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そのまま終わるのは嫌なんだろ?

死を思え。

いつか必ず死ぬから、そのことを意識して今日を生きろ。やることを決めろ。メメントモリ。


とは言うものの、あまり現実味がない。たしかにいつかは死ぬけど、「いつか」じゃ今日やることに変化はない。なんとなく今日が続いてしまう。

では一年後に死んでしまうことを想像したらどうか? 一年後に必ず死んでしまうことが確定していたなら、いまの生き方をするだろうか? 今やっていることはそのまま続けるだろうか?
一ヶ月後に死ぬとしたらどうか?

少なくとも私は、今の生活は続けない。あれもこれもやーめた、いつかやろうと思ってたことをやろうかね、となる。

私の脳内いつかやりたいなリストの一つに、バイクで最高に気持ちいい見晴らしの良い道を走りまくってみる(海外含む)というのがある。昔バイクの後部座席に乗せてもらった時に、身体とバイクが一体になってぐいぐい風をきって進む感覚が忘れられなくて、その体験から五年後にバイクの免許を取った。色々と余裕がなかったので免許取得後は一度もバイクに乗っていない。ペーパードライバー歴は五年だ。十年経ってる、、

他にも、釣りに行って一日ヌボーッとして、魚が釣れたら美味しくいただく。とかもある。(釣りしたことないけど)

他にも、頭をド金髪だか白髪だか青色とかにしてピアスをたくさんつけて、どこぞのヤバイ部族みたいな格好して街を闊歩してみる。次の日は着物で純和風な格好をして散歩してみる、とか意図不明なおかしなことをしてみたい。

他にもいろいろとある。。

ここまで書き出してみて気づいたが、多分こういうことじゃないな。〇〇したいXXしたいは本質じゃない。

やりたいことをやるということも大事だが、それそのものが大事なのではなく、生き方というか在り方が大事なのだ。俺は俺の生き方をしている、私は私の生き方をしている、これが自分だ、という感覚で生きているかどうか。
やりたいことをやる、というのは結果的にこの感覚を掴みやすいから、やりたいことをやろうとするだけだ。

死を身近に感じたならば、俺は俺だ、私は私だ、自分の生き方をしてやる、その感覚で生きようとするらしい。
いつ死んでも後悔のない生き方とはそういう生き方かもしれない。

私は、自分の生き方をしているんだという感覚が、今はまだ希薄だ。
ちょっとずつ、絵筆で色を塗り足すかのようにその濃度をこく、強くしていこうと思う。自分の色を出してみたい見てみたい。

ちょっとずつと言わず、絵の具をあらかたぶちまけて極彩色にしてやってもいいな。

絵の具の中身が本当は何色かを知らないままに終わってしまうのはもったいないだろ?

近しい人が亡くなった。
そういうことを想うに至った。

じゃまたね。

いべ


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