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短編小説 「八月の呻吟」 1

3-1   八月十二日


薄い黄色のワンピースを着て左手に白いレースの日傘をさし、右手にスーパーのビニール袋を下げ、右肩にかかっているショルダーバックは今にもずり落ちそうに細い肩にしがみついている。
白川妙子は昭和の時代を象徴するようなこの町を家に向かってゆっくりでもなく、かといって急いでる風でもなく、34才の女性としてごく普通の歩幅で歩いている。
電車通りの横を抜けて、陸橋をを渡り、広い空き地の横をまっすぐ前を向いて歩いている。以前大きな病院があった跡地は空き地のまま放置され、そこに生える名も知れぬ草花は八月の熱い日差しに茶色くなって枯れてるものや、枯れかかって首がだらりと垂れているものばかりで、長い間雨が降らなかったことを物語っている。
こんな八月の暑い昼下がりに買い物になど出ている人はなく、ときどき自家用車や配達途中の軽トラックが通るだけだ。それらの車が通るたびにそこらへんの空気が掻き乱され熱を帯びた風が否応なしに舞い上がる。
妙子は自分の意思ではなく、誰かに命令されて仕方なくそこを歩いているように、スーパーの袋に入っている物を気遣うこともなく、滴る汗を拭うこともなく、日傘を持つ角度も変わることなくまっすぐ前を見て兵隊のように同じ歩幅で歩いていた。ただ履いている白いサンダルの細いストラップが足首に食い込み、その痛みで時々右足だけびっこを引くような歩き方になってしまっている。妙子はそんなことにもたぶん気づいてないのだろう。何があろうと目は相変わらずまっすぐ前を見たままだ。
スーパーのビニール袋からは水滴のようなものが漏れていた。それは氷が溶けるときのようなイメージで白い袋の中で何かが変化していた。漏れる水滴は時々地面に落ちるているようだが、地面に落ちた水滴はあっという間に太陽の熱によって乾いてしまう。
空き地の端まで来たところで妙子は一度立ち止まる。
日傘を左へ少し傾け、目を細めて空を見上げる。そしてすぐに元の姿勢に戻りまた規則正しく歩き出す。
しばらく歩くと人工的に作られた小さな川があり、そこに掛かる小さな橋を渡る。
橋を渡った右の角に2階建てのアパートがある。外側についている階段の横に『みなと荘』という文字が見える。白い板に黒い文字で書かれたその文字も風化によって白いところが茶色っぽくなり、黒い文字が目を凝らさないと見えないくらいに色褪せたものになっていた。
錆の目立つ鉄製で作られた階段を、カランカランというサンダルの音を響かせながら妙子は2階へと上がって行った。
3つ並んだ部屋の真ん中で立ち止まり、日傘を畳み玄関横にある窓の格子部分に引っ掛けてショルダーバックから鍵を出す。鍵穴に鍵を差し込む前にドアを数秒見つめて意を決したたように鍵を開けた。
下を流れる川の音がかすかに聞こえて、妙子は後ろを振り返った。小さな子供の手をひいた母親が橋を渡っている。その母親と目が合う。
妙子はゆっくりと部屋の方に向き直し、ドアノブを引いてドアを開けた。
部屋の中からは、夏特有の蒸れた匂いに混じって確実に何かが腐っているような饐えた匂いが一気に妙子の方へと押し寄せてきた。


 つづく 


3話完結の予定です。


読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。