見出し画像

ココはとうきょう。vol.4

また桜の季節になった。そして今年も東京にいた。人生は選択の連続だというからには、今日ここにいることも自分の選択の結果だということからは、目を背けられない。

去年と違うことと言えば、住む街が変わったことだ。同じ東京の中であっても、目黒区から足立区に引っ越すというのは、分かる人から見ればものすごく大きな変化だ。吸い寄せられるように選んだこの街が僕は好きだった。相変わらず丸の内サディスティックはBGMには似合わないのだけれど。

日本で、「春をむかえる」といえば、それは「桜をたしなむ」とほぼ同義なのだけれど、僕はそれを東京でできた試しがない。間違いなく春はきているのに、桜を楽しむ気にはほとんどなれなかった。

2019年の春は、頑張って桜が咲く場所まで足を運んだ。夜のスカイツリーや目黒川、あとは六義園だかどこかにも行った気がする。もちろんきれいだった。けれど僕がみたい桜ではきっとなくて、ほんの少しだけガッカリした。(とはいえせっかく足を運んだのにそれを否定するということは、僕たちの脳の構造上あまりなくて、なんとか補正できるようになっている。サンクコスト的なやつだ。)

2020年の春は自粛の春だった。だから、というわけではなく、前年のこともあるので、どうせ遠出はしなかっただろうけれど、桜の写真は残っていない。かろうじて、葉っぱの方が多い葉桜は撮れていた。自由が丘はいま思い返してもいい街だった。


そして今年は2021年。相変わらず桜は見に行っていない。なんだか、今の僕にはあまり桜が必要ないんだ。これはきっと残念なことなんだけど、うまく説明ができないんだけど、必要ないんだ、と確信する。

ひとつたしかなことは、京都の桜がきれいで東京の桜がきれいでないというわけではなくて、その景色を切り取る自分の精神の問題ということだ。

簡単に「問題」と言ってしまったけれど、決してネガティブな意味ではなくて。まぁでも他人からみれば、桜をたのしめない日本人にはどこか問題があるかもしれない。

ただ僕のスタンスとしては、何を美しいと感じるかは、そのときの自分そのものであって、その変化さえもたのしみたいと思っている。そして、うつくしいと思えるものがひとつずつでも増えていくことは、とても豊かなことだと思う。

来年の桜の季節を僕はどこで迎えるのか。少なくともこの問いを毎年提供してくれる桜に、最大級の感謝を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?