見出し画像

ツインレイ

今日は、今まで避けてきた「ツインレイ魂の片割れ」について書く。
今なら書けるような気がする。

なんで書こうかと思ったかというと、わたしの記事の中でアクセス数がダントツで2年で7,000を超える(そのくせ、いいねがつきにくい笑)この記事にある。
もう古いので、この記事を閉じるか有料化しようかなという気分になり、その前にこの自分の中でもやもやしていたツインレイ問題を片付けたいという結論に至った。

かつて、わたしはスピリチュアルがすごく嫌いだったけれど、そういう人の気持ちを代弁する言葉として「お花畑」がある。
けれど、それは大いなる誤解で、スピリチュアルほど厳しい考え方はない。
というのが数年間勉強してきた結論だ。
引き寄せの法則は前提として、「目の前の現実はすべて自分で創り出したもの」という考え方に基づく。
どんなに貧乏であろうとひどい病気であろうと、今犬に噛まれたとしてそれすらも自己責任だという考え方である。
自分と同じ種類のエネルギーのものが引きつけられてくる。
目の前のいやなやつはかつて自分の発したエネルギーと同類である。
とんでもない人災や天災に襲われた場合や先天的にひどい環境に育つ子供にも適用したら酷な話になる、という意味で厳しいと感じている。

けれど、その過酷な環境すらも自分で決めて生まれてきた、という考え方も同時に存在し、それを受け止めた上でその現実をいいものにする自分自身を生きるために、悪い現実を作り出すことで現在の自分の在り方に気づき、本来の自分に還るというのはスピリチュアルの目的の一つだ。
お花畑状態になることは目的を達成するための一つの手段である。

それに、昨今のスピリチュアルは量子力学や心理学などいった従来の学問ともう境目が曖昧になり、昔のように胡散臭いものではなくなった。
というのは両方の看板を掲げて活動している専門家がいる事実からも明らかで、わたし個人だけがそう考えているわけではない。
事実、心理学のワークショップでオーラのマッサージを習ったことがある。

「目の前の現実はすべて自分で創り出したもの」
ということは、数年前から知識としては知っていた。
やっと最近全面的に受け入れられるようになった。


前置きが長くなってしまったけれど、ここからが本題。
「ツインレイは実在するか?」「ツインレイという概念は本物か?」
という問いに、この前提を当てはめるといると思うひとの世界にはいるし、いないと思うひとの世界にはいないということになる。

個人的には、わざわざタイトルをあげて記事を書きながらではあるが、どっちでもいい。
あると思うひとには、その概念の中で学ぶことがあり、ないというひとにはその学びが必要ない。
「ある」という意見に過剰に「絶対ない」と反論したくなるひとにはそういう自分の中にある抵抗についての学びがある。
学びは自分の中にあり、現実はその学びを鏡のように映しているに過ぎない。

その前提を踏まえた上で、わたしは彼をツインレイだと考えている。
いや、信じているという表現が近い。


彼に会うかもしれない、その予定がたつ少し前からだったと思う。
なんとなく、ザワザワしだした。
今思えば前兆、のように感じた。

離れていた期間を「サイレント」と呼ぶことは憚られた。
そのときの気分として、「ツインレイ」という概念もどうでもよくなっていたし、彼のことを思い出したり会いたいという気持ちは起こらなかった。
だから、再会という未来が起こらなければただの別れだと思った。

前兆のひとつは、もう一人の彼に会えなくなったことだった。
2人の男性を「彼」と呼ぶのはわかりにくい。
そう思いながらも、どうしても「彼」がしっくりくるのには理由がある。
2人はコインの表と裏のようで、わたしから見るとセットのように見える。
先に会った彼は潜在意識のわたしが惹かれているひとで、後に会った彼は現実のわたしが惹かれているひとだ。
彼と解決できなかったことを、もうひとりの彼が解決してくれる。
彼がくれなかったものを、もうひとりの彼が与えてくれる。
その体験の中で、ひとつひとつわたしはできるようになった。
信じること。受け取ること。解釈しないこと。想像より事実に焦点を合わせること。自分を伝えること。期待しないこと。勝手に傷つかないこと。今を味わうこと。自分を大事にすること。それでも嫌われないこと。
そういう色々な、大切なことをたくさん体験した。

