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犬の名前

小説
テーマ『単細胞』

 学校から帰宅してリビングに入るとふさふさとした白いかたまりが足元に擦り寄ってきて、その得体の知れなさに全身に寒気が走って私の体はびくっと震えた。恐る恐るその白いものを確認すると黒く丸いつぶらな瞳が私を見ていて、口からは舌が垂れており、規則的な息遣いが聞こえてきた。

「どうしたのこの犬」

 キッチンで夕食を調理している母めがけて私は問いかけた。

「お父さんが買ってきたのよ」と母親は振り向きもしないまま怒気をはらんだ声を言った。きっと父は母にも許可を得てはいなかったのだろう。母親の表情は見えないけれど、その背中から近寄りがたいオーラを感じる。心なしかいつもより調理の際に立てる音が大きかった。

「誰が面倒を見るの?」と私が聞くと、「知らないよ」と母はため息まじりで言った。

 私は足元にすがってくる犬を払うように足を動かした。犬は私から少し距離をとってから、相変わらず黒く丸い目で私を見つめてくる。私の苛立ちに勘づいてはいないようだった。

 浴室から父の歌声がかすかに聞こえてきた。そのご機嫌な調子にますます眉間の皺が深くなる。父は母や私にプレゼントをしたつもりでいるのだろうか? きっと父は犬の面倒なんて見ないから母や私が苦労を被ることになる。大体、私は動物が好きではない。言葉が通じない自由気ままな生物を愛でる気持ちがまったくわからないし、愛嬌だけで一生をどうにかやり過ごそうとする魂胆が気に食わない。

「みんなで名前決めよう」

 ダイニングテーブルに家族が並び、焼き魚をつまみながら父は言った。リビングの端に柵が設けられていて、犬はその中から私たちのことを見ている。

「なんでもいいよ」と私は言った。私は犬と仲良くなるつもりなど微塵もなかったから、心底どうでもよかった。私は自分の苛立ちを全く隠そうとはしておらず、いっそ苛立ちが父に伝わってほしいとすら思っていた。

「家族の一員になるんだから、みんなで決めないと」

 父は笑顔で言った。私が父に対して邪険に扱うのはいつものことだったから、敵意をあらわにした私の態度にはすっかり慣れてしまっているらしい。母は黙ったまま箸を動かしていた。

 気乗りした様子が欠片もない私たちを尻目に父は盛り上がっていた。どのような名前がいいのだろうか、とひとりで案を出している。そのうち、白くてふわふわしているからという理由で綿という名前で決まったようだった。父が列挙したいくつもの名前で、唯一母が「いいんじゃない?」と口に出したことが決定打となった。父は立ち上がって、犬のもとに向かっていき、「お前は今日からワタだ」と頭をわしゃわしゃとなでる。母はなんだかんだ父に甘いから、きっと犬のことも何日かすれば受け入れて、世話をすることになるのだろう。そうなると母にばかりまかせていられないから、私も世話をする羽目になってしまうことは目に見えている。その面倒な状況を思うと、自然と深いため息が出た。

 リードの先には犬がいて、私は短い足で歩く犬に先導されていた。電柱で犬が止まり、マーキングをしはじめたので、犬が行動をやめ、動き出すのをじっと待っていた。父は片手で数えられる程度に犬の散歩して、飽きてやめた。散歩の役目は自然と母に引き継がれたけれど、頼まれるので仕方なく私もしていた。犬にはワタという名前がつけられたが、私はこの動物をそのような可愛らしい名前で呼びたくはなかった。綿というよりも埃のように思える。だから私はこの動物のことをゴミと呼んでいた。犬が何かをするたびに私はゴミと口に出して呼んだ。私が犬を呼ぶ多くは叱責であったけれど、いつも私の言葉や口調や表情を何も理解してはいないといった様子で犬は私の足元に駆け寄って、尻尾を振りながら弾んだ鳴き声をあげた。その頭の悪さも気に食わなかった。

 散歩を切り上げて家に戻った。母が用意してくれた朝ごはんを食べて、身支度を整える。登校しようと玄関に向かうと犬がついてきた。ローファーを履こうとする足にまとわりついてきてうっとおしくて、苛立ちを込めて声を発するけれど、犬はずっと尻尾を振ったままだった。

 放課後に友人とカフェで他愛もない話をしていて気がついたときには外はもう真っ暗だった。門限をほんの少しだけ越えてしまって恐る恐るリビングに入ると電気がついておらず、真っ暗闇の中で母がダイニングテーブルに突っ伏していた。どうしたのだろうと思っていると母の泣き声が聞こえてくる。どこからか犬がやってきて、いつものように私の足にまとわりついてきた。


 どうやら父が浮気したらしかった。その日から家に居づらいのか父はほとんど帰ってこなくなり、母も精神的にやられてしまったのかずっと寝室で伏せっていた。いつも家族が並んでいたダイニングテーブルには私しか座っていない。父の浮気についてはあまり詳細なことを聞くことができなかった。これからどうなるのかも私は何も知ることができなかった。そもそも父と母でまともな話し合いをしているのかすらわからない。

 父の不貞についてはどこから話が漏れたのか近所の人も知っていた。私が外を歩いているといつも誰かが私の方を見ながらひそひそと何かを話している声が聞こえた。そしてそれは学校でも同じだった。私の父がしたことに私は関係がないはずなのだけれど、いつもつるんでいて仲が良いと思っていた友人にも距離を置かれて、私は教室で孤立してしまっていた。

 リビングのソファにひとりで座っていると足元に犬がいた。尻尾を振りながら以前と同じ黒く丸い目で私を見ている。前と変わらず同じように接してくれるのは犬だけだった。私はその犬のことを見ていると涙が出てしまいそうになった。私ははじめて犬のことをワタと呼んだ。犬は何も反応しなかった。何度呼んでも犬はただこちらをじっと見ているだけだった。試しにゴミと呼んでみた。すると犬はワンと楽しげな声を出して、私の足に擦り寄ってきた。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma

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