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月という理想と、六ペンスという現実

最近『月と六ペンス』を読んだ。
とても有名な本らしく、読んだことある人も一定いるかもしれない。
(恥ずかしながら、俺は知らなかった。)

最近感じているのだが、本の感想を書く上で、自分は文字として書き出す方が向いているのでは?と思ってる。確かにBookSession(2023/03まで開催した読書イベント)を開いていたこともあったが、自分が話者というよりは、司会をしていた気がする。

話し言葉だと、その時の一発勝負になってしまう。
でも正直、俺は自分が考えたことや、感想の厳密性にこだわりたい。
自分の認知を、正しく捉えたい。
だからNoteなどで文章にする方が、身の丈に合っているかもしれない、と思わなくもない。

この本のあらすじを、Amazonから引用する。

新進作家の「私」は、知り合いのストリックランド夫人が催した晩餐会で株式仲買人をしている彼女の夫を紹介される。特別な印象のない人物だったが、ある日突然、女とパリへ出奔したという噂を聞く。夫人の依頼により、海を渡って彼を見つけ出しはしたのだが……。創造の悪魔に憑かれた男ゴーギャンをモデルに、最期まで絵筆を手放さなかった男の執念と情熱を描く、20世紀の大ベストセラー小説を決定訳で。

「創造の悪魔」と書かれている通り、この本のテーマは「創造」や「情動」、要するに「せざるを得ない」ということにある。

恐らく人間の誰もが「情動性」のようなものを持っていると思う。
心が弱くなった時、大抵何もかもうまくいかない。自己肯定感は下がり続け、限界点を貫通し、底深くまで一直線に下り続ける。そんな時は、だいたい何をやってもうまくいかない。

けど僕の場合は、「文章を書く」ことが、処方箋になりうると思っている。
愚痴は中々出てこないし、モヤモヤは巻き起こり続ける。でも文章にすると、驚くほど明瞭に、何回も見返したくなる文章が出来上がる。心が弱って
いる時は、文章を書かずには得られない。

この「些細な情動性」が人間みんな持っていて、その下地を持って読み始めると、すごい面白く読めると思うな。それに、相手にどんな情動性があるのかを観察すると、人間関係がすごい楽になりそうだ。


フィクションが好きな人はこんな人じゃないか

ちなみに俺の偏見だが、繊細な人ほど、小説(アニメ、映画、芸術など含む)が好きだと思う。ここでの「心の脆さ」や「繊細」は、良い悪いの次元で表せるものではないことは前提の上で。

その前提の上で僕は、「繊細」であることは素敵なことだと思っている。
資本主義社会 = 競争で勝たないといけないパラダイムにおいて、繊細であることは「悪い特性」と思われがちだ、と思っている。

「繊細だね」と言われることは、「心が弱いね」と言われているようなものであると個人的に思う。

ただパラダイムの根底には、そもそもの「人間としての生き方」がある。
その人間としての生き方を疎かにすることは、どうなんだろうと思ったりする。「繊細」であることは、自他の心の機微に気づけたり感情が豊かな人だ。それはある意味で人間らしさだと思う。繊細じゃない人と同じくらい、繊細である人は素敵だと思うし、個人的には繊細な人(感情豊かな人)の方がテンポが合うので付き合いやすい。

繊細だとなんでフィクションが好きかでいうと、「自分の隠れた感情、ネガティブ、コンプレックス」の類を、登場人物が代弁してくれるからだと思う。

かつて尾崎豊が人気になったのも、鬱憤を代弁してくれたから。
普通生きていたら言えないことを、アーティストが代弁してくれる。小説も同じ。そのなんとも言えない感情(「ネガ」や「コンプレックス」)に気づいてるけど、言えない人ほど、小説のようなフィクションが好きになるんじゃないかと勝手に思ってる。

僕も、月と六ペンスに出てくる「とあるキャラが」鬱憤を代弁してくれた。
見ていて清々しい気持ちになったとともに、この感情は普遍的なものなんだなと安心した。と同時に、物語が終わったことに、悲しみを覚えた。

