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行間を読むという不毛と意義

2022.6.3(金曜日) Line spacing

晴れている。
そして暑い。

暑いが出かけることにした私。
街を歩きながらいろいろ考えごと。

「そのセリフはそういう意味じゃないだろ!もっと役の心の奥を知れ!」
演劇をやっていた頃、何度そういう叱責を受けただろう。
行間をうまく読めない役者がそうやって演出家から叱責をくらうのは珍しい光景ではない。
そういう苦行をしたせいか行間を読むのは得意になったが、そうでない方と接する時にとても苦労する。
私はこの一言で充分だろうと思うことが相手には伝わらない。
でもそれは相手の能力が低いということではなくて、この一言で伝わるはずだという私の奢りがそうさせているのだと思う。
「行けたら行きます……」は、ほぼ行く気がない時だし、
「こちらから連絡します……」は、あなたから連絡しないで下さいってことだ。
その「……」の部分を行間というなら、私の場合は意義ある会話だが、行間なんて読む気がない(あるいは、読めない)人にとっては不毛な会話なんだろうなと思う。

私が語る(書く)言葉は演劇の台本のようだと言う人がいる。
これは褒め言葉ではない。批判されているのだ。
はっきり言わないと伝わらないと言いたいのであろう。
私は正直めんどくさい。
「わからないならもういいよ」となってしまう。

だんだん私の中から言葉が消えていくようだ。
言葉で何かを伝えるっとほんとにめんどくさい。

そんな時、今日の朝刊のある部分に茨木のり子さんの言葉が載っていた。

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

茨木のり子・「自分の感受性くらい」より一部抜粋

あらっ、なんて的確な。
後ろからズドンと撃ち抜かれたみたい。
自分の感受性にドギマギしながら「めんどくさい」だなんて、
何の覚悟もない生き方だなと思った。
このままでいい。
めんどくさがらずにこのままいこうと思った。

今日も街で犬を見た。
最初猫かと思ったほど小さな犬。
うちの猫より小さくて華奢。
踏んづけそうになりながら追い越した。

暑い。
アイスチャイラテをテイクアウトして帰ろう。

読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。