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ペンギンたちの春

エッセイ
テーマ『チェイサー』

最近は春が近い。
北海道から見たときの本土(本州)や四国、九州ではうららかな陽気が春を担いでやってくるのだろうけど、こちらはいまだに雪が吹き荒れることもあり、つい先日は三メートル先が見えないくらいの猛吹雪だった。
それでいて、NHKの全国ニュースでは早咲きの桜が花開いている様子が写し出されたりして、国土の縦長さを感じたりする。全国ニュースって東京の地方番組みたいだな、と一人ごちる。

この時期は除雪作業が本格化する。ブルトーザーが除雪して通った後の路面はツルツルとしており、歩くのに向いていない。町中の横断歩道はよちよちのペンギン歩きをする道産子達で溢れていて、誰から教わった訳でもない最適解に自ずと辿り着くのだろうと感慨深くなる。
雪まつりの雪像が取り壊され、観光客が少しずつ減っていき、たまには朗らかな日が射すこともあるけれど、それは季節の巡りを頭で理解することに直結するとは言いがたい。
北国の春は、前述した早すぎる桜の映像と除雪の轟音、それからお別れのための飲み会が連れてくるように思う。

僕の職場は大学生アルバイトたちが半数ほどを占めており、学業や遊びの傍ら、真面目に取り組んでくれる良い子達に恵まれていた。
一年生からバイトを始めた学生は卒業まで勤め通してくれることが多いので、卒業の頃になれば僕よりも詳しい部分があったりもする。頼もしいことこの上ない。
異動などに伴って上層の方々はどこかにいなくなってしまう中、医学部の六年制の大学に通っている子はその場で一番の古株になったりするので、感謝の頭が重力に勝てる日は来ないなとつくづく思う。
僕はすでに二回の異動を経験しているいて、絡んできた学生の数は六十人くらいにはなっているような気がする。正確には分からないけれど。

大学生は飲み会が好きらしい。
卒業していく人たちと気持ちよくサヨナラするために、あるいは最後の思い出作りのため、いつか再開した時の思い出話のために、送別会が行われることが多い。流行り病が間に挟まろうとも、僕の時代となんら変わりはないようだ。
彼らから見れば、僕はすでに一回り近くも歳が離れているはずなのだけれど、それでも声を掛けてくれるのは嬉しい。僕がガキっぽいのだろうか。
そうであっても、声が掛かって卓を囲めるというのは幸せの一つの形であろうから、この際受け入れることにする。

もつ料理が揃えられている居酒屋に呼び出されたので足を運ぶと、卒業する学生と、僕の一番弟子を自称する後輩が卓に座っていた。お酒も頼んでおいてくれたようで、席に座りながら乾杯をした。仕事終わりのプレモルは沁みる。
学生からは、明日に予定されたワカサギ釣りのことや、最近見る悪夢の話を聞いたりした。卒業したら東京に行くけれど、二年間の研修が終われば札幌に戻ってくるようだった。しばしのお別れ、といったところだった。
弟子は、最近できた口内炎にお酒やもつ煮込みの煮込み汁がシみるようで、首を左に傾けながら話していた。彼氏にプロポーズされましたと、左に傾げてもつを咀嚼しながら溌剌に報告してくれた。
あまりにも自然な体勢から出てきた意外な言葉だった。結婚は人生にとって口内炎と地続きでしかないから、威張ることでも満を持すことでもない、というような言い方だった。おめでとうと伝えた。
お会計とお水を頼んだ。学生はワカサギのため、僕は仕事のため、弟子は口内炎のためにそれを飲んだ。

