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芸術を語るのはやはりちょっぴり怖い-ピナバウシュの「春の祭典」を見てきた-


 日曜日(昨日)の朝起きてTwitterを眺めてたら、コペンにいる日本人の方が、ピナバウシュの春の祭典を見てきたというツイートをしていた。

「なぬ??ピナバウシュでしかも春の祭典だと??」

私はすぐさまスケジュールを調べた。どうやら6/2までやってるらしい。まだ見れる可能性があるかも。。。

チケットの空きを調べる。
ピナバウシュの春の祭典なんて発売日に即ソールドアウトしてもおかしくないような。。。

と思いつつチェックしてみると、
なんと次の日からほぼ毎日空きがあるではないか。



 私はバレエ→ジャズをやっていた人間で、大学では芸術史を中心に勉強していた。専門的に語れるほどはなくとも、一般の人よりかはいくらかはダンスの分野に関して見るのもするのも詳しい。「ピナバウシュ」も「春の祭典」ダンスの世界では非常に重要な存在であることも知っている。

これは見るしかない!とチケット購入。
次の日の公演でしかも前から6列目を運良くゲットできた。



 芸術を見る時、いつも怖い。好きなことである一方で、私の見る目を問われているような気がしてしまう。
芸術には常に「わかる人にしかわからないだろう」みたいな圧を受け取ってしまうから。「あんたにはこの芸術レベルわかるのか??」と言われてる気分になる。

そう言っているのは自分自身なのだろうな、と思う。
誰にでも芸術がわかってたまるか、私は見る目があるからわかるんだ、と言いたい自分がいるのかもしれない。
なんて嫌なやつなんだ。

 ワクワクとともに、私が本当に楽しめるかな、という少しの不安も持って会場に向かった。


衝動的にチケットを購入したせいで、プログラムの詳細は何も知らなかった。
始まって最初の作品は春の祭典ではない、ということはわかった。ただ誰が振り付けたのかはわからない。

むむむ、これはどうだろう。面白いのか。
とてもモダンダンスだけれども、なにかの日常を切り取ったかのようなポイントがいくつかある。

んーちょっとだけ好きな振りのパートもある。
でも、んんんーこれはすごいとは思わない気もする。

いやでもこれもピナバウシュの作品なのか?
そしたらやはりこれもすごいのだろうか?

なんでぐるぐる考えていた。


 最後はリズムを足踏みでとった振りで終わった。
これは日常だけど、怒りのダンスだったのではないか、と思わされた。
カーテンコールで笑顔の素敵なおじさんが挨拶にでてきた。
彼が振付師なのだろう。
ピナバウシュの作品ではなかったようだ。

休憩に入る。
休憩になった途端大きなゴミ箱のようなものが運び込まれた。土が入っている。

休憩中-春の祭典の舞台作り途中-


舞台を丸々作り変えるため、休憩は30分以上あった。
会場した時にガイドさんからチケットにフリードリンクついてるよと教えてもらったので、ワインを飲むことにした。

お酒は非常に弱いので一人での時に飲むことはほぼない。

せっかくだから買いたいという気持ちもあった。それと同時にこれから始まるであろう春の祭典を今みたいに楽しめなかったらどうしようという不安から、理性を少し飛ばしたかった気持ちもある。


お酒飲んで気持ちよくなってたら突然拍手が起こった。
ダンサーがもう入場してきたのか、と思って舞台を見渡したがそんな様子はない。どうやら土を運び込んで平して舞台を完成させたスタッフさんたちへの拍手だったようだ。
こういう態度はデンマーク人ぽいよな。と少しあたたかい気持ちになる。



 暗転。
さあ始まる。


明転して5秒。これはもう間違いないと確信できた。
さっきまでの不安は杞憂だった。
ダンスのコーチが昔「正直作品の良し悪しは最初の30秒で決まる」言った言葉を思い出す。本当にそうだよな。と改めて思う。