だから、彼に会えなくなって、半分ショックを受けながらも、そういう自分の変化をあらためて知った。
寂しさはありつつも、彼を信じていたからだいじょうぶだった。
会う前々日から何の前触れもなく彼からの連絡が途絶えた。
それもまた、わかっていた気がした。
でも、必要ならきっとまた会えると思えた。

会う前日、めまいがした。
起床時に、耳石がずれる感覚がした。一度経験があった。
視界が左から右にぐるりと回り、頭がぐらりとする。
明日、行けるかな?とふと思った。
と同時に、なんだか目の前の景色がズレたような感覚がした。
あ、たぶん会えるんだなと確信した。

当日は、落ち着いていた。
会えても会えなくても、だいじょうぶだとやっぱり思った。
もし何もなかったとしても、それを受け止められる自分がいた。
どっちでもいい。
ただ、また新しい明日が来ると思った。

けれど、こっちを見ている彼に気づいたとき、やっぱり嬉しかった。
起こるはずがないことが起こっている、信じられないと思った。
彼と離れるとき、それはひどい離れ方をした。
わざと、もう二度と戻らないと決めていた。
彼を傷つけたし、頭のおかしい女だと思われるようにさんざんなことをした。徹底的に嫌われたはずだった。
ツインレイだとしても、その縁を切ってやると本気で思った。
実際、連絡も途切れたし、一時的には成功してたはずだ。

その前から、彼の姿を何度か見かけてはいた。
彼にはわたしが見えていないようだった。
相変わらずひとに囲まれていた。
そこはきっと彼が望んだ場所で、わたしはそこにいない。
でも、それでもよかった。
心はざわつかない。
だから、わたしから話しかけようとは思わなかった。
姿を見かけても目を伏せたし、人混みの中に彼を探したりもしなかった。
本当に最後だ。
完全にあきらめられる。
彼とわたしの道は別れていて、もう交わらない。
会ったところで何か起こるはずもなく、もうわたしたちの間にもわたしの中にも何もなかった。
半分は悲しく、半分はほっとしていた。
静かに覚悟が固まっていった。

その瞬間、彼と目が合った。
わたしを見る彼の目を見たときに、そういう全部がどうでもよくなった。

彼が、こっちを向いた。
やっとなのか今更なのか。
うれしいのかかなしいのか。
わたしの半分がふわふわと浮き立ち、半分はものすごく冷静だった。

隣を歩く彼を見て、このひととわたしは同じだ、と思う。
同じように傷ついて、同じように後悔して、同じように今途方に暮れている。
わたしたちは同じだ。
なぜかそう思った。
同じ場所で隣を歩いている、と思った。

わたしは諦めた。
わたしが彼を愛していることは、骨なのか魂なのかどこなのかわからないけど、どこかに刻まれていて変わらないのだ。
好きとか嫌いとかではなく、これからもう何があっても何がなくても、わたしはこうなのだと思った。
彼ももう関係なかった。
すべてはわたしの中にある。

これがツインレイなのかどうかはどうでもよかった。
誰かの体験とは異なる、わたしだけの体験であり、カテゴライズに意味はない。
ツインレイもそれ以外も全て自分をしあわせにする要素のひとつで、すべては最適な状態でわたしのところにやってくる。
ただ、ツインレイという概念が存在して、あなたのツインレイは誰ですかと問われたら、今のわたしは彼だと答えると思う。
それだけ。

終わり。


そのうち、前の記事を有料化もしくは非公開にすると思います。





サポート嬉しいです!新しい記事執筆のためシュタイナーの本購入に使わせていただきます。