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オ 講座と法話

初めて築地本願寺に連れて行ってもらって違和感しか感じなかったスタートから、その違和感のチューニングのために仏教文化講座に通い始め、そこから自然の流れで仏教学院の通信教育を受講することになり、しだいに暮らしのまわりに仏教が取りまき始める毎日に至りました。

最初の「ハッハッハ・・。眠りながら法話が聞けるなんて、素晴らしいですね」の違和感が、時を経て「わたしは、自分がいかに馬鹿なのかがわかってこの学校を卒業します」の共感に推移したというわけです。

仏教学院の正式名称は、浄土真宗本願寺派中央仏教学院です。学院は学校ですから通信教育であってもお勉強です。お勉強なのでテキストで事実や理屈を学びます。そしてたまに集合がかかってスクーリングというのを受講します。その時、講座とはいうもののどこか理屈の底にある不思議な真理みたいなものに触れる機会がありました。初めて「ありがたい」という境地がわかったような気がしました。「法話」の分野に触れたのがその日だったんだと思っています。

豊島先生

そもそもは何だかわからない内輪にしかわからないありがたい話よりも、外側から理屈を見たらどうかという自分に対して、勤務先の若い人事担当さんが「○○さんの場合はそちらからがいいかもしれない」と仰って頂いたわけが、その頃から一本の線で繋がり始めました。

講座が受け持つ事実や理屈に対して、法話が受け持つありがたさというのはどちらが外側か内側かということではなく、「仏教がいう真実とか真理というのは、表裏一体として安心をもたらす」ということに気付き始めました。

馴染みの無い方にはこの投稿ではよくわからないと思いますので、つぎは具体的にわたしが感じ取った「真実や真理と、安心」について書きたいと思います。