何より涙がとまらない。


芸術とはこういうことだと思った。

人の心を揺さぶるもの。
絶対的な何か。

言葉には表せないのだけど、これが凄いということ、美がそこにあるという事実を突きつけられる。


ストラヴィンスキー天才かよ。

いやピナバウシュも天才かよ。

彼らがいかにすごい人物であったのか、
それはこんなにも簡単にわかるのか。


 「春の祭典」はもともと、バレエリュスのための音楽であり、ディアギレフが最初の振り付けをつけている。そういえば私「春の祭典」の授業大学でとっていたななんてことを思い出し、授業で学んだことを必死に思い出そうとする。

春の祭典は生贄の話である。
街の中で1人少女が選ばれて、神に捧げられるのである。

その後数々の著名な振付師が春の祭典の音楽を使って自分なりの振り付けをつける。
この音楽に鹿の交尾を見出したのはピナバウシュだったか、いや、それはベジャールだったな、確か。
と考える脳みそと、ただただ止まらない涙。



 ピナバウシュが春の祭典をどう解釈したかは知らない。けれど、ディアギレフの大元の振付を非常にリスペクトしていることがとても伝わった。
それが感じられる自分に少し嬉しくもなった。


後半になるにつれ、観客が前のめりになっていく。




Expressionismというワードが浮かんだ。
日本語訳すると言葉の持つ意味が少しややこしく?なるが、私は絵画におけるInpressionism(=印象派)よりもExpressionism(=表現主義)の方が好きだ。卒論は抽象表現主義(Abstract expressionism) について書いた。

 inじゃなくてexの方向性。
この作品もまさしく内側にあるものを外に発散させる動きがあるものだ。強烈な発散。

熱量が半端ない。
途中、急にとても汗臭い匂いが漂っててきた。
観客の誰かの匂いなのか、自分のなのかと思ったが、違う。
目の前のダンサーたちの匂いだと気づいた。

 半端じゃない運動量。
汗だけでなく匂いでも感じるパッションの強さ。


いちダンサーとしてこのしんどい振付をこなしているダンサーたちに平伏したい。



 最後の最後、生贄に選ばれてしまった少女が音と同時に倒れるた瞬間に暗転し作品は終わる。

その一瞬にまた止まりかけていた涙が復活。

もちろんスタンディングオベーションである。
ドバドバ涙を流しながら。

この公演をやりきったダンサーたち、そして作品の素晴らしさへの会場の賞賛の熱量が半端ない。
拍手だけでは満足でない観客たちは足踏みまで始めた。
ザッザッザッザッと一体感持った音が響く。


主演の女の子はカーテンコールでも顔がとても辛そうだった。
ほんの一瞬だけみえた笑顔に少し安堵する。



いや、本当に素晴らしすぎた。
お酒もいい感じにまわって余韻に浸りながら、帰宅。


この作品を人生のうちに見れてよかったと思えるほどの作品であった。なんなら明日も見に行きたい。



 やっぱり芸術を見るのはこれからもちょっぴり怖いと思う。それなりに勉強したり、年齢の割にはたくさん質の良い作品たちを見てきた方ではあるが、それでもいつまでたっても芸術の見方はわかんない。
きっとずっとそう。

でもたまーに出会える「絶対的」な作品ってあるのだろうなと少し思った。それだけが自分の中の芸術なのかも知れない。


 この作品を誰がみても感動できるのかは正直わからない。
バレエのような決まりきった美しさや、エンターテイメントのような楽しさとも違って、意味不明な動きとただの布切れみたいなシンプルな衣装。なんじゃこりゃ?ってなる人もいるのかな。

いつも一般的にその作品がどう見られているのかが気になってしまうのだけれども、

誰がなんといおうと私にとっては正解だ。

そう思える作品であった。主観をもう少し信じてみてもいいのかも知れないと思わされた。


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