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他を信じること、自分を信じること。

自信という言葉は自分を信じると書く。

自分は自信がないなと思うことがおおい。どうすれば自信が持てるだろう。
そんなことをよく考えてしまう。この社会は自信がないとうまくやっていくのはすごく大変だなと感じる。
自分に自信がないなと思い、こんな自分でも変わりたいなと思ったのはおそらく中学の時から。10年も経つらしい。なのにいまだに同じ悩みを持っていることがなんだか恥ずかしくなる。
しかしやっと、自信とは何か、少しずつわかってきたように思う瞬間もある。


Trust the process 

ベルリンで私が所属していたプログラムではチームの文化とも呼べるような合言葉がいくつかあった。そのうちの一つが、"Turust the process"(過程を信じよう)というもの。
プログラムでチームで活動する時、なかなかうまくいかないことが多かった。リーダーを交代で担っていたのだが、多様なメンバーがいる中でチームをリードするのは難しい。自分が思っていたようにことが進まないことはいつだってある。そんなとき、自分達が「うまくいっているのか?」と疑ったり、「これは違うのではないか?」と文句を言うのではなく、一旦信じてやってみようと言うわけだ。(これは鵜呑みにすればいいとか、批判をしないと言うのとは少し違う。)

私はこの言葉はある種の真理だと思う。(もちろん絶対的真理は存在しないが)
同じ内容でも、チーム全体が今の状況やプロセスを信じられている時、とそうでない時で、うまくいく、いかないが変化するということを何度か体感した。
信じないとうまくいくものもいかなくなる。
チームでの活動においてお互いを信じられるかどうかが何よりも大切だ。

そういや高校の部活の時も自分はチームを信じられてなかったと思いながら終えてしまったななんてことを思い出す。
信じるって「信じたい!」って思ってできることではない。口では「信じているよ」なんて言うのは簡単だけど、心の底からそう思うのは意外と難しいなといつも思う。


プログラムも後半に差し掛かり、この後自分が何をしたいか、どうありたいか考えた時、誰かが人生も一つのプロジェクトだと言ったのを思い出した。
そうか人生も一つのプロセスなのかもしれない、そう思った。
自分は自分の人生の過程を信じられているだろうか?
いや、信じられなければ、自分の人生もうまくいかないのではないかと思った。



相手を信じることができない

少し話が変わるが、最近自分の話を他の人にしなくなったな、と気づいた。
自分で意図的にそうしたつもりもないのだが、なんだか「自分のことは誰も分からないのじゃないか」という思いと、「本当の自分を見せてはいけない」という思いがあると感じた。
前者は自身が経験している状況があまりにも特殊で、共感してもらえないことがわかっているからこその諦めである。もちろん、世の中の一人ひとりが違う経験をしているはずなので、100%全てを理解できると言うことは何事においてもないというのはわかっている。しかしドイツやデンマークといった文化や社会の違い、そこでいった学校の特殊性は、単に日本国内で関西と関東という違いとは根本的に違うことが多く、同じ感覚で話し合える人がどうしても少なく感じてしまう。
後者の「本当の自分を見せてはいけない」というは、自分の本音を話すと弱くて残念な人間であるからこそ、嫌われるのではないかという気持ちがあるのだと思う。人の前では明るくかっこいい自分でありたいというプライドがある。


 最近友達と恋愛の話をしていた時、彼女は「相手に好きにならせる『スキ/隙』を与えないと人は好きにはなってくれないよ」と言った。この「スキ」とは、自分を曝け出すということだ。最初から全部とはいかなくとも、自分のことを知ってもらわないと相手は興味持たないよ、と。確かにそうだ、と思った。自分は恋愛というものが大変苦手なのであるが、その一つとして異性に自分のことを話すことに強い抵抗があるのだとその時気づいた。女友達の相手にはなんでも話しても問題がないと思えるのに、相手が男の人である、特にもしくは恋愛的にみる、みられるかもと思った時に本音を話すことが急に怖くなる。
友達と話しながら、これは自分都合であるのかもしれないと思った。
というか相手が理解してくれるとか、本当の自分を知っても嫌わないと最初から「信じていない」のではないかと考えた。



ピンとこない

恋愛と就活はよく似ているというが、本当にそうだと思う。自分は就活も苦手だからだ。この両者に共通して自分が良くないのは高望みしてしまうことなのかもしれないとおもった。

昨日『傲慢と善良』という本を読み始めた。婚活に関する男女の気持ちをここまでかというくらいに鮮明に描いている、婚活してない自分にとっても大変刺さる本だ。

ピンとこない、の正体は、その人が、自分につけている値段です。
(中略)その人が無意識にに自分はいくら、何点とつけた点数に見合う相手が来なければ、人は”ピンとこない”と言います。

『傲慢と善良』辻村深月(朝日文庫)


この文章に震え上がる。身に覚えがありすぎる。
恋愛において自分にはもっといい人がいるのでは?と理想を膨らませたこと。就活において理想の企業ばかりみて、他の企業を自分はこんなところでおさまる人間ではないと考えてしまったこと。

どちらも自分に足して非常に高い値段(=プライド)をつけ、相手を見下していたのかもしれない。そしてこうも思う、相手といることが自分にとって良いことである、楽しく過ごせると「信じていない」のではないかと。



相手を信じること

自分を信じないということは、むしろ目の前にいる相手を信じないということなのではないかと思う。何事もやってみないと分からないというのに、やる前から「見えてしまっている」と勝手に思い込み切り捨てる。

自信がないと聞くと「自分が他者と釣り合わない」のように自分を下げているような状態を思い浮かべる。例えば、大きな仕事を会社から与えてもらったとしよう。しかし、自分はそれをやり遂げる自信がないと思った。これは一見自分を信じていないように聞こえるが、仕事を自身に与えようとしてくれた人/会社のことを信じていないということでもある。

「自信を持つ」というのは自分を信じることではなく、目の前にいる人を全身で信じて委ねてみることなのではないか。
やっとそう思えてきたのである。相手を信じれない自分はどこからきているのか?相手を信じてしまうことで起きる不都合が自分にあるのではないか。それは傲慢さやプライド、見栄のようなものなのかもしれない。



相手のことを信じるとは、相手とのプロセスを信じてみること。自分(=弱み)を話すこと。話しても相手は離れないと信じ、身を委ねてみること。
もしかするとうまくいないかもしれないし、裏切られるかもしれない。それでも傷つくことを恐れないというのはそういうことなのかもしれない。


はぁー。いかに自分が自分ばっかりであることに毎度嫌気がさしてしまう。
鎧のようなものが年々分厚くなっていくようで、もっと軽く空を飛びたい。
でも目の前の人を信じることで少しは高く羽ばたけるのかもしれない。

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