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「こひこひて あへるときだに うるはしき ことつくしてよ ながくとおもはば」
 万葉集でこの和歌を見つけた。
「恋焦がれてやっとあえたのだから、私と永く居たいと思うなら、美しい言葉を尽くしてよ」

 ちょっと前、平成の真ん中くらいまで、結婚相手は2番目に好きな人にしなさい、なんて言われたものさ

 その方が冷静に相手を観られる、結婚生活と言う経営も上手く行く、利いた風な戯言がまことしやかに

 確かに自分の母親の事を考えると、そうなのかもと想う、俺の母親は若い頃は映画俳優並みのルックスだった親父と一緒になり、姑嫁問題で、どんなにいびられても鮮やかにやり返し、そのうちボロが出た親父の尻を叩き、実家から資金を調達して事業を起こさせた。

 親父は見た目と見栄だけでポンコツだったから、母は、それは苦労した、会社に入社させる従業員を自分の母校から呼び、家族経営の弊害が出ないように気づかい、20人ほど居た従業員の仲をとりもち、調整をし、我儘でワンマンな親父のせいで社員が辞職すれば、その穴を埋め、社員を募集。

 そんな中、子供が5人居たものだから、その能力は大抵のものじゃなかったのだろうと、大人になってから想う。

 長子だった俺も学校、部活から戻ると夕飯を喰って、勉強前に会社の掃除に駆り出され、商品が入る日は部活を休んで荷物を担いだ。

 ある商品の海外有名ブランドを一手に引き受け会社は大きくなっていったが、そこはポンコツ親父の事、やらかした。

 ブランドの商品を親父に扱わせてくれた友人を裏切った。 簡単に言うと高級車だの贅沢品を買いすぎ、支払いが数回遅れた。

 ブランドのオーナーは気が短いのは業界で有名で、母が何度も親父に注意していたのだが、聞く耳持たず、ブランドは総合商社の扱いに。 そこから会社は縮小の一途。

 俺は学校を出てから会社を手伝うつもりでいたが、見切りをつけていた母の勧めで外へ

 数年後 首都圏の他社で働いていた俺に母から電話
「奥山さんが辞めるって」
 会社は創業時からの番頭格にも見捨てられた、俺は東京に戻った。

 それから黎明期のネット通販等を手掛け、そこそこ稼いでいたのだが、またまたポンコツ発動。
 バブルの恩恵に浸りたいらしく、先物、信用買いだのを、おっぱじめてくださった親父。
 あっと言う間に借金まみれ、会社に証券会社の営業が追証を求めて突撃してくる事多々、仕事になりゃしないし接客の邪魔 

 突撃してくる証券マンを迎撃しながら、俺と母で仕事を続け、何とか下の妹達が最高学歴を卒業するまで頑張ろうと日々、仕事に励んでいた。

 一回り年の離れた妹が最高学府を終える、ちょっと前、俺が嫁を貰った。
母が苦労をしているのは、なんやかや親父に惚れているからだろうってんで、俺は2番目に良いと思った女を選んだ。

 俺が嫁を貰い、長女を為し仕事に精を出していたら、母は少し安心して、町会だの信用金庫の旅行会だので海外旅行を年に数回楽しむように

 ポンコツ親父はと言うと、とうに母に見限られ、部屋だけは立派な社長室に籠り、掛け軸の名画数点の前でシガーを吸いながら
「やだな、死にたいな」 という呪文を唱える毎日。

 がっちり体型を継いだ俺を肥満と罵ったついでに、自分は脂質カットダイエットにいそしみ、10ヶ月程で20㎏体重を落とした、元々筋肉質な我が家系、体脂肪も高い訳じゃないのに無理にカットすれば弊害が出る、肝臓のダメージ、インシュリン代謝の異常。
 栄養士の資格もちの母は止めたのだが、強行したので、当然健康に問題が、糖尿病を発症。
 ますます毎日
「やだな、死にたいな」
ハバナをスパーっ♪

 こいつ、バカだったんだと再確認

 そんなバカが生き生きしだした。 母が病に倒れた日に、入院準備で俺が留守な会社にカチコミ会社の通帳を残らず持ち去った。

 母は末期癌だった、3~6ヶ月の余命と言われ3ヶ月で逝った。

 母は強い人で、どんなときも痛いのへちまの言わず、俺が子供の頃から暮らしていて寝込んだのはたったの3日、軟骨が出てしまうような捻挫をしても新宿警察の近所に有った接骨院に通いながら子育てをしていた。

 その母が痛がり、うわごとを言い、唇をぷるぷる震わせて苦しんでいる。痛いよと呻く。痛み止めが効いているときは朦朧とし、切れると痛がる。こんなに母が苦しんでいるのに俺は何も出来ない、そして俺は痛くない、痛みを感じられたらどんなに救われたか。

