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イメージミニマリズム

エッセイ
テーマ『ミニマリズム』

ミニマリストに憧れる。
ここ十年ほどの間に現れたその言葉の意味するところは「丁寧な生活」という風に捉えているけれど、真意のところはよく分かっていない。

勝手なイメージはある。
ミニマリストの部屋では、四角四面の真っ白なダイニングテーブルと背もたれのない椅子がセットで置かれ、毛並みの揃ったシンプルなカーペットがその脚を支えている。落ち着いた色合いの壁際には部屋の色に合わせた大きめの棚が据えられており、高級料理の盛り付けのようなすかすかした感覚で日用品が収納されている。彩りとしての季節の花が一輪添えてあるとなおよい。
クローゼットの中身も最低限。春夏秋冬それぞれに三着ずつが用意してあって、どれも柄が少なく、どんなファッションにも適応しそうなもの。娯楽のものは殆どないが、今はスマホやPCがそれらをカバーしてくれるだろう。
夜になれば隅に置かれた間接照明を照らし、ほのかな灯りに包まれながら、瓶ビールを小さなカップに手酌して穏やかな夜を飲むのだ。
Simple is Best。必要最低限に抑えた生活には余白が広がっていて、もの以外の幸せを描けそうだ。

想像のミニマリストに比べると、今の僕の部屋は酷い惨状だった。
元々、物持ちが多い方ではなく、お酒や美味しいごはん、コーヒーやカフェにお金が溶けていくのだけれど、なんだかものが多い印象がある。イメージミニマリズムに則ってものを減らしていってみよう。

板張りの床の上には低いテーブルが二つ並べておいてある。どちらも木目調のものであるが、サイズが違うし形も違う。微妙に色味も揃っていないので、バラついた印象がある。
二つ並べているのには理由があって、左側の机にはデスクトップPCが置いてあり、作業スペースが圧迫されているからだ。そのため、作業などもろもろを行えるように右の机を置いているのだが、こちらにはペン立てやスマホスタンド、小物入れ、読みかけの本などが散乱している。もはやものを置く台へと成り下がってしまった。

ミニマリズムにならえば、まずテーブルを減らすべきだ。一つにしよう。そして少し大きめの白い四角いシンプルなものに切り替える。
ペン立てのサイズに比べて入っている文房具の量が少ないように見えるので、小さいものに買い換えたうえで、宣伝として配られたダサいロゴのついたペンは捨てよう。
小物入れの中身もごちゃごちゃしている。雑に投げ入れられたクリップは捨ててもいいだろうし、使わなくなったライターなんかもゴミ箱行きだ。そう思うとほとんど必要ないもののように見えてきたので、箱自体も廃棄して、本当に大事なキーケースとAirPodsをテーブルに直に置こう。
パソコンは乗せるスペースがありそうだからひとまずこのままでいい。

読みかけの本は本棚に戻した方がいい。ということで、壁の色に合わせたつもりが、ちょっとだけ暗い色合いになってしまった本棚へと足を運ぶ。そして本をしまうスペースが見当たらずに膝から崩れかける。
185cmの僕より少し低くて、肩幅三個ぶんくらいの幅があり、単行本を二冊入れられるくらいの奥行きがある大きめの本棚なのだけれど、持っている本の量に合わなくなってしまったようだった。
無形のものに給料を注ぎ込みがちな僕が唯一、定期的に買っている有形のものは本なのである。

これじゃあイメージミニマリストの棚とは大違いだろう。ほか弁のみちみちにつまったのり弁当みたいに隙間がまったくないというのは、丁寧な暮らしからは程遠い。
思い返してみれば、僕が読み返したことのある本は棚に収まるうちの5%にも満たないのではないだろうか。酔うにも酔えないお酒のアルコール程度しか含まれていないのであれば、そのほとんどを手放したって良いように思える。しかしなぜだろう。心に穴が空くような気がしてしまうのは。僕にとっては必要だという可能性はあるが、再読する確率の低さを思うと、せつなさの証明にはなり得ない気がする。
収まる本たちには物質的な価値ではなくて目には見えない思い入れみたいなものが張り付いているのかもしれない。元来、無形資産にお金を払う僕だからこそ、読んできた本をこれまでの道程として残しておきたいと思ってしまっている。
ミニマリスト=必要最低限の生活、であるならば、この本棚は僕にとっての最低限であるからこのままにしておこう。
手に持つ本は、ひとまず、違う文庫の上に寝かせておく。

