見出し画像

混沌が閉じ込められた部屋


一歩進むごとに、過去の一歩が失くなっていく。
いつかこの場所もゼロになってしまうのだろう。

『霜柱を踏みながら 8』


ある日、唐突に父が家出をした。ある日...などと呑気に表現するにはあまりの出来事に我が家は、特に母は狂うかと思うほど狼狽えていた。父は数日分の着替えと我が家の全財産が入った貯金通帳を持ってメモ書きひとつ残さず家出した。

朝から「お父さんがいなくなった」と大騒ぎする母を、何が起こったのか把握できない私はぼんやりと見つめるしかなかった。11才の夏休みを母の実家で過ごし、夏休みの最終日にここに戻ってきたばかりの出来事だった。「お父さんがいなくなった。お金を全部持っていった」その言葉を半泣きになりながら何度も何度も繰り返す母。父の知人や友人に電話してどこに行ったか知らないかと問いただしている。誰も何も知らないようだった。私は家出なんて子供が親に反抗するためにするものだと思っていた。大人でも家出なんてするのだろうかといろいろ想像してもその理由がわかるはずもなかった。それよりあのおとなしい父と家出という言葉が結びつかず、母とは違う意味でその事実に驚きを覚えた。

母は数日すると少し落ち着いたようで仕事を開始した。諦めたのか、他に何かがあったのか私にはわからなかったが、父がいないというだけで私の生活は何ひとつ変わらなかった。1ヶ月後ひょっこりと父が帰ってきた。まるで銭湯から帰ってきた時のようにひょっこりと玄関に現れた。通帳にあったお金を使い果たし一文なしで帰ってきた。謝罪の言葉などなく、荷物を置いて自分の部屋にこもってしまった。

その夜から我が家では嵐のような毎日が始まった。

学校から帰ると、その日は珍しく母が家にいた。「ちょっと一緒に来てちょうだい」と、私はランドセルを置く間もなく母に連れられて電車に乗った。「どこに行くの?」と何度尋ねても「黙ってついてきなさい」と言うだけで説明はなく、その狂気を含んだ母の横顔が怖くてそれ以上何も聞けなかった。ふた駅先の駅で降りてしばらく歩かされ、何の変哲もない2階建てのアパートの2階の一室の前で止まって母は呼び鈴を押した。中から出てきたのは私の知らない男の人だった。ドキドキしていた。意味もわからずドキドキしてた。

ここから先は

1,328字
このマガジンは私の私小説風のエッセイで、月に3本くらい2000文字前後の作品を投稿していく予定です。一回の購入(100円)でマガジン内すべての作品が読めるようになっています。興味のある方はよろしくお願いします。

私小説です。時系列でなく、思い出した順番で書いてます。私の個人的な思い出の物語です。

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。