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食いしばる系「がんばる」をやめて、フラットにがんばりたい。

日々いろいろありすぎて、追いつかなくなってきた。

昨日は、行きたくない行きたくないと言っていたけれど、学校に連れて行った。
案の定入り口で抵抗し、別れ際は泣き喚いていた。
だけど、学校に入ってしまえば、なんだかんだと言いながらもそれなりに楽しく過ごしてくるのだ。


学校に行きなくないなら、無理に行かせなくてもいい


という考え方も、多いように感じる。
ただそれって、本当に子ども1人1人ケースが違うわけで、
「行きたくないと言ってるから」と、安易に不登校を選択するのは、やっぱり違うと思う。

うちの子の場合は、朝の「別れ際」さえクリアできれば、過ごして来れるのだ。

無理してるのではないか。
本当はすごくストレスを感じているかもしれない。

かもしれない。
かもしれないよ。
でも、わからない。

おそらく定型発達だった私には、特性のある息子の頭の中を想像してみても、
考えることの次元が違うのだから、想像自体が無意味なのかもしれない。
ふと、そう思った。
理解を放棄するということではない。
寄り添うけれど、共感することは諦める、と言ったらいいだろうか。


そんなふうに考えが至ったのは、昨日の帰り、特支の先生と話をしたからなのだ。
いろいろ話を聞いて、
ああ、そうか。
自分の脳みその物差しで考えちゃダメなんだ。
この子は私とは違う。
この子を幸せな人生に導くためには、自分が生きてきた道、通ってきた道をなぞるだけじゃダメなんだ、
知識とテクニックがいるんだな。
そう思ったのだ。

自分の子どもを育てるのに、テクニックが必要になるなんて思わなかった。
なんか、他人の子どもを育てるみたいだな。
動物のしつけみたいだな。
機械的で冷たい感じで嫌だな。
そういう抵抗感がある。
でも、それが必要ならそれしかないのだ。


正直、特支の先生のことも、心から信用しているわけではなかったんだ。
仙台の場合は、特支の免許がなくても特支に配属される。
だから、先生がどこまでの専門性を持っているのかもわからないし、
どこまで任せていいんだろう。

でも、話しているうちにだんだんわかってきた。
多分、この人は信用できるだけの知識と経験、そして子どもたちへの愛情を持っている。

もう「信じる」しかないのだ。
病院に行っても、期待したような結果は得られなかった。
本を読んでも、ネットを見てもよくわからない。
自分の頭で考えるには限界がある。
それならば、もう「信じる」と決めて、乗っかるしかないのだ。
間違っているかもしれない。
やってみた結果、ダメかもしれない。
それでも、「信じる」と決めた。

「学校と家と、協力して同じ方向を向く必要があります。家と学校が違うと、子どもは混乱します。」

その通りだ。

だからもう、考えるのはやめた。
うちの子は普通じゃない。
だから、専門家に教えを乞おう。
変な意地を張らず、素直になろう。

そんなふうに、腹を括れた。


結局、心の奥で、子どもに障害があることを受け入れられてなかったんだ。
「凹凸があっても、通常級で普通にやっていくお子さんです」
って言われたし、だから全然大したことないんだと思ってた。

2年生になったら急に状況が悪くなって、そしたら特性なんだろうなと思うものがどんどん出てきて強くなって、
私はもうどうしていいかわからない。


だけど、
生きるって楽しい。
人生って楽しい。
そう思って生きて行ってほしい想いに変わりはない。


家族みんなで幸せになりたい。


だからがんばる。
今までの私のがんばるはどちらかと言えば「食いしばる」系のがんばるだったけど、
ちょうどいい言葉が見つからないけど、
なんかフラットにがんばりたい。

ここで言うがんばるは、なんだろう、1mmでも前に進むってことかな。
辛い辛いというだけじゃなく、なんでもいいから何か行動するってことかな。




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