシヴァの神皇区で殺された。

 父はロッソの招待に乗じ一万の兵で帝国を掻き回し、ブラバス諸島併合のために橋頭堡を造ろうとしていた。
 ブラバスから帝国を追い出し、ロッソと手を組みエイジアと九十度の角度で帝国を挟み睨みを利かせれば脅威も無くなり、また、いつでも帝国を手中にできると踏んでいた。
 招待されたパーティでロッソの手配で帝国がブラバスから撤収することを知り、父は衝撃を受けた。

 ロッソを見ていれば、アッチラスと同盟を組み帝国にあたるつもりが無いのは明白だ。
 大王は混乱した、敵は全部殺す、味方も疑わしいものは敵として殺す、そうやって身の安全を図るしかない。父はそうした生き方をしてきた。だから、ロッソの遣り方は理解できず何かを企んでいると決め付け、怯えて暗殺にも気を配っていた。
 また、魔法にも留意して帝国一と歌われる魔法使いの巫女を手中にした、だが、大王は殺され庶子とは言え、子であるゾイテルはロッソに暗殺されたと色めきたった。

 今、ゾイテルはアッチラスの騎兵一万でシヴァを攻めると言う、大王がブラバスで一番望んでいた黄金の国、シヴァを手中にして黄金をアッチラスのものにする、そして驚いたことにグンターとハーゲンも反対するどころか、こちらに乗ってきた。

 クロノスの兵も見捨ててかまわないという、兵たちは何度かシヴァの兵とクロイツェラーに行きロッソの魅力に惹かれ、実際、クロノス領からシヴァへ移住するものが兵だけではなく、農民たちも後を絶たない。

 このままではクロノスをロッソに乗っ取られるとグンター、ハーゲンは既に、自分の国を見限り異民族であるアッチラスに尾を振る犬に成り下がっている、妹のルナが夫と死地を共にしたのを思えば、なんという唾棄すべき存在だろうか。

 なのに何故私は、その存在とこちら側に居て、あちら側で何も知らないロッソとルナを攻めようとしているのか、ルナと睦むロッソへの嫉妬か?そうは思いたくない、イシュタルには自分の気持ちがわからなかった。

 幼いラハブのため?祖国の為そうだろうか?

 シヴァ、彼等は、わがままをして原因不明の死に方をして、壊された父の遺体を綺麗に修復し、礼をもって送り出してくれた。ロッソは真相を探してくれると言う。

 シヴァの国民と皇帝、帝国の諸侯は父の人としての尊厳を敬い愛を見せてくれた。
 やはり神皇を名乗るだけの事は有るのだ、アッチラスには何が有る?

 イシュタルはゲルを出て、雪原を照らす弓張り月を見た。蒼白く光る雪原、一万の兵の気配、森に住む動物の気配、風が梢を揺らす。きんとした空気。
 アッチラスは千年近く戦い、騙しすかし貪り続けてきた国だ、殺すためのノウハウ
騙す手法、そういうものでフンガリアを築いた。

 東の島国を追われた祖先が創った祖国にはこの空気のように冷たい物しか無かったのではないか?

 ロッソに抱かれたときの暖かさ、シヴァに参陣したときの楽しさ、戦へ行くのでも、愛するものとサイドバイサイドで馬を駆り、互いを気遣い死地へ赴き、生還する歓び。

 ロッソが言う、それぞれの胸の中に神を感じ何になりたいかを実現するための戦い、イシュタルが知らなかった世界。

 だからこそ評判でロッソが気になり、絵姿に惹かれ一目見て恋に落ちたのだろうか、誇り高い自分が側室の1人で良いからとさえ言った、さらにそれを断られたのに腹も立てていない。

「私は変だ」
 声に出してみた。

 私は何になりたい?ロッソと暮らしたい貧しくてよい、ロッソの子を産み暖かな家があれば他に何も望まない。
 きっとルナもそう思っているのだろう、その口から直接聞いた事も有る。なんてうらやましいのだろう、ルナは望めばそれが出来る自分は出来ない。
「思い通りにならぬ」
 また声が出た。義姉、義弟として過ごすのも良いかと思いかけたのに、それも叶わぬらしい。
「んふふふふふ」
 雪原にイシュタルの笑いが響く。すっかり馴染んでしまったシヴァの黒い軍装、胸で紅いイノシシが踊っている。

 明日は着替えねばなるまい。 戦場でこれでは味方に討たれかねない。ロッソは決して降伏をしないだろう、ならば、せめてこの手で・・・
 イシュタルは、あのときロッソが閨で改めた刀を抜いた、刀身に蒼白い月光。 
 翌、夜明けから進軍を開始した。日が昇らなくても雪明りでほの明るい中を、黒いアッチラスの軍装が進んでいく、漆黒の胴を着け、だぼっとしたオリエントの服を着ている。中に空気が留まるので暖かいし、相手からは大きく見える、布がふわっとしている分、実体が判り辛く斬りあいに有利だ。

 腰にはジャポネスク・スタイルの刀、皆、馬上用の半弓を携えている。一面の雪原、雪盲になりそうなのを、目を細めて堪えながら馬に揺られる、イシュタルはロッソとの邂逅を反芻していた。
 たしかに、相談した娼婦が言った通りロッソに抱かれて、心が満たされた、暖かいものが溢れ、その時だけはルナに嫉妬することも忘れた。

 暖かいものが溢れている間は気持ちも満たされ、落ち着いていたが、盗んだと言う意識に、ほんの少し渇きを覚え、そばに居たいと思った。
 ただ、ロッソの傍に居たいだけの理由で、いや、ロッソの義姉になれるという理由でクロノスに嫁いだ。



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