窓際のトットちゃんズ

子どもの障害を気づきつつ見ないふりしてる親御さん、案外ものすごく多いんじゃないかと思う。調べたわけじゃないが生きててあまりにエンカウントするので、体感でそう思う。

話していて「うちの子こだわりが異常に強いのよ、アスペだったらやだなぁ」とか、「診断でADHDって出たけどよくわからない、障害とかだったらやだなぁ」とか、「私もあんなだったけど生きてこられたし、病院なんて大げさだと思ってて。そのまま育てるつもり」という言葉が飛び出した時の相手さんの表情を思い出そうとしても、地面しか思い出せない。

実家には「窓際のトットちゃん」が3冊あった。カバー違いと文庫1冊。
なぜ3冊も、はさておき。
トットちゃんて私そっくり!と思って、よく読んでいたが、実際は全世界にたくさんのトットちゃんがいたというのに去年気づいた。
育てる過程で母が、私の障害を知っていたことにも。
そして猛然と抗議した。
どうして私のために動いてくれなかったのか、仕事ばかりしていたのか、学習での障害もこれほど出ていたのに病院に連れて行ってくれなかったのか。
母の返事は「育てたんだからいいじゃない。私はとにかく忙しかった!」だった。

人を育てるとはどういうことなんだろう。
その後は会うたびに問い詰め、面倒くさそうに同じ返しを繰り返される日々が続いた。
その時間があまりに悔しく無駄な事を知り、しばらく会うことも控えていたら、なんと母の方から「家にいてやれなかったこと、ごめんなさいね…」と謝ってきて、ちょっと呼吸も忘れるレベルで驚いた。
「でも本当に忙しくて」と続いたのでつい笑ってしまったけど、私には怒りを受け止めてくれたそのことが、とてもとても嬉しかった。

誰に助けを求めていいか分からず右往左往してたかもしれない母を思うと、責め立てたことが申し訳なくもなる。
でも、それとこれとは別だ。
母はなりふりかまわず助けを求めるべきだった。私の癇癪や自傷行為をせせら笑ってる場合ではなかった。困りのサインに気づいていて無視することを虐待と呼ぶ。

「親に向かって」とかバカみたいだと思う。子どもが何歳だろうが、ひとりの人間として怒る権利が大いにある。
育てたから親子の関係を終わらすという態度なら、終わるだけだ。終わりかけた関係の修復を選んでくれたなら、受け入れたい。
謝ってくれたから、もう責めないって決めた。

もし、その育児真っ最中当時の母が、急に私の目の前に現れたとしたら、
「二次障害ってご存知ですか?お子さんはその先の人生で二次障害のフルコースを味わうことになりますが、それでも定形として育てたいですか?」
と捲し立ててやりたくなるけど、そうなったらやっぱり、突きつけるも責めるもできずただ地面を見るだけかもしれない。

不安抱えて子育てする人を正しさで詰めるのが正解なんて、トモエの先生はたぶん言わないだろう。
いつも頑張ってるねって労って、居場所においでよ、ここならお母さんも休めるんだよ…って誘うくらいが正解な気もする。

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