 そのくせ、母はカテーテルを着けましょうと言う医者の提案をきっぱり拒否。 欲求の起きたときだけ、妙にはっきりした口調で、

「ハル、トイレ」と俺に命令する。

 骨と皮になった手でベッドの手すりを掴み気丈に上半身を起こす、ベッドに座り、やっとの思いでスリッパに足を入れる。

 俺に手伝わせてなにがなんでもトイレに行く、特別室の中にあるトイレまで2m半、とぼとぼしか歩けない歩幅で10歩、がんで痛む身体には辛い旅だろうに。

 元気な頃から、冗談で死んでもオムツの世話にはならないと言っていたのを見事に通しやがった。

 座薬のボルタレンも溶けないくらい体温が下がり、モルヒネしか効かない、モルヒネが効くとしばし平穏を取り戻し眠りにつく、1時間持たずに切れて呻く。呻き声がずっと続くようになった。

 時々悲鳴が混じる、意識は朦朧としているが、かなり痛そうだ。

 ナースコールを押し、モルヒネを点滴に入れてもらう。

 効いている間はうつらうつらする、切れると呻く、モルヒネを入れる間隔が短くなっていく。

 知っていた、モルヒネをどんどん増やしていけば、やがて死ぬ。そして数回目これで死ぬことをなんとなく認識した、だが頼まずには居られなかった、なんとなくが確信に変わる、これを入れてもらったら死ぬだろうと思った、ナースに頼んだ。

 点滴のサイドからピストンでモルヒネを入れる、何度か痰が絡み息がつまって苦しそうだ。

 ナースを呼んで痰を吸引してもらった、壁から伸びたチューブで掃除機のようにじゅじゅっと吸い取る。

 モルヒネが効いて大きく息をした、がさがさになった冷たい手を握る、おかあさんと心で呟いて次に言葉が出た。

「おかあさん、産んでくれてありがとう育ててくれてありがとう、舞と真央を看てくれて有難う」

 唇からこぼれ出した言の葉、力のなかったしなびた手が俺の手を掴み潰すくらいの力を込めてきた、俺も手を握り返す、ぼろぼろになった自分の母を見つめた。

 ふと気づいたら息をしていない、ナースコールを押した。廊下で自宅をコールし、急を知らせた。

 看護師が3人来て、直後に宿直の医師も来た。4人がめまぐるしく動く、母の前をはだけ、大きなパッドをこすり合わせAEDを掛けた、カンフルの注射、手を尽くしてくれている。

 親父が来ない、妹たちが来ない、間に合わない。家から病院まで早朝4時なら車で5分、母に待ってくれるよう頼んだ、呼びかける度モニターの波形が動き出す。

 何度かあっちから戻ってきた、俺は15分も引き止めてしまった。

 モニターに映る心電図が苦しそうにぶれる、呻いている、苦しがっている、皆が来ない。

「もういいよ、おかあさん」

 そう言ったとたんに、心電図がフラットになり心拍表示が0になる、楽になってよ。母は逝った、俺が殺した上に最後は苦しめた。

 患者の死に慣れているはずの3人のナースも目に涙を浮かべていた、泣いてくれた、母はここでも愛されていた。

 40分後親父は来た、髭をあたり、筋の通ったウールのズボンにピカピカの革靴を履いて、吐息はコーヒーの香りがした、妹達も死に目に間に合わなかった事を悔いるでなく、エンバーミングにけちをつけていた。

 親父や妹たちにとって母は愛する対象ではなく、愛してくれる都合の良い存在、病を得て愛する力が減った母は彼らには価値の無い存在。

 母が病に倒れてから元気に為った奴が、もう一人。 俺の妻だ。 2番目に佳いなと思った女を俺は選んだが、妻にとって俺は2番目ですら無かったらしく、新婚生活は妻の親戚まみれ、新婚家庭に毎週末妻の親戚が関門海峡の向こうからやってくる、入れ替わり立ち代わり。 あいつの一番は親戚の中で良い顔が出来る自分。

 妻の父方兄弟9人 母方兄弟11人だから仕方ないのかもしれないが、新婚生活で楽しかったことが今でも思い出せない。

 親戚との付き合いは強要されるものだと、初めて知った。

 更にまずい事に、妻は俺の親父に似ていた、性格が。 自己顕示欲が強い、ほら吹き、自己承認欲求が満たされないと暴れる、相手を従わせる為なら、手段を択ばない。

 夫婦間のセックスを、俺を従属させるために、ほぼレスにし、自分が欲しい時はこちらの都合はおかまいなし。

 それでも二人の娘を得たから、まぁよしとしようと思っていたら、母が逝ったとたん、俺が弱ったと思って暴れ放題。

 性格が俺に似ている上の娘は虐待するわ、やりたい放題。 俺も俺で、新婚当初の親戚介入齟齬が有ったから、妻に惚れておらず、怒りを感じる事も無く、どうやって上手に離婚しようか頭の中でチャートを描きだした。


 


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