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違う家の子になりたいと願ったこと

「もうこの家から出て行け!」

それは日曜日の朝だった。
保育園児だった私は4歳か5歳くらいだったと思う。

その日たしか出かける用事があって、母は服を着たり準備していた。私は母の準備を待っている間、床にレゴかなんかを広げて遊んでいた。

住まいは狭い団地。
焦って支度していた母は、私の遊んでいたレゴを踏んづけてしまって、それが相当痛かったんだと思う。

それで冒頭の「出て行け!」

母と私の2人暮らしだった頃、家ではそれはもうよく怒られていた。本当にたくさん怒られた。
だからたとえ予備動作もなくいきなり「出て行け」と言われるのは、今だからこそ急だなぁと思うけれど、当時は全然ビックリすることではなかった。

むしろ保育園児・私。
「その手があったか!」と感動した。

泣いて「ごめんなさいおかあさん」と謝り続けたらよかったんだと思う。それが母の望む正解なのだと。
でも私は謝ることにすでに疲れていた。
夜じゅう、寝ている母に向かって「ごめんなさいおかあさん」と泣いて謝り続けたこともある。母は「許してもらえるまで謝りなさい!」と怒るから。立ったまま足は疲れるし、寒いし、眠いし、寝ている人に向かって声を投げ続ける無意味さと無力感を、小学校に上がる前から何度も味わってきた。
そんなことしたって許してくれるはずないのにさ。

だから家を出ていいというのは、すごく名案だった。
違う家の子になることをついに許されたのだ。

私は遠足用のリュックに、パンツと靴下と着るものの上と下をいれた。そして、団地の重いドアを開けて、ガチャンとドアを閉めた。家出をした。

考えなしだったのでどこに行くかは決めていなかった。近くに祖母と祖父も、叔母も住んでいたので、そこまでがんばって歩くこともできたかもしれない。
ただ4歳か5歳である。
あんまりよく考えずに、団地の隣の階段の3階に住んでいる、たまに遊んでくれるお姉さんとおばさんの家を訪ねた。

「この家の子にしてほしい」ってお願いした。
おばさんは驚いて、「おかあさん心配しているんじゃないかしら」とおろおろしていた。窓を見たら、母が見えた。さすがに本当に出ていくと思わなくて焦って探しに出たらしかった。私はさっと窓から離れた。

母は、祖母や祖父をまず頼ったようだった。さらに母の妹である叔母にも連絡がいき大騒ぎになった。

手当たり次第探したのだろうか。
それともおばさんが母にこっそり連絡したのか。
夕方になって、母が息を切らして迎えにきた。

「あー、見つかっちゃった」

とちょっと他人事のように残念に思いながら、

「出て行けと言ったのは母なのに、なんで迎えにくるんだろう??」とすごく不思議に感じた。またあの家に戻るの私?みたいな。違う家の子になれないという事実と現実を知ったというか。

この日のことは朝から鮮明に覚えているのに、母が迎えにきた後のことはまったく覚えていない。ひどいことを言われたりしたらたぶん覚えているだろうから、もしかしたら優しくされたのかもしれない。

かくして私の初めての家出は、朝から夕方までというとても短い時間で終わってしまった。家出させてくれたおねえさんのおうちの方、本当にありがとう。

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