クローゼットの中身はぱんぱんに溢れかえっている。僕のモーニングルーティンには、クローゼットをなんとか閉じるという無駄なモーションが入っているのでやるせない。
こちらは本棚とは違って、単に捨てていないものがたくさん入っているから無様な有り様になっている。ということは片付けも容易だろう。要らないものと要るものを仕分けしていくだけですぐに半分以下にはなりそうだ。
形落ちのもの、毛玉の酷いもの、首がよれてきているもの、年齢的に似合わなくなったもの。そんなものを減らしていって、最終的にお気に入りを四季に合わせて三着ずつにすればよい。

洋服はいいとして、クローゼットの上段には、なぜだか捨てられない思い出の品々が眠っており、仕事などで精神的に落ち込んだ時にたまに眺めている。
どう考えてもつけることのない雷門提灯キーホルダーとか、チャグチャグ馬この置物とか、スカイツリー完成記念消ゴムとか、ゴミ一歩手前みたいなものが大量に見つかる。これは眺めるという娯楽の類いにあたるだろう。僕の思い出博物館を作るとしたなら、説明書きを付与してガラスケースに所蔵するはずだ。
本当は捨ててもいいのだろうけれど、僕にとっては大事なもの、先ほどの本と同じ理由で大切なものだから、一度保留にしておこう。

すんなりとクローゼットを閉めて首を上にあげると証明が見える。僕の部屋には間接照明が存在しておらず、大きな電気一つでまかなっている。イメージミニマリストに負け越してきた僕にとって、これだけが白星をあげた唯一の点だ。
しかし、晩酌で使うコップに関しては酷な状況である。お土産などで貰ったマグカップが異常に多い。シアトルのマグ、東京のマグ、誕プレのマグ、自分で買ったマグなど六個あるし、普通のコップも自分用に四つある。ちょっとした喫茶店じゃないんだからとツッコミをいれたくもなる。
お土産のもの以外は捨ててしまって、それでビールを飲むことにしよう。さすがに自分でも持ちすぎていると思っていれば、こうして決断も早くできるものだ。

と、ふと気がつく。
僕の努力の方向性は正しい方を向いているのだろうか?
イメージの中のミニマリストを目指しているけれど、それが本当のミニマリストとズレがあったら本末転倒だ。そう思い立ち、今しがたネットやYouTubeで情報を集めてみたら、腰を抜かすところだった。

ミニマリズムを突き詰めた人の家にはタオルがないと言い出した。タオルはかさばってしまうから、お風呂上がりは手拭いで髪と体を拭くらしい。
はじめの頃は全て拭き取れなかったのだが、髪型を坊主にすることでことなきを得たと言うのだ。部屋のものを減らすために、自分の存在を変化させたということである。

また、あるミニマリストのクローゼットは空っぽだった。服を減らすことにあくせくしていた僕に比べて、本物の人は一着も持っていなかった。
世の中にはエアークローゼットというものが存在していて、月額を払えば必要なぶんの服を届けてくれるサブスクのようなサービスがあるらしい。なんだそれは。
しかも好みに合わせてチョイスしてくれるようだ。レディー・ガガがサービスに加入したら会社側は大変だろうな、と思いつつ、口をあんぐり開けるばかりだった。

それにならっていくのなら、部屋に合わせて自分を変えて、お金を使ってものを減らしていくべきなのだろう。
デスクトップPCは捨ててノートパソコンにするべきだ。省スペースできたので、机は小さな一つで事足りる。いや、太ももの上に乗せればパソコンは触れるのだから机も要らないか。
本棚に収まる本はすべてブックオフに持っていこう。手元に残しておきたい本は電子書籍で買い直し、本棚は捨て去ってしまえば部屋が広くなる。スマホ一台で事足りる。
クローゼットの服はGUでリサイクルに出してしまおう。エアークローゼットでお気に入りの服が来るのだから困らないし、醤油をこぼしても自分の物じゃないから悲しくない。
上段の思い出は頭の中に残っているから捨ててしまおう。何となくもったいない気もしてくるから、70リットルの袋に入れる前に写真に納めておこう。
マグカップは全部捨てて問題なさそうだ。瓶ビールは口をつけて飲めばいいし、そもそもアルコールは嗜好品なのだから飲まなくてもいい。
スーパーに行って買い出しをすると、ものが増えるから行かない方がいい。冷蔵庫の中身がまだあるのだから、しばらく食いぶちには困らない。
冷蔵庫もオーブンも家電回収に出せばもっとスペースができそうだ。コンビニ弁当で毎日済ませばそれでいい。

素晴らしい。
ものがどんどん減っていった。
しかし、それにつられて心の方もすり減っていく気がする。ものの価値はそれ単体で評価できるものではないのか。人から見たときにはがらくたみたいなものであっても、当人から見れば宝物の可能性だってあるのだ。
こう考えてしまう僕には、本物のミニマリズムは向いていないんだろうな。
イメージミニマリストを目指して、ちゃんとお片付けをしていこうと思う。

著:藍草(https://twitter.com/aikusa_ok

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