見出し画像

はんが

わたしが小学校5年生になった春の夜のこと、その日は春の嵐ともいえる雨風の強い日でした。

当時ちょうど家庭用のデスクトップパソコンが流通しはじめたころ
我が家に来たばかりのパソコンを使いこなすべく
“タイピングがとつぜんうまくなる!”というなんとも魔法のような謳い文句を掲げたあらいぐまラスカルのタイピングソフトを買ってもらったわたしは、
その“とつぜん”はいつ訪れるのかと疑問に思いながら毎晩タイピングにいそしんでいました。

そんなタイピングキッズと、
水を飲むために1階へおりてきた父とのふたりの空間での出来事。
「なんか鳴いとるのが聞こえんか、子犬のような」
廊下をうろうろしながらぼそっと発した父のこのひとことで「いつもの夜」が一変しました。

外は窓がカタカタと揺れるほどの雨風。
のどかな場所に暮らしていたので野生のいきものたちが顔をのぞかせたり、鳴き声がするのはいつものことですが、こうも大荒れの日はみんな静かに巣に籠るはずです。

“きこえなかったよ、気のせいじゃないの。
それかラスカル(タイピングの音)じゃないの”
「いや確かに聞こえた」
“それじゃあ、、もしかしたら外に犬の赤ちゃんが捨てられてるのかも!”
と一気に嬉しくなるわたし。

しばらくしずかにして窓の近くで耳を凝らすものの聞こえる気配はありません。
“なんだやっぱり気のせいじゃない”と一気に残念な気持ちになり
パソコンに向かおうとしたときに
キュウキュウと子犬のような鳴き声がはっきりと聞こえたのです。
「「聞こえる!!!」」
鳴き声はうちの中から聞こえます。日中は開けっぱなしのいなかの広い家ですから、いきものが外から入ってくることもあります。
ちょうど当時、キッチンの棚の下にうずくまる影に
「おかあさん!」と声をかけたら
野生のサルだったことがありました。笑

サルが他人の家のキッチンに上がり込んで明日のパンを漁ってるんですから、
子犬が迷いこんでいてもおかしいことはありません。
宝探しをするように父とすみずみを見て回りましたが時折鳴き声はしますが姿は見当たりません。

やっぱり気のせいだろうか、なにかの物音が鳴き声のように聞こえているだけだろうか、
半ば諦めの気持ちで父と廊下で耳を澄ましていると、すぐ後ろで鳴き声がしたと同時に
先ほどまでの高揚感が一瞬で消え去ります。

わたしと父の視線の先は壁なのです。
その壁には額縁に入れて飾られた一枚の犬の絵。

そしてその絵はわたしが小学校の図工の時間に彫った版画で、1年前に心臓病を患って亡くなった我が家の名犬“ラッシー”の姿を描いた生前最後の絵でした。
視線をあわせると、もうひと鳴き。念押しです。

小さい頃のラッシーの鳴き声だった!と母に話す父の隣で、当時はまだ“おばけ”と“魂”をわかりきっていなかった私はただただ恐怖からわんわんと泣くばかり。
翌朝、母と一緒に裏山にあるラッシーのお墓を見にいくと、昨晩の雨風で木札が倒れ、供えてあった首輪も少し離れたところへ飛んでしまっていました。
きっとなおしてねって言いにきたんだねぇ。

そして数日後にラッシーの一周忌を迎えるということ、
一周忌を境に、魂は次のステップへすすむらしいということを母からおしえてもらい、
最後に会いにきてくれたんだねぇ。と
寂しいと嬉しいが入り混じった涙とともにあたたかい気持ちになりました。

ちなみにその版画はあの夜を境に今もなお、父の部屋にあります。
「こわいから持って上がってくれ」と私が泣きながら懇願して、そのままです。笑

そんな壁の犬が鳴いたお話。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?