別の日、ずいぶんと若いイタリアン酒場で飲み会が催されたので、肉肉しいピザやアヒージョを囲みながら四人で話をしていた。最近の発泡酒はほとんどビールだなと思った。
卒業する学生の一人は、人生で一人しか彼氏ができたことがないので、このままで良いのかと嘆き始めた。いま付き合っている彼氏がその一人なのによく言えたものだ、と話を聞いていたら、話題が淫らな方向に飛んでいったので笑ってしまった。
もう一人の卒業生は、卒業できるか単位が微妙なんすわと日本酒を飲みながら頭を抱えていた。酒飲んだらそれしか考えれないようで、悲しみ上戸のようだった。結局足りていたので笑い話にはなったのだけれど、その時の彼は、目の前のピザに浮かれる心の余裕がないまま酒を口に運び続けていた。
弟子は口内炎が沁みるようで左に首を傾げていた。この前の飲み会でも口内炎があったけどまだ治ってないのかと尋ねたら、二つ増えましたと自慢げに報告された。体質的にできやすいようだった。
席を立つ時間になりお会計を頼まれたので、ついでに水を頼み、女学生は彼氏が良いと思い出すため、男学生は単位を考えないようにするため、僕は仕事のため、弟子は口内炎のためにそれを飲んだ。

別の日、同棲している彼氏が家業を継ぐために地元に帰るので、それに付いていくことにしたという後輩の送別会があった。
指定された居酒屋は随分と古めかしいお店で、そういう雰囲気が好きな後輩にはぴったりなチョイスのように思えた。黒ラベルは旨い。
おでんとポテサラと、部位が謎の肉が並べられたテーブルを挟みながら延々と僕をいじり倒してくる。仲の良くなった人たちは僕をいじってくる傾向にあるのだけれど、いじってくるから仲が良いのか逆なのかわからない。いつからそういう小競り合いができるようになったのかも覚えていない。なんだかまだ会う機会ありそうだから、今度は三人で宅飲みでもしましょうねと笑った。
左に首を傾げている弟子がたこ焼きなら私に任せてください、一人暮らしの時は週五でたこ焼きをしてたのでと言った。口内炎あったらたこ焼き食べれないだろうと言ったら、左の頬袋で食べるから大丈夫とのことだった。
閉店の時間も近づいてきたので会計と水を頼み、後輩は同棲の家に帰るため、僕は仕事のため、弟子は口内炎のために水を飲んだ。

弟子と飲み過ぎているのが気になるが、僕らは後輩たちと比較的仲の良い方だったから声も掛かりやすいのだろう。
ともかく、人はいろんな理由のために水を飲む。酔いを覚ますためだけに飲んでいるわけではない。何かの一区切りとして喉に通す。店が変わる、一日が終わる、家に帰る、明日が来る。理由はなんであれ、場面転換として使われている水は素晴らしい。僕にとっての飲み会そのものみたいなものだろうか。

僕は、仕事は疲れるからそんなに好きじゃない。お酒はまあまあ好きで、人と話すことは何よりも好きだ。年齢を重ねていくと誰かと気兼ねなく話せる場は年々減ってしまう。職場でなんでもかんでも話せるわけではないから多少息が詰まったりもする。
だからこそ、時間の区切りとして、気持ちの場面転換としての飲み会の場は、会計終わりのチェイサーのお水のように大切である。

先日、忙しすぎる仕事に忙殺された僕のストレスは限界に達し、そのフラストレーションに区切りを付けるためにも、数年来の友人を飲みに誘った。飲み放題にビールが付いているとそれだけで嬉しい。
彼は三月末か四月頭に北の大地を離れて、本土で新しい仕事を始めるとのことだった。
趣味がよく合い、上手い文章を書けて、話していて面白い友人がいなくなってしまうのは少しだけさみしい。
さみしいがそれは素晴らしい門出だった。誰でも入れるような会社だと丸眼鏡を触りながら笑っていたけれど、それは誰にでもできる仕事ではないのだから、十分すぎるくらいだろうと思った。
一次会も終わりに近づき、二軒目はシガーバーに行く事になった。店を出て見渡す夜の歓楽街は、ネオンに照らされた千鳥足のペンギンたちで溢れていた。

春だな、と思った。

著:藍草(https://twitter.com/aikusa_ok)

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