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十徳ナイフを投げよう

エッセイ
テーマ『刃物』

中学三年生の秋ごろ、教室の後方で十徳ナイフがしきりに飛んでいた。学校祭で使用して余った発泡スチロールが窓際に放置されており、描いた的にナイフを投げて遊んでいたのだ。
高校受験に向けた勉強のストレスをぶつけるように、あるいはすんなりと刃物が刺さっていくのを楽しむかのように、男子たちはこぞって百均の十徳ナイフをポケットから取り出しては、スナップを効かせて点数を競った。

いま考えてみればとんでもなく荒れたクラスである。どんな理由があろうとも、刃物が飛び交っていい環境なんてある筈がない。
僕たちは小賢しい頭を持っていたので、的が描かれボロボロになった面を休み時間の度に裏返し、窓の外から見られることがないようにカーテンを目隠し代わりにして外からの発見にも対策をした。授業中に見えるオモテ面には絵が得意なクラスメイトがイラストを描くことで気軽に捨てられることを防いだ。
下校時にカーテンが束ねられてからも気づかれないよう、帰りの掃除の際には的の上に白い紙を貼り付けてカモフラージュ。そうまでしてナイフを投げたいのかと首を捻りたくもなるけれど、日々の鬱憤を晴らしながら友達と楽しめるダーツみたいなものだったのだと思う。

ナイフを投げ始めてしばらく経ち、十徳ナイフにも飽きてきた頃、今度は紙飛行機の先端にカッターの刃を着けて的を狙う遊びに進化した。
かねてからのナイフであればコントロールを取れるようになったので、プレイヤーの精度が上がりすぎたが故の発展だった。どう考えても阿呆でしかない。
紙飛行機は不安定な動きをするため、ブルにはなかなか刺さらなかった。より綺麗な折り目で仕上げたときには真っ直ぐに飛んでいくのだけれど、刃の重みで前傾姿勢になってしまって、上手いこと突き刺さらないこともあった。
難易度が上がったことで試行錯誤する楽しみも加わる。
様々な機体を試していたら、随分とトリッキーな動きを見せるものが出来上がって、友人の手から放たれた飛行機が女子の座る目の前の机に墜落したこともあった。
思わず悲鳴が上がったがそれすらも楽しんでいる謎の空気感があった。

こんなクラスは「今日から俺は!!」に出てくるようなダサ坊的ヤンキーがよく似合うものだが、そういう風貌の生徒は誰一人としていなかった。
それどころか基本的にみんな頭がよかった。受験に向けての模試で偏差値60前後をキープしていた僕の順位は、いつもクラスで中堅くらいだった。偏差値って50が平均じゃないのか?といつも落胆していた覚えがある。
受験の結果も市内で名の通った賢い高校に進学した人が多かったし、滑り止めに落ち着いたクラスメイトは二、三人くらいしかいなかった。堅実さまで持ち合わせている。
そのくせ教室では十徳ナイフと殺傷紙飛行機が飛び交う。

ブレザーの制服だった僕たちは毎日ネクタイを締めて登校していた。入学したての頃は上手に結ぶのもやっとだったのだが、三年生にもなれば、首もとの結び目がどれだけ綺麗かが一つのドヤ顔ポイントになる。
みんなの結び目が整ってきたある日から、垂れたネクタイの二本の内、前面のものを思いっきり引っ張れば玉が小さくなることに誰かが気づいた。それからネクタイの手前の紐を引っ張って嫌がらせをする遊びが流行り始めた。
休み時間になれば廊下で男子たちが向かい合い、お互いのネクタイを狙っている光景がよくみられた。獲物同士のにらみ合いはサバンナのドキュメンタリーもかくやというところだった。
その内、教師がそれに気づき何度も注意していたけれど辞めることはしなかった結果、僕らが卒業した年の新入生からはネクタイは全てピンで止めるものになったのだった。

そんな風に変なイタズラや遊びばかりが流行っていた。
スティックのりのキャップを着けた状態で芯を出すように回していけば、空気圧の関係で蓋が飛ぶことを発見したから、教師の頭を狙って打ったりした。
8×4を教室の入口の床に吹き掛けて滑りやすくしたり、黒板消しクリーナーの中身をいじって吸い込まなくしたり、コンセントにそれぞれシャー芯を1本ずつ差し込み、その上にもう一本を載せることでショートさせようとしたこともあった。
どう考えてもやんちゃが過ぎる。
それでいていじめはなかった。いじめっ子体質なクラスメイトが浮いてしまう環境にあったから、途中から彼らも一緒になって悪ふざけをしていた。
たまにクラスのカーストの上にいたからいじめていたことに気づかないだけだ、という理論も聞くけれど、僕は特に上ではないし下でもなかった。そもそもそういう概念がなくて、全員が仲良くナイフを投げるというかなり稀な環境だったのだと今になって思う。

やっていたことはもちろん最悪だ。たまたま人を傷つけないで済んだり、器物破損にならなかったり(発泡スチロールはもとからゴミだったのでセーフとして)しただけで、そうなる可能性はかなりの確率で含まれていた。
それでも僕はこの時期のおかげでけっこういいことを知れたように思ってもいる。
真面目な顔でいることが真面目な態度であると考えるのは、本当に不真面目な態度だろう、ということだ。

真剣な姿勢で授業を聞き流しているくらいなら、片耳で隠れて音楽でも聞きながら話も聞いて板書をしていた方が良い。
四六時中背筋を伸ばして晩御飯のことを考えながら、途切れる思考で資料を作っている暇があるなら、煙草休憩でも挟みながら要点を押さえて仕事を進めた方が効率が良い。
態度と出力は合致しない。素行の悪さが過程と結果に完全に結び付くわけでもない。

取り繕うことで難を逃れようとするのは、変に賢い頭を持った人間の隠れ蓑である気がする。注意されたくないという自分本意があまりにも前に出すぎている。
十徳ナイフを投げろとまでは言わないけれど、本当の自分の態度を明け透けに見せつけながら、やるべきことをこなすことこそが、本当の真面目な態度であると学んだ義務教育の最後の一年間だった。

著:藍草(https://twitter.com/aikusa_ok)

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