キャラ

この物語に登場するキャラクターを3人ピックアップする
作者の「私」、
ゴーギャンをモデルにしていると言われる「ストリックランド」、
そして「ストルーブ」という男だ。

ストリックランドは、狂人である。彼は非常に自己中心的で、彼の芸術への情熱は他者との人間関係や社会的な義務を全て犠牲にするほど強いものとして描かれる。そして彼のモデルとなったのは、フランスの画家ポール・ゴーギャンである。(ただ、最早そんなことはどうでもいいと思うくらい、この小説は面白い。)

この本を読んだ人は、恐らくゴーギャンの狂気性や情動に惹かれる人が多いのだと思う。色々な社会規範が相対化され、厳密な正解がなくなり、時代の潮流が「自己実現」に向かっていくにつれて、自己実現を掴み取るゴーギャンの物語は、人間のロールモデルのように見えるのかもしれない。

ただ、このゴーギャンの異質性を輝かせるキャラとして、ストルーヴが描かれる。

ストルーヴは優れた画家ではないものの、熱心な芸術家であり、ストリックランドに深い敬意と友情を抱いていたりする。彼はストリックランドの才能を認め、彼のために多くの犠牲を払い、その結果は本を読んでいくとわかる。

ストルーヴという人間の理想像

この本を読んで、僕はストルーヴという男に、「人間らしさ」をみた。

ストルーヴは、ストリックランドの才能に強い敬意を抱き、彼のために多くの犠牲を払っている。この自己犠牲的な態度は、彼が他者に対して依存しやすく、自分自身の意思や欲望を後回しにしているように見えなくもない。

また、彼の妻ブランチがストリックランドと関係を持った後も、ストルーヴは彼女を許し、彼女を守ろうとしたりする。
(要するに、彼は妻をストリックランドに寝取られているが、それでも妻を愛し、許す。)

この姿勢は、ある種の弱さや、彼が人間関係において自分の感情を抑え込むような側面を持っていると考えられる。

この物語で、ストリックランドが「強さの象徴」を表しているとするなら、
ストルーヴは「強さと弱さが混じり合う人間の象徴」だと感じた。

ストルーヴは、例えばこんな台詞を残す。

こっちが愛するほどに、向こうから愛してもらえると思っていないよ、僕は道化だ。女に愛されるような人間じゃない。だから、ブランチはストリックランドになびいても、そのことを責める気はない。

この一文を読んだ時、僕は「強いな」と思ってしまった。ストルーヴは自分の弱さを自覚している。そしてそのネガティビティを遠ざけようとしない。

「無知の知」と類似した構造で、自分が知らないことを知っているだけ、賢くなれる。これも、自分の弱さを自覚している点で、ストルーヴは別の強さを持っている。これは人間が辿り着ける天井である気がしている。人間は皆弱いと俺は思っているし、ストリックランドのような人間は、フィクションだと思う。

そういう点で、ストルーヴは非常に魅力的なキャラクターだなと思った。

時代背景としての面白さ

ストリックランドはイギリス人なので、物語はイギリスから始まる。
当時の時代背景としては、西洋が発展し、東洋は野蛮な国として見られていたはずだ。そんな発展の中心地から、ストリックランドは豊かな暮らしを捨て、芸術の街のパリに移行する。

そして最終的にストリックランドが行き着くのは、南太平洋にある「タヒチ」と呼ばれる、原始的な島である。

先ほどストリックランドを軽く紹介するときに「人間関係や社会的な義務」と書いたが、当時の西洋はこういった因習が色濃く残っていたのだろうと思う。その因習、自らを拘束する鎖を断ち切るかのように、ストリックランドは原始へ回帰する。

当時の東洋は「野蛮」「原始」「未発展」というラベルがあったと同時に、
「魅惑」「甘美」のようなラベルも同時に持っていたと言われている。

この「魅惑の土地」で、最終的にストリックランドは芸術を完成させる。
これは、西洋を第一とした芸術観とは別の方向性を提示していて、これも含めて面白いと感